第5詩集。141頁に37編を収める。
「苦い蜜」では、話者は三鷹駅前の歩道橋の上で父のことを思っている。そこは「地面への断崖となって」いて、「悲鳴を必要とする世界」が穴をあけている場所なのだ。このように、ある風景、ある場所に出会うことが、自分の深いところからの思いを探り当てることに繋がることはあるだろう。父とは疎遠になっており、「わたしのからだには/苦い蜜が塗り込まれている」のだ。作品では、個人的な疎遠の原因などではなく、その疎遠に向きあった話者の戸惑いが描かれる。個々の事実ではなく、そこから抽出されたものを描いている。最終部分は、雨が降り「断片的に翳るから」、
今日があてにできなくて
過去を知りたくなり
窓を拭く人たちの仲間になろうとする
あとひと拭きで
若い父が見えてくる
話者は、自分を覆っている”苦い蜜”を拭き取り、疎遠の向こう側にいる父をもう一度見つめたいと願っている。
多くの作品の異国の地で、また日本の雑踏の中で、話者は他者に溶けこもうとしているようにも思える。「知られたくなかった自分の名前」があったり(「この町のルール」)、初めて会った人と「別の町のことを話して」いたりする(「対岸の人」)。そこには疎外感もあるのだろう。
そして、いったい何を作品に書けばよいのか。いや、何があったから作品を書くのかと自問する(「日記に書くこと」)。それは、やはり言葉でこの世の中を彷徨うようなことなのだ。少なからぬ作品にあらわれる芙美子なる人物の放浪は、その具現化であろう。
「越えていく」では、「こころが忘れたがっていることを/手が引きとめている」という。そうして忘れることができないものを背負い続けているのだろう。
何度も生きて
何度もつまづいて
それなのに何もつかめないのは
からだのなかにわずかな傾きがあるからだ
いつかもっと凶暴に傾くまで
傾斜を育てていく
よく判る感覚であり、思いである。徹底的に傾けば、背負ったままでも境界を越えることができるだろうという覚悟、そして決意が感じられる。
「窓を増やす」については詩誌発表時に簡単な感想を書いている。
「苦い蜜」では、話者は三鷹駅前の歩道橋の上で父のことを思っている。そこは「地面への断崖となって」いて、「悲鳴を必要とする世界」が穴をあけている場所なのだ。このように、ある風景、ある場所に出会うことが、自分の深いところからの思いを探り当てることに繋がることはあるだろう。父とは疎遠になっており、「わたしのからだには/苦い蜜が塗り込まれている」のだ。作品では、個人的な疎遠の原因などではなく、その疎遠に向きあった話者の戸惑いが描かれる。個々の事実ではなく、そこから抽出されたものを描いている。最終部分は、雨が降り「断片的に翳るから」、
今日があてにできなくて
過去を知りたくなり
窓を拭く人たちの仲間になろうとする
あとひと拭きで
若い父が見えてくる
話者は、自分を覆っている”苦い蜜”を拭き取り、疎遠の向こう側にいる父をもう一度見つめたいと願っている。
多くの作品の異国の地で、また日本の雑踏の中で、話者は他者に溶けこもうとしているようにも思える。「知られたくなかった自分の名前」があったり(「この町のルール」)、初めて会った人と「別の町のことを話して」いたりする(「対岸の人」)。そこには疎外感もあるのだろう。
そして、いったい何を作品に書けばよいのか。いや、何があったから作品を書くのかと自問する(「日記に書くこと」)。それは、やはり言葉でこの世の中を彷徨うようなことなのだ。少なからぬ作品にあらわれる芙美子なる人物の放浪は、その具現化であろう。
「越えていく」では、「こころが忘れたがっていることを/手が引きとめている」という。そうして忘れることができないものを背負い続けているのだろう。
何度も生きて
何度もつまづいて
それなのに何もつかめないのは
からだのなかにわずかな傾きがあるからだ
いつかもっと凶暴に傾くまで
傾斜を育てていく
よく判る感覚であり、思いである。徹底的に傾けば、背負ったままでも境界を越えることができるだろうという覚悟、そして決意が感じられる。
「窓を増やす」については詩誌発表時に簡単な感想を書いている。
拙詩について、詳細に読み取っていただき、ありがとうございます。感謝申し上げます。