たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

国占め

2019-04-15 09:28:26 | 鉄の神々1

<中臣印達神社 なかとみいたてじんじゃ>

 

『播磨国風土記』に記される、

「アシハラシコヲが丘(山)の上で食事をした」

という行動は、アメノヒボコより先に

「国占め」を行うためだったといわれています。

「国占め」とは、その土地が自分のもの

であることを宣言する「政治的な行為」でして、

古代の首長層は定期的にこのような儀礼を執り行い、

支配関係の強化を図っていました。

 

ちなみに、アシハラシコヲが食事をした粒丘の上には、

その昔、粒坐天照神社(いいぼにますあまてらすじんじゃ)

が鎮座していたそうで、粒丘(中臣山)のあたりでは、

今でも飯粒にも似た小さな石英粒が

たくさん見つかっているのだとか……。

また、「神が●●をこぼした」「天皇が●●を落とした」など、

「何かをこぼす」「何かを落とす」という表現は、

その土地を支配したことを示す文言だと聞きます。

 

『播磨国風土記』の中に、このような神々や天皇による

「落とし物」の伝承が散見されることを踏まえれば、

この地が古くから「闘争の場」「政治的な要所」

であったことは確かなのでしょう。


粒丘

2019-04-14 09:18:30 | 鉄の神々1

<中臣印達神社 なかとみいたてじんじゃ>

 

素麺ブランドとしても名高い、

たつの市揖保町の「いぼ」という名称は、

『播磨国風土記』に記される「粒丘(いいぼおか)」

から名付けられたそうです。粒丘は現在、

中臣印達神社(なかとみいたてじんじゃ)背後の

「中臣山(ちゅうじんやま)」に比定され、

境内には「粒丘」と刻まれた碑が置かれていました。

 

ちなみに、「粒丘」の物語を簡単に説明いたしますと、 

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昔、新羅からやってきたアメノヒボコという神が、

難波国への立ち入りを拒否され、播磨国にやって来ました。

そして、播磨の主であるアシハラシコヲ

(大国主神・オオナムチ・伊和大神)に、

「宿を得たいので、土地を与えて欲しい」と伝えたところ、

「陸地は私が所有しているので無理だが、海中なら構わない」

と断られてしまいます。アシハラシコヲの言葉に従い、

海に向かったアメノヒボコは、

剣で海の水をかき回して大きな渦を造り、

そこへ船を並べて一夜を過ごしました。

 

しかし、アメノヒボコはその後も

一向に立ち退こうとしなかったため、

アシハラシコヲはその強硬な態度に、

「土地を奪われるかもしれない」と不安を感じ、

国の守りを固める神事をすべく、

高い丘の上で食事をしたのだそうです。

その際、相当慌てていたのか、

ご飯粒をたくさんこぼしてしまったことから、

食事をした丘を粒丘と呼ぶようになりました。

【参照サイト:ひょうご歴史ステーション】

==========================

 

これが、現在の揖保(いぼ)という地名の始まりだと言われています。


航海の守り神

2019-04-13 09:11:50 | 鉄の神々1

<銅矛資料>

 

『播磨国風土記』の記述の中に、

「神功皇后の朝鮮半島征伐の際、

船の舳先に祀ったのがイタテ神だった」

という内容が見られます。

また、住吉大社に伝わる『住吉大社神代記』には、

船玉神とイタテ神との関連が示唆されており、

イタテ神が海人族の信仰する

「航海神」であった可能性も高いようです。

恐らく、イタテ神という神は、

矛や楯を手に敵地に乗り込む武神であると同時に、

航海の安全を守るための船玉神でもあったのでしょう。

 

ちなみに、矛や楯という鉄製品は、

戦いに挑む際の武具として利用されただけでなく、

儀礼用の祭祀具としても欠かせないものでした。

古文献の中には、宮中の大嘗祭において、

「大嘗宮南門に矛・楯を立てた」という話が残っており、

矛は紀伊国の忌部氏が、楯は丹波国の楯縫氏

(忌部氏と同系列)が作成したのだとか。

これらの内容から察するに、イタテ神はイソタケルと同様、

「敵地」あるいは「新天地」に先陣を切って乗り込む、

先鋒部隊(を象徴する神)であり、

矛や楯の製作者の守り神だったことがわかります。


鉄のカギ

2019-04-12 09:58:51 | 鉄の神々1

<射楯兵主神社 いたてひょうずじんじゃ>

 

