瀬崎祐の本棚

http://blog.goo.ne.jp/tak4088

詩集「地図をはずれて」 谷口ちかえ (2024/11) 思潮社

2025-02-17 20:20:25 | 詩集
126頁に28編を収める。

作者の既詩集には「地図のかなたへ」というタイトルのものもあった。本詩集でも作者は「地図をひろげて/次ぎに行くべきところを探している」(「地図のはずれで」冒頭)と記している。作者にはつねに、ここではないどこかへ、という希求があるのだろう。

その地図は我が国にとどまらない。作者はかつては日本詩人クラブで海外交流担当理事をしており、海外への視点が根底にあるようだ。「わたしの在処」ではトリニダードが舞台になり、「白いハイチ」や「ナイト・メア」はハイチが詩われていた。

「凶日(アシュヴ・ディン)旅情」は友人と旅したインドを舞台にした作品で4つの章からなっている。友人の布製バッグは横一文字に切り裂かれてお金も携帯も盗難に遭う。旅先での災難なのだが、作者にはそれも旅だと捉えているような覚悟のようなものがうかがえる。

   この鮮烈な切り口は いただき!
   そこから見残したインドがきっと見える と覗くたび
   〈もう一度お行き〉と囁く その口

通常、旅と言えば物理的な身体の移動を考える。しかし、時が流れるということは、地図の上での居場所は同じでも、考え方によってはそれだけで旅をしているのと同じ事にもなるのではないだろうか。そんな旅をつづけていれば、いつしかの居場所は過去のものとなっていく。
「家の本音」では、「荒々しく波だつ歳月は」四十年も経つ家の「外部からやって」きていたのだ。そして「何かが棲むようになった」のだ。

   〈ごめんください〉
   わたしはいつしか訪問者の顔になり
   固く閉ざされた扉の前に立つ

この家には本当は何が棲んでいたのか。最終行は、「そのとききっと わたしたちもまた暴かれる」

地図は先人がその地を訪れて記したものである。作者はそんな先人の跡をたどるのではなく、自分だけの地図を描くために地図をはなれて「次ぎに行くべきところ」を探しているのだろう。
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詩誌「ネビューラ」  91号  (2025/01)  岡山

2025-02-12 13:27:20 | 「な行」で始まる詩誌
詩誌創刊時から代表をされていた壺阪輝代氏が昨年10月に亡くなられた。享年82歳だった。
今号は追悼号となっており、同人をはじめとした関係者21人が追悼文を寄せている。多くの人に信頼され、また多くの人の詩作を励まし続けてこられた方であったことがよくわかる。

壺阪氏は20歳の時に詩誌「裸足」に参加し、発行者の坂本明子氏の逝去にともなって同誌が終刊を迎えたあとを継ぐように、56歳時に詩誌「ネビューラ」を創刊している。
以来20数年間にわたって同誌を支えてこられたのだ。

個人的には、同じ岡山県詩人協会の理事として長く仕事をしてきた。
面倒くさい業務など、こちらが少し手抜きをしようと考えても、壺阪さんはきちっと筋を通してこられる方だった。

その人柄は作品にもよくあらわれていた。
「探り箸」、「三日箸」などさまざまな箸を題材にした作品では、その行為の裏に広がる人間模様、隠されている人生模様を端的な言葉で詩っていた。

亡くなられる1年前からは中四国詩人会会長職を懇願されて引き受けておられた。就任直後に協力要請の電話をもらったりしたのだが、大変だったと思う。
昨年5月に私たちの「どぅるかまら」は岡山後楽園の廉池軒を借り切っての朗読会をおこなった。他詩誌の方たちにも参加してもらったのだが、壺阪氏は変わりないご様子で参加して自作詩を朗読されていた。そのすぐ後に病が見つかったのであろう。

今号では壺阪氏の作品抄も組んでいて、これまでの10冊の詩集からの作品が載っている。
最後に置かれている「深夜瞑想」は亡くなられる3か月前に書かれた作品である。

   深夜
   八十二年のわが生涯を想う
   だれのもとにもやってくるおわりの日
   その日が
   --おだやかでありますように
   祈りのなかで
   今日を終える

おそらく亡くなられた後に見つかった詩稿なのだろう。身内以外の人には同人誌仲間にも病状を語ることなしに静かに旅立たれたようだ。
ご冥福をお祈りします。
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詩集「骨霊譚」 川上明日夫 (2024/04) 山吹文庫

