<射楯兵主神社 いたてひょうずじんじゃ>
イタテ神・兵主神をご祭神とする神社は、
近畿地方を中心に点在しますが、
その多くはイタテ神のみ、
あるいは兵主神のみの奉斎であり、
両神を同じ場所にお祭りしているのは、
姫路市の射楯兵主神社以外にはほぼ見当たりません。
これは、出雲を中心に信奉されるイタテ神と、
但馬を中心に信奉される兵主神の接点が、
姫路周辺だった可能性を示すもので、
言わばこのあたり一帯が「鉄を巡る激戦地」
だったと考えても間違いではないのでしょう。
それを裏付けるかのように、古代の地誌である
『播磨国風土記』の中には、アシハラシコヲ
(伊和大神・オオナムチ・大国主神)が、
アメノヒボコと領土争いをしたという説話が頻出し、
兵庫県西部のあちこちにそれらの伝承地が残っています。
風土記が記す「穴」や「室」などの文字からも
推測できるように、恐らく両神の最大の狙いは、
播磨周辺で採取される「鉄」の原材料だった可能性が大です。
稲作とほぼ同時期に伝来したとされる新たな製鉄技術は、
それまで細々とながらも残っていた縄文文化を駆逐する勢いで、
一気に西日本全土へと広まって行ったのでした。