先日、「倭鍛冶は日本古来の鍛冶集団、

韓鍛冶は渡来系の鍛冶集団を意味する」

という説をご紹介しましたが、

別の視点から考察しますと、射楯兵主神社に

祀られるイタテ神・兵主神の二神は、

両神とも「韓鍛冶」が奉斎していた神であり、

イタテ神=新羅系の韓鍛冶集団の神、

兵主神=百済の韓鍛冶集団の神、

という見方もできるそうです

(参考書籍:古代の鉄と神々)。

 

以前の記事でも触れたように、

イタテ神は新羅との関連が深く、

また兵主神に関しても、

元は古代中国の神話に登場する

「蚩尤(しゆう)」という戦の神であると同時に、

中国南部を中心に分派する

「苗族」の始祖とも目されるなどの話を聞きます。

 

イタテ神は北方ルート、兵主神は南方ルートから、

各々「朝鮮半島を経由してやってきた」と想像すれば、

先ほどの「イタテ神は新羅」「兵主神は百済」

という説も決して不自然ではないのでしょう。

 

となると気になるのが、兵主神との噂が根強く残る、

新羅系の「アメノヒボコ」との関連かもしれません。

アメノヒボコに関しては、のちのち詳しく

取り上げるつもりでおりますが、

アメノヒボコという謎の存在が、

古代播磨国・但馬国の「鉄のカギ」を

握っている可能性は高いように思われます。


倭鍛冶・韓鍛冶 

2019-04-11 09:51:59 | 鉄の神々1

<射楯兵主神社 いたてひょうずじんじゃ>

 

もともと倭鍛冶部という集団は、

砂鉄を利用した鉄穴流し製鉄が主流となる以前に、

すでに銅を原材料に青銅器の鋳造を行っていた人々、

また、褐鉄鉱(スズ)による産鉄作業に従事していた人々

(およびその後裔)だったと思われます。

当初彼らは、水田耕作の普及により大量に必要となった、

「農具」等の製造をしていたと想像されますが、

韓鍛冶部と呼ばれる渡来系の技術者から、

より効率的な製鉄技術を学んだことにより、

次第に武器の生産へとシフトして行ったのでしょう。

 

韓鍛冶との交流が深まるにつれ、

倭鍛冶は自らの古い先祖であるイソタケルや、

イソタケル直系の子孫・大国主神への信仰と同様、

渡来系技術者の持ち込んだイタテ神・兵主神も、

「鉄の神」として崇めるようになったのかもしれません。

恐らく、生活と労働のために鉄を製造していた倭鍛冶に、

争いの武器として鉄を活用することを指南したのは、

新たな技術を携えてやってきた韓鍛冶だった可能性が大です。

だとすれば、韓鍛冶たちはいったい何の目的で日本へと上陸し、

「武器」の製造を広めようとしたたのでしょうか……。


空殿の神

2019-04-10 09:45:36 | 鉄の神々1

<射楯兵主神社 いたてひょうずじんじゃ>

 

古代の製鉄民を示す表現として、

倭鍛冶部(やまとかぬちべ)、

韓鍛冶部(からぬちべ)という言葉があります。

倭鍛冶とは日本古来の鍛冶集団、

韓鍛冶とは渡来系の鍛冶集団を意味し、

倭鍛冶はオオナムチ、韓鍛冶はアメノヒボコを

奉斎していたという説が有力です。

 

『播磨風土記』の「国占め」の物語の中では、

両者が鉄を巡り領土争いをしたとも

受け取れる内容が書かれており、

射楯兵主神社に祀られる「射楯大神(いたてのおおかみ)」、

「兵主大神(ひょうずのおおかみ)」の二神も、

それぞれ倭鍛冶部(やまとかぬちべ)、韓鍛冶部(からぬちべ)

に置き換えても間違いではないのだとか……。

 

ただし、射楯兵主神社の社伝上での祭神名

(イタテ神はイソタケル、兵主神がオオナムチ)や

本殿内の配置を見ると、そう単純に

事は運ばないような気がいたします。

 