2025-02-07 17:52:20 | 詩集
共著、文庫なども加えると第19詩集だろうか。99頁に13編を収める。

しばらく前から作者の詩集作品には”死”の気配が色濃く漂っている。前詩集でも「白骨草 もう咲きましたか」と繰り返し問いかけたり、「死がひっそり 傘をさし 待っていてくれました」と詩ったりしていた。

この詩集でも一度出たら「もう帰れない 帰らない」改札口で「とおい改札 すま/せましたか」と尋ねてくる(「改札口の秋」)。そして風は「骨だらけの 賽の河原」を吹きぬけ、骨の聲が泣き、骨のない聲を聴いている(「骨霊譚」)。齢を重ねるにつれて誰でもが生と死の境界は次第に低くなっていくだろう。そこには改札口もあるのだろうが、いつそこを通ることになるかも判らないわけだ。その時がくることへの覚悟もあるのだろう。

「時雨、沁みる人がいます」も諦観の人が語っている作品。時雨を聴いているのは「沁みる人」で「ひりひり 痛い人」だと言う。染まらない思いを傍らに沈めてゆくのだという。

    痛いのです
   通り雨が
   夕陽のように たまさかに まだ
   此の世に 淀んで
   ええ 余波(なごり)のよう
   ひりひり 暮れて ゆくのですよ

言葉の間に頻繁に差し込まれる空白が、視覚的にも途切れがちな息づかいを思わせる。最終部分は、「みあげれば/今夜 カラカラ 骨が泣いています」。

「咲いている草・そこに風景」には「ああ 人の抜け殻は 淋しい」と呟いている人がいる。「骨の空」の下で「いま 壺が泣いていますよ」と詩う。

   そっと
   涙壺
   しがらみ 浮かべ
   紙魚て
     徒然
   泣いていましたよ

   どうも私に すこし似てきているようです

   詩は 咲いている草 穢れですか

どの作品でも話者は向かいあう人に語りかけ、そして尋ねている。自分の内側にゆっくりと溜まって、ついにはあふれ出してきているものがあるのだろう。どこまでも死を見つめ続けているような詩集であった。
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詩誌「森羅」 50号  (2025/01) 東京

2025-02-04 22:31:15 | 「さ行」で始まる詩誌
池井昌樹「だいじょぶよ」には、「だいじょぶか」と問われている話者がいる。何かを抱えた話者はぢべたにあおむけであめにうたれていたのだ。と、だいじょぶかと問うささやきが空から聞こえたのだ。

   だいじょぶか
   あのささやきに
   ふりかえり
   だいじょぶよ
   こころはそっとうなずいて
   なつかしいそらへきえた

詳細は不明だが辛く哀しいことがあったのだろう。ここには複雑に絡み合った葛藤などの果てに辿りついて覚悟が感じられる。自分へ向けられた気遣いを柔らかく受け止めて立ち上がる話者がいる。この作品だけを鑑賞した場合はこのような感想になる。

しかし、この作品の始めには、新川和江の詩行が添えられているのだ。それは、

   だいじょぶよ もう じぶんの影が
   道ばたの草といっしょにたよりなく揺れても
   わたしがすっかり居なくなっても

これは2008年の文藝春秋に載った「陽よ」と題した新川の作品の最終3行である。池井は「追詩」で新川和江の「陽よ」が二度書かれていたことを記している。2012年刊の詩集「千度呼べば」に収められた「陽よ」は同名作品であるのだが、同じ感情を詩いながらも作品の表現は大きく異なっている。池井は詩集を編む際の改作ではあるまいと考えている。そして「別種のいのちを宿した別種の「陽よ」だった」としている。

私(瀬崎)は二つの「陽よ」の間にあったものについても考えさせられたのだが、それ以上に池井が文藝春秋版「陽よ」を受けて作品を書いたという点に惹かれた。新川が晩年になって「わたしがすっかり居なくなっても」と書いた詩行には「『けれども詩とは袂別(わか)れない』というさらに大きな覚醒」が貫流していたと池井は読んだのだ。その上で「だいじょうぶよ」という囁きを聞き取ったのだ。伝える者から伝え聞く者へ。大いなる継承がここにあったのだ。

