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評論「投壜通信」の詩人たち 細見和之 (2018/03) 岩波書店

2018-05-07 20:35:09 | 詩集
エドガー・ポーからパウル・ツェランにいたる6人、4カ国語の詩人を考察している。年代でいえば1830年代から1970年代となる。タイトルにある”投壜通信”とは、難破船の船乗りが自らの死にいたるときまで書きつづける言葉の謂いである。

 ポーといえば、一般的には探偵小説の祖として知られるが、詩「大鴉」の作者でもあったのだ。ボードレールは大きな影響を受けポーの詩のフランス語訳を熱心におこなったという。そして本書はマラルメ、ヴァレリー、エリオットと考察される。

 5人目の詩人がイツハク・カツェネルソンなのだが、寡聞にして私はこの詩人のことは何も知らなかった。しかし、このユダヤ人の詩人こそがホロコーストのただ中で詩を書いたのである。ワルシャワ・ゲットーで、ヴィッテル収容所で。彼の最後の作品「滅ぼされたユダヤの民の歌」は、手書き原稿が文字通り瓶に詰められ収容所の地に埋められていたのだという。本稿では「あのような状況下で詩を書くということの意味について」考察されている。重さを持った章であった。

 ツェランについては2章がさかれている。なかでも興味深かったのは作品「死のフーガ」についての考察である。この作品は友人であったヴァイスグラースの作品「彼」を「一種の先行形態としている」という指摘である。もちろんそこでは二つの作品の詳細な比較検討や古い新聞記事の検証などがおこなわれている。二つの作品のどちらが先だったのか、ということについては、実は、2年前に細見氏を倉敷の詩の勉強会へ招聘したときに、まだ十分にはまとまっていないのですが、ということで聞いていた。その時の細見氏の考えた根拠が面白かった。いわく、「死のフーガ」を読んだあとで詩人たるものがわざわざ「彼」を書こうと思いますか? これにはなるほどであった。まったく理論的根拠ではないのだが、詩人なら容易に頷いてしまう推察であった。

 孫引きになるが、飯吉光夫訳のツェランの講演の一節を引いておく。

    詩は言葉の一形態であり、その本質上対話的なものである以上、いつの
   日にかはどこかの岸辺に--おそらくは心の岸辺に--流れつくという
   (かならずしもいつも期待にみちてはいない)信念の下に投げこまれる投
   壜通信のような者かも知れません。
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