例えば、

1.射楯大神は東殿、兵主大神は西殿に鎮座し、

神饌を献ずる際には西殿から行うこと

2.東殿と西殿の間に空殿の中央殿が設けられ、

例大祭のときのみ九所御霊神

(西殿に合祀という説もあり)を祀ること

 

などの由緒を加味すると、恐らく、

イタテ神と兵主神との間には、

明確な格付けがあると同時に、

空殿となっている中央殿の神が、

本来この地に祀られていた

本当の「鉄の神」である可能性も否めません。


鉄穴の神 

2019-04-09 09:41:53 | 鉄の神々1

<千種町・たたらの里学習館>

 

イズモを代表する神と聞いて、

まず思い浮かぶのが言わずと知れた大国主神です。

大己貴命(おおなむち)、大物主神(おおものぬし)、

葦原志許乎(あしはらしこを)、伊和大神(いわのおおかみ)

……など様々な別称を持つこの神は、

「国譲りの神」であると同時に「鉄穴の神」とも呼ばれており、

大己貴命(別表記:大穴持命)という名称は、

大国主神の「製鉄の神」としての一面を表すという説もあります。

 

言うなれば、「製鉄」を象徴する存在が、

大己貴命としての大国主神であり、

石器・青銅器文化から鉄文化への転換期に登場する、

極めて重要な存在だと考えられるのですね。

ちなみに、オオナムチは「洞穴に坐す神」という意味を持ち、

古代「穴」は「鉄」と同義語として認識されていたのだとか……。

大国主神とは別に「大己貴命」という神が創造されたのも、

「鉄穴流し(かんなながし)」による砂鉄の採取が、

「イズモ」の国造りの根幹を支えていたことの証なのでしょう。


古代の製鉄

2019-04-08 09:34:43 | 鉄の神々1

<千種町・たたらの里学習館>

 

播磨国周辺の「鉄」について掘り下げる前に、

古代日本の鉄に関するおおまかな流れを

探ってみることにしましょう。

(参考サイト:日立金属株式会社~たたらの話)

 

1.現時点で残る最も古い鉄製品は、

縄文時代晩期(紀元前3~4世紀)のもので、

石器と一緒に発見された。

 

2.弥生時代前期(紀元前2~3世紀)から、

次第に水田開発が活発化し、

土地を巡る闘争が激しくなると、

鉄斧などが制作されるようになる。

しかし、この頃もまだ武器・農具とも石器が主体。

 

3.弥生時代中期(紀元前1世紀~紀元1世紀)、

青銅器の国内生産が始まる。大陸との間では、

青銅器や土器だけでなく、鉄器の交易が行われた形跡もあり。

 

4.弥生時代中期中頃(紀元前後)、

鉄器の急速な普及と同時に石器が消滅。

鉄の加工はこの頃に始まったとみられる。

 

5 .現時点で弥生時代の製鉄炉の跡は発見されていない。

鉄の国内生産が本格化したのは、

古墳時代(5世紀)あたりからという説が主流。

 

鉄加工が始まった当時、原材料の多くは輸入に頼っていたものの、

弥生中期後半(3世紀ごろ)にはすでに、最も原始的な手法である、

「褐鉄鉱(スズ)」を利用した製鉄が行われていた可能性があります。

その後、タタラ製鉄に代表される「砂鉄」での鉄器生産が普及しました。


射楯兵主神社

2019-04-07 09:26:16 | 鉄の神々1

<射楯兵主神社 いたてひょうずじんじゃ>

 

イタテ神・兵主神をご祭神とする神社は、

近畿地方を中心に点在しますが、

その多くはイタテ神のみ、

あるいは兵主神のみの奉斎であり、

両神を同じ場所にお祭りしているのは、

姫路市の射楯兵主神社以外にはほぼ見当たりません。

これは、出雲を中心に信奉されるイタテ神と、

但馬を中心に信奉される兵主神の接点が、

姫路周辺だった可能性を示すもので、

言わばこのあたり一帯が「鉄を巡る激戦地」

だったと考えても間違いではないのでしょう。

 