それに、池井が紹介してくれなかったら、私は文藝春秋版の「陽よ」を知ることはなかっただろう。この作品を読むことが出来て好かった。

「後記」では池井は新川和江、谷川俊太郎という去っていった「巨きな詩魂」についての逸話を書いている。微笑ましいような、つい居ずまいを正ししまうような、そんなお二人の逸話だった。
(文中では故人の敬称も略しました。)
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詩集「その日も曇天で」 野木ともみ (2025/01) 思潮社

2025-01-29 23:12:36 | 詩集
第3詩集。109頁に25編を収める。佐川亜紀の栞が付く。

日常の何気ない生活の中でふと浮かび上がってくる思いを自然体で言葉にしているのだが、その思いには独特の感触がある。
「あやふやな終わり」は、集まったり離れたり走り回ったり」している何かの遊びに加わる作品。楽しいひとときをみんなとおくっていたのに、他の者はいきなりすわったり、「1抜けた」と言って走り去ったりしてしまうのだ。

   何の前触れもなく
   先をあらそってみんな行ってしまい
   あやふやな終わりだけが残された

みんなで「集まったり離れたり走り回ったり」していたこの遊びは何だったのだろうと思わされる。何にしても、とにかくそこには他者との関わり合いがあったわけだ。話者はそのまま「あやふやな終わり」のとなりにすわっている。最終行は、「立ち上がったらもう何も感じないのだから」。こうして話者は”あやふやな終わり”との別れを繰り返していくのだろう。どこか寂しさを伴う抽象的な概念が具体的なイメージとして巧みに描かれていた。

「ある錯覚」は、海山が見える地に円形に突き立てられている十四本の木柱を訪ねた人物の話。いつの時代に作られたのかも判らないようなのだが、環の内側に入り高い木柱の先を見上げると、

   空をまるく穿つ十四の頂点
   まさに今
   自分は土中に埋められようとして
   地上最後の明かりの環を見ている

円形に立てられた木柱は何か古代の神事に関わる遺跡だったのだろうか。不意に話者を襲った”錯覚”は、実は現実に起きようとしていたことの感知だったかも知れない。最終連は「尽きることのない後悔の歳月/果てることのない空の晴朗」。

寓意性の高い作品が整然と並んでいる詩集であった。その寓意には生身の感覚から始まっているような確かさもあった。
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詩誌「アンリエット」 (2024/10) 東京

2025-01-26 18:06:16 | 「あ行」で始まる詩誌
高塚謙太郎と峯澤典子の二人誌の第1号のようだ。B6版、100頁。
今号のタイトルは「湖底に映されるシネマのように」で、高塚の詩10編、峯澤の詩7編、それに論考2編を載せている。惹き文句には「それぞれが編数もページ数も書き方も自由に作品を仕上げ、一枚のアルバムを作るようにそれらを並べました」とあった。

高塚は「茉莉」というタイトルの作品を3編発表している。そのうちの1編は21行の作品だが、部分を抜き出して紹介するのが難しい。というのも、行分けされたセンテンスがゆるくうねるように続いてひとつの状況を提示してくるからである。作者の本意ではないだろうが一部分を抜き出してみる。

   湖岸線を縫っていくのに
   ほつれるように
   遠ざかり
   窓まで波間を連れて
   陽がプリズムを撒いたと
   テレビに映っていて
   濡れたサンダルを手に
   水着でしゃがんでいた茉莉花

ジャスミンの花なのか女性なのか、謎めいた光景がくっきりと描かれている。

「星座」峯澤典子。
まつりの夜の風情が「笛と太鼓の日暮れの音」や「狐の嫁いりの淡い裳裾のように/つらなり煙る提灯」、そして「くち紅のうえでとける/林檎あめ 綿あめ」と、音や色、味覚で伝えられる。それは妖しげで、近づいても捉えどころのない輪郭のものであるようだ。まつりの夜はうつつからはどこかへ離れた一夜なのかも知れない。だから朝になれば「しおれるために ひらく」花が取り残されているのだろう。

   ひと夏の笛 太鼓のねいろのあと
   人はみな眠りにつく
   いつもはさびれた宿の夜あけ
   どこかで 湯があふれつづける音

儚げな美しさが漂っている作品。話者は「いちりん、の花びらの/透明な目と耳の/星座を/欄干から流すように/一夜かぎりの/帯を」とくのである。

なお、詩の各作品の作者名は巻末の目次にだけ付している。したがって作品を読む時には作者名は不明である。読む者が作者にはとらわれずに、ただ作品とむきあう事を意図しているのだろう。

