瀬崎祐の本棚

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詩集「からだを洗っていると」 髙橋達矢 (2020/09) 思潮社

2020-12-01 17:57:08 | 詩集
 第1詩集。89頁に36編を収める。
 巻頭に表題作「からだを洗っていると」がある。1連4行で3連の構成となっている。1連目、からだを洗っているわたしに父がとりついて「くらい世で父がわたしを洗って父自身を洗っている/わたしはもう死に体となってここでからだを洗われている」。2連では、今度はわたしが息子にとりついてからだを洗っているのである。このからだを洗うという行為には、様々なもので汚れて疲れきった相手を清めてやりたいという願いがあるのだろうか。理屈を越えて、男として受けつがれた血脈というものもあるのだろう。最終連は、

   老いたからだからふとい根っこが突きでたり
   若いからだから貝殻のような骨がこぼれたり
   白い石室でからだを洗っていると
   かたちをうしなってまじわっているものがある

表面上はすっきりと書かれているが、孕んでいるものは大変に重く、底の方には死の予感が澱んでいるようでもある。

 この作品の次に置かれた「ふたり」では、よわっている病室の父と見舞いに来た五十の息子が互いにすがりあいながらトイレに行く。「たがいの添え木としてふるえ」ている様が切ない。一日はそうして暮れていくのである。

 本詩集は三部構成となっているが、Ⅱには13編の機知に富んだ短い作品が集められている。たとえば「宴会場」。死ぬ人がわたしにあいさつしてきて、死ぬわたしも相づちをうっている。8行の作品の最終2行は、

   エアコンの風が吹いていて
   ホールの隅のほうは草地になっている

ここでも宴会という本来は華やかな交流の場は死に彩られた場になっている。

 最後から2番目に置かれた「洗いたい岸」では、うちからにじんでくる汚れをくろい泪やあかい脂で洗っている。何をそれほどまでに洗わなければならないのかの説明はなく、ただ洗わなければならない切羽詰まった心情が描かれる。

   水を浄めるからだを だれももたない
   河辺で焼かれる人と汚れてつながっている
   燃えてむつみ合い 灰としてまざり合う
   水面にゆれるほかげ 死と生のあわい
   火で洗われるからだよ

 燃えること以外ではこの汚れを取ることはできないからだだったのか。話者は父母から生を受けているわけだが、話者が感じているのは生きていること自体の汚れのようにも思えてくる。

 最後の作品「湯の峰」では亡くなった父母と一緒に湯に浸かっている。「病んだまま甦っていいのです」と、自分のなかに居る父母を受け入れている。最終部分は、

   つづいてはほどけ
   ほどけてはむすぶ
   はてのない道行きです

暗い情感にあふれた詩集だった。
コメント
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