それを裏付けるかのように、古代の地誌である

『播磨国風土記』の中には、アシハラシコヲ

(伊和大神・オオナムチ・大国主神)が、

アメノヒボコと領土争いをしたという説話が頻出し、

兵庫県西部のあちこちにそれらの伝承地が残っています。

風土記が記す「穴」や「室」などの文字からも

推測できるように、恐らく両神の最大の狙いは、

播磨周辺で採取される「鉄」の原材料だった可能性が大です。

稲作とほぼ同時期に伝来したとされる新たな製鉄技術は、

それまで細々とながらも残っていた縄文文化を駆逐する勢いで、

一気に西日本全土へと広まって行ったのでした。


イタテ神

2019-04-06 09:20:52 | 鉄の神々1

<射楯兵主神社 いたてひょうずじんじゃ>

 

「イソタケル」に関する記事の中で、

出雲一帯に「韓国伊太●神社(からくにいたてじんじゃ)」

という社が点在していることをご紹介しました。

(伊太●の●は「氏」の下に「一」)

実は、出雲以外にもイタテと名の付く神社がいくつかあり、

ここ播磨の国には「射楯兵主神社(いたてひょうずじんじゃ)」

「中臣印達神社(なかとみいたてじんじゃ)」

という二つの社が鎮座します。

ちなみに、射楯兵主神社に祀られているのは

「イタテ神」と「兵主神」の二柱で、

どちらも「産鉄」を司る神という説が有力です。

 

社伝においては、イタテ神は五十猛命、

兵主神は大己貴命となっておりますが、

イタテ神をオオナムチ、兵主神はアメノヒボコ

とする説なども存在するため、

はっきりした祭神はわかっておりません。

個人的には、「韓国・園神」のように、

どちらも「渡来系」の影響を受けた国津神であり、

大元にはスサノオ信仰を携えて来日した、

「イソタケル時代」の名残があるのではないかと考えます。


鉄の国々

2019-04-05 09:07:07 | 鉄の神々1

<姫路城>

 

***** 鉄の神々1播磨・吉備 *****

出雲神話および出雲系列の神社を巡る中で、

どうしても避けて通れなかったのが、

「鉄」というキーワードです。

それはまるで「イズモ」の国譲りが、

「鉄」という鉱物の所有権を巡る、

壮大な争いの結末のようにも感じられるほどで、

もしかすると「鉄」さえ存在しなければ、

「イズモ」の国々も今とは違った歴史を

歩んでいたのかもしれません。

 

ただ、個人的に「鉄」の考察に関しては、

イマイチ乗り気になれないところがあり、

これまであえて避けてきた部分がありました。

しかし、『金屋子神祭文』という

興味深い文献との出会いをきっかけに、

覚悟決めて「鉄」の世界に

足を踏み入れてみようと決心した次第……。

 

というわけで、ここで再び出雲から離れ、

「鉄」の足跡をたどる旅に出ることにしましょう。

選んだのは、金屋子神が降臨したとされる「播磨国」、

そして播磨国と同様、「鉄」との関わりが深いその周辺国です。

出雲の影に隠れ、なかなか表に出る機会が少ないこの地域には、

いったいどんな古代の謎が潜んでいるのでしょうか……。

 

【参考書籍】

古代の鉄と神々 ~真弓常忠

風土記からみる古代播磨 ~坂江渉 他

民族・地名そして日本 ~谷川健一

 

【このシリーズの参考サイト】

ひょうご歴史ステーション

神旅 仏旅 むすび旅

民俗学伝承ひろいあげ辞典

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古代史探訪


縄文式の神事

2019-04-04 09:17:39 | 出雲の神社

<布須神社 ふすじんじゃ>

 

縄文時代の遺跡の中からは、

時折ぶどうの種子が発見されるそうです。

また、縄文式土器の独特な形状が、

「酒器に適した形でもある」という

一部の専門家の説などを踏まえると、

「八塩折の酒=果実酒」との推測は、

あながち荒唐無稽なものではないのかもしれません。

 

ちなみに、日本に「稲作」が伝来して以降、

それまで見られていた果実酒醸造の形跡が、

ほぼ見られなくなったと聞きます。

恐らく、出雲の「国譲り」をきっかけに、

神事に用いられるお神酒に関しても、

国津神のシンボルだった「果実」から、

天津神のシンボルである「米」へと

順次入れ替わったのでしょう。

だとすれば、スサノオが行った「八塩折」とは、

「縄文式の神事」だった可能性もありますね。

 