論考は高塚の「森川葵村『夜の葉』について」、「三井葉子の詩について」の2編。前者はまったく存じ上げない方についてだったので、大変に示唆を受けた。
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詩集「一滴の水滴が小鳥になる」 洞口英夫 (2024/07) 思潮社

2025-01-23 11:43:32 | 詩集
第5詩集か。120頁に58編を収める。すべての行分け詩が見開き2頁以内に収まる長さとなっている。

前詩集でもそうだったのだが、ふとした瞬間に出会う感情を素早く捉えている。それゆえに作品は比較的短くなり、切り詰められた短さが緊張感をたたえる。

タイトルがはじめの2行になっている「一滴の水滴が小鳥になる」は11行の作品。その2行に続いて、

   私の死んだあとに
   まるいとうめいな
   球が出現して
   その中に小さな私が
   はいっていて
   どこへともなく
   とんでいった

そして最終2行ではじめの2行が反復される。なぜ水滴が小鳥になるのか、なぜ私の死後に球が出現するのか、なんの説明もないのだが、ああ、何となくそんな気になることは判るな、という感じを巧みに捉えている。あらわれた現象に対する感情は描かれず、ただ一つの想念を差し出してきている。そうした作品には素描のような簡明さがあり、それが作者の持ち味となっている。

風にゆれるコスモスや人にふまれたタンポポに地球がほろびる日を重ねあわせたり(「コスモス」)、夜の海からあらわれた奇怪な魚がわたしをくわえに部屋へやってきたりもする(「夜の海」)。そして雨の芝浦できしんでいるはしけには、お前は何をしているのだと詰問されている(「雨の芝浦」)。

「魂の秘密」は、「魂の秘密を書きとめる者は/死が近い」と始まる。そして、

   傷ついた魂が人間にはいり傷が
   いえて出ていくのが人間の死で
   あるのなら私の死は近い

ここにも普通の意味での論理はない。あくまでも感覚で構築された理屈であり、そこに詩が生まれている。

ふとしたときに訪れるそういった感情を昂ぶりを抑制して静かに書き留めている。自己の存在を少し離れたところから眺めているような、そんな諦観も感じられる詩集だった。
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版画&詩集「鉄塔王国の恐怖」 版画:宇田川新聞 詩:廿楽順治 (2024/12) 改行屋書店

2025-01-17 18:27:57 | 詩集
とても嬉しい本が届いた。宇田川新聞の木版画と廿楽順治の詩が合体した1冊である。

まずは2012年の「現代詩手帖」に連載されていた「鉄塔王国の恐怖」。
これは毎回見開き4頁に宇田川の版画が縦横無尽にひろがり、そこに廿楽の言葉が踊りまくる、といった体のものだった。
「探偵詩編」という副題が付けられており、江戸川乱歩の怪人二十面相を(一応は)題材にしている。しかしもちろんそんな題材を軽々と乗り越えて夜空を飛びまわっている頁ばかりなのだ。絵と言葉が一体となった紙面構成の作品なので、その一部分を切り取っての紹介はその魅力を損ねてしまう。これ以上の紹介が不可能であることが残念でもある。

各頁の言葉は欄外にまではみ出ており、たとえば「影男」の頁の淵に書かれていたのは、

   【相談】朝、鏡に自分が半分しか映りません。病氣ですか。(職業・少年)
   【答え】大丈夫。ぜんぜん映らない人もいます。
            (註:原文では【相談】と【答え】は1行に印刷されている)

後半の53編からなる「うだがわ草紙」は、宇田川の版画に廿楽が詩を付けるというスタイルで作られたとのこと。1頁の上半分に版画、下半分に12行~18行の詩が載っている。ここでも二人の作品が互いに寄り添ったり反発し合ったりしているようで面白い。

たとえば「切符のかけら」の版画は、パチンパチンと厚紙の切符を切っていた切符鋏と切り取られて散らばっている切符屑。添えられた詩は、「死んでいるのは古いひとばかり/だから切符がいるのです」とはじまる。

