第5詩集。112頁に24編を収める。
「おがみ愛玩動物雑貨店」。その店には小動物を入れたケージが重なっていて、背中のこどもをあやす割烹着姿のおかみさんがいる。おじさんは屋上で伝書鳩をたくさん飼っている。おばさんとおじさんは忙しそうに日々を送っているようなのだが、最終部分は、
おじさんと
おばさんが話しているところは
見たことなく
店の奥の住まいにつづく硝子戸のなかには
何にんのこどもがいるのだろう
親しげによく知っていると思っているのは外から見える部分だけで、本当は、怖ろしい事柄が隠されているのかも知れない。日常生活で接する他人など、そんなものなのかも知れない。
「行方しらず」。どこかに向かっている人たちがいる。恐怖から逃げているようでもあり、理想を追い求めているようでもある。とにかくここではないどこかへ行こうとしているのだろう。すると潜水橋に出会う。水の流れに隠されていても、そこには辿ることのできる道があるわけだ。しかし、
潜水橋は
ゆだんならず
深いようで あさくあり
りょうてをふり、なにかを叫びながらむこう岸に辿りついた人もいる。その人たちが渡ったものは何だったのだろうか。そんなところを渡ってしまったら、どこへ辿りつくのだろうか。
この作品の次に置かれた「行方しらず そして」では、潜水橋をわたりおえた人たちが次第にいなくなってしまうようだ。わたしたちはアセチレンランプを灯して歩いていくのだが、
ひとつひとつ 離れて
ランプの灯りが
連なって
はるかむこうの なだらかな稜線をうごいていくのが
みえる
わたしも
あそこに行くのだろうか
最後に置かれた「行方しらず やがて」では、「やっと辿りついた砂の上」なのだが、「まだまだ さきだと/くぐもった声で」おとこがいうのだ。そして本当に行方しらずになっていくのだ。
「後記」には、「暢気者として過ごしているように見えているだろう自分」も「人の生の陰翳」や「逃れようのない困難」から「言葉に縋るように、書き続けて」きたとあった。たしかにそれだけの重みを感じさせる詩集だった。
「おがみ愛玩動物雑貨店」。その店には小動物を入れたケージが重なっていて、背中のこどもをあやす割烹着姿のおかみさんがいる。おじさんは屋上で伝書鳩をたくさん飼っている。おばさんとおじさんは忙しそうに日々を送っているようなのだが、最終部分は、
おじさんと
おばさんが話しているところは
見たことなく
店の奥の住まいにつづく硝子戸のなかには
何にんのこどもがいるのだろう
親しげによく知っていると思っているのは外から見える部分だけで、本当は、怖ろしい事柄が隠されているのかも知れない。日常生活で接する他人など、そんなものなのかも知れない。
「行方しらず」。どこかに向かっている人たちがいる。恐怖から逃げているようでもあり、理想を追い求めているようでもある。とにかくここではないどこかへ行こうとしているのだろう。すると潜水橋に出会う。水の流れに隠されていても、そこには辿ることのできる道があるわけだ。しかし、
潜水橋は
ゆだんならず
深いようで あさくあり
りょうてをふり、なにかを叫びながらむこう岸に辿りついた人もいる。その人たちが渡ったものは何だったのだろうか。そんなところを渡ってしまったら、どこへ辿りつくのだろうか。
この作品の次に置かれた「行方しらず そして」では、潜水橋をわたりおえた人たちが次第にいなくなってしまうようだ。わたしたちはアセチレンランプを灯して歩いていくのだが、
ひとつひとつ 離れて
ランプの灯りが
連なって
はるかむこうの なだらかな稜線をうごいていくのが
みえる
わたしも
あそこに行くのだろうか
最後に置かれた「行方しらず やがて」では、「やっと辿りついた砂の上」なのだが、「まだまだ さきだと/くぐもった声で」おとこがいうのだ。そして本当に行方しらずになっていくのだ。
「後記」には、「暢気者として過ごしているように見えているだろう自分」も「人の生の陰翳」や「逃れようのない困難」から「言葉に縋るように、書き続けて」きたとあった。たしかにそれだけの重みを感じさせる詩集だった。