オロチという難敵を目の前にして、

スサノオが指示したのは、多くの兵士を集めたり、

多くの兵器を製造したりといった具合に、

武力を強化することではありませんでした。

土地の人々の手で「酒」という

最強の武器を造らせることで、

ある意味スサノオは、日本の先住民族にしかできない、

本当の「ヤシオリ作戦」を実行したのです。


供物と祈り

2019-04-03 09:15:24 | 出雲の神社

<雲南市・釜石>

 

これまでの記事では主に、「越からきた異国人」

という想定でオロチ伝説を考察しましたが、

先日ご紹介したシン・ゴジラの例えのように、

オロチを「荒ぶる自然」と捉えることも可能です。

仮に災害鎮めの側面から、オロチ退治を考えるなら、

「八塩折の酒」とは、天災つまり

「国津神の怒り」を鎮めるために、

必要不可欠な神事だったのでしょう。

 

恐らく、スサノオがアシナヅチ・テナヅチに、

自らの手で酒を造るよう命じたのも、

その土地で採れた供物と、その土地の人々の祈りが、

国津神(土地の神)の祭祀には必須であり、

「それらを怠れば災厄が起きる」

という戒めが含まれていたのだと思われます。

さらに言うなら、各地のイズモ族の協力と、

各地のイズモ族の神事なくして、

「天孫族が日本を治めることは難しい」

という比喩でもあったのかもしれません。 


ぶどうの霊力

2019-04-02 09:10:36 | 出雲の神社

<雲南市・釜石周辺>

 

一説に、ヤマタノオロチの物語とは、

異国人の襲来を示すだけでなく、

鉱山の鉱毒、噴火に伴う火砕流、水害による土石流など、

様々な「災害」を表しているとも言われております。

オロチ伝承にたびたび登場する「八」重垣が、

災害を防ぐための「碑」であったように、

「八」塩折の酒と呼ばれる醸造物も、

災害を防ぐための「武器」だったのでしょうか……。

 

ちなみに、八塩折の酒の「塩折」とは、

「日本酒を使って日本酒を仕込む」という、

非常に手の込んだ酒造りの製法を指しますが、

実は、八塩折の酒に用いられたとされる材料は、

「衆菓(もろもろのこのみ)」という果物で、

「米」ではなかったという話があります。

考えてみますと、神事に日本酒を使用するという慣習は、

「天照太御神」の世になってからのことだと思われますし、

それ以前は、他の植物を原材料とする「醸造酒」が

用いられていた可能性もあるのでしょう。

 

それらの根拠を示すかのように、

八塩折の酒を醸造したとされる釜石の付近には、

古くから「山葡萄」などの果樹が野生しているそうです。

オロチとの戦いを前に、御室山に籠ったスサノオは、

かつてイザナギが、黄泉の国から追ってきた鬼に、

エビカズラ(ぶどうの一種)を投げつけたように、

このあたり一帯に植生していた「ぶどうの木」に、

何らかの霊力を見出したのかもしれません。


八塩折の酒

2019-04-01 09:06:28 | 出雲の神社

<雲南市・釜石>

 

一説に、オロチの尾から出てきた

アメノハバキリ(草薙の剣)は、

「アラハバキ」を指すとも言われています。

仮に、アシナヅチ・テナヅチを

アラハバキと同一視するなら、

スサノオは「アシナヅチ・テナヅチの剣」

を奪った、「何か(誰か)」を打ち取った、

という風にも解釈できるのかもしれません。

つまり、オロチの尾から取り出した神剣は、

もともと先住民が所有していた剣であり、

「出雲の砂鉄」とも置き換えられるのでしょう。

 

スサノオがなぜ「自ら」酒を造らずに、

アシナヅチ・テナヅチにという先住民に

八塩折の酒を用意させたのかというと、

オロチを倒すためには「イズモの神」の

全面的な力添えが必要だったからなのだと……。

出雲の先住民が自らの手で行う「神事」こそが、

最も重要な「作戦」だったのだと思われます。

恐らく、八塩折の酒と言うのは、

アラハバキにしか造ることができない、

「特別な酒」だったのかもしれません。