   切られた形が
   それぞれのたましいの寫眞です
   (なんてもちろん冗談)
   実をいうと電車はありません
   古いひとたちは歩いていきなさい

古いというだけで死んでからもなんだか理不尽な扱いを受けているようだ。切符にちゃんとはさみを入れてもらったのに、それでも歩いていくしかないのか。最終部分は「はさみの音に消されて/わたしたちの怒號はとどかない」

このように、銅版画などに比して柔らかいエッジの木版画の図柄が理屈詰めではない世界を現出させ、そこに妙にねじれた展開を見せる言葉が絡みついている。両者の持たれ具合がなんとも心地よい1冊だった。
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詩集「存在ということ」 瀬戸口宣司 (2024/12) 風都舎

2025-01-14 22:42:47 | 詩集
108頁に24編を収める。カバーには森野真弓の大変に印象的なエッチング「内なる終局」があしらわれている。

冒頭の「食卓の幸せ」で作者は静物画に触れながら、「物が静かだということは/銃声で窓が震えたりせず/人も静かに暮らしていること」と書く。祈るような気持ちも込めて本当にそうだよなあと思う。

「日常から」は、「素顔のかけらが/そこらに落ちているのは/あたりまえの日常であった」とはじまる。しかし、その日常の中の言葉が組み合わされて”今”を形づくっていくのだろう。それが”過去”から脱却することに他ならないだろう。

   日常の断片はかたちをもとめて
   廃墟をかきまぜている
   帰らなければならない場所は
   みんなが知っているはずだ

そして事実が追ってくるのだが、逆に、それによってたどりつける”明日”もあるに違いない。

本詩集で唯一の散文詩「おれはガンマン」。人間ドッグで話者は3つの項目が要精査となった。そこで前立腺の針生検や大腸ポリープ滌除を受けた顛末が物語風に書かれている。いずれも初期癌状態で済んだのはご同慶の至りである。

「シャガールの花束」。話者はシャガールの絵には猫が描かれていたかなどと思いながら眠れない夜を過ごしている。こんな夜には青い恋人たちが空を舞っているのかと夢想もするのだが、

   思い出は楽しいとは限らない
   希望もあれば絶望さえも
   民族の怒りや
   影さえ出来ないほどの悲嘆も

   恋人たちが手に持っていた花束
   あれは慰めや、励ましや、癒しの
   祈りをすべて束ねたもの

ユダヤ系だったシャガールは実際にナチスの迫害から逃れるためにアメリカへ渡ったりもしている。夢世界のような彼の絵の花束に込められたものを話者は的確に見ている。最終2行は「ところで/シャガ-ルの絵には猫はいたかい」さりげなく洒落た着地の作品だった。
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詩集「日々の流れに」 植木信子 (2024/10) 思潮社

2025-01-10 21:35:01 | 詩集
第8詩集。125頁に36編を収める。

「ゆく川けぶる川」。川は流れ、船は海に向かうようだ。あなたは声をたてずに笑い、季節の果実を摘み取っている。

   髪を濡らし なか空に手を開いて伸ばし
   指先にのせた箱を川の水に置いた
    雲が水に触れたのかも知れない
   箱は花窟を抜けなだれ落ちる崖を下り街を過ぎ
   誰も見たことのない水平線の向こうの時間を行くのだろう
    透きとおる花は摘む手を傷つけて鮮やかな紅になるという

この時間を体験していることをていねいに伝えようとする言葉が置かれている。それは言葉がそっとそこに置かれている感じである。誰かがこの言葉を見つけてくださいとでもいうような静かな風情である。言葉で風景画を描いていると言ってもいいかもしれない。大切な時間をこうしてつなぎ止めようとしているようだ。ひとつだけ残念に思ったのは最終行。これは書かずに作品を終える方がよかったのではないだろうか。

「冬の青い空」。この作品には東京都美術館特別展という副題が付いている。作品の内容からモネ展を見てきたのだと判る。作者は「人々はモネの睡蓮に幸福の瞬間をかすかに重ねる」と詩う。そして確かに在った幸福な瞬間を思い出している。最終連は、

   私たちは喜びで生まれてくる 命を育て守るため生きる
   余韻が残り 苦悩であっても 繋がり
   ガラスの中にいるように 見えていて離れ繋がって思える
   しっかりつかもうとしてガラスが割れる
   傷ついた肉を見る
   空は何もなかったように青いのだ

輪郭も淡いモネの絵の穏やかな美しさを見たことは、作者に安寧をもたらしてくれたようだ。
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