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瀬崎祐の本棚

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詩集「あおいせい」 中林稜 (2024/11) 私家版

2025-05-21 11:26:51 | 詩集
94頁に28編を収める。
カニエナハの帯文には「中林稜の詩の器の中で、水溶する言葉たちが、せいの未分の領域へと遡行し始める。この創痍の世紀の意識化の、水面を柔く揺らしつづける。」とある。

「差異」は1行ごとが長めの7行からなり、「微妙に揺れる 面影を追いながら 景色を順繰りに 滑っていく」と始まる。この作品をはじめとして、収載されている作品は断片的なつぶやきのような記述によって全体としての風景を描こうとしている。読み手はそのつぶやきの隙間にあるものを自分で埋めながら作品を歩むことになる。わたしには「愚かな蜜」があり、あたりを見渡すあなたの膝の下を「なめまわすように 不純物が過ぎていく」のである。最終2行は、

   大きな根本で 眠る あなたの厳かな 子宮は 勾玉のような態勢で
   置き忘れていいのか 歯がゆい街で

このような作品が安易に作られると、単なる言葉の連なりでしかないものになってしまう。緊張感をたたえたそうでないものとの差異は、言葉が切実さを孕んでいるか否かではないだろうか。作者にその作品に賭ける切実さがない場合、並ぶ言葉は何も担うことができず、うわべだけの意味以上のものを運んでくることはできないだろう。この作品は言葉のうわべの意味を振り払った所にまで向かっているようだった。、

「うお」は10行の短い作品。「魚の目をさばくことで/遠くで音が報われる」と始まるが、ここでも合理的な因果関係は放棄されている。後半の5行は、

   丁寧に制裁を加えられた音響
   許されることのない罪業に名前がなくて
   名前を付けることで
   小さくなった魂の
   喪服を脱いだ

言葉は読み手との間に干渉のようなものをもたらす。ある読み手には波動を起こす作品が、別の読み手には凪いだままになる。すでにそれは作者の手を離れた地点でのできごとになる。作者はその地点に向かって作品を送り出すことしかできないわけだから、切実にならざるを得ないのだ。
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