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桑の海 光る雲

桑の海の旅行記・エッセー・書作品と旅の写真

書道について70

2011-01-30 18:08:13 | 日記・エッセイ・コラム

○大学院2年の頃④

*西安ツアー・その4

昭陵碑林の後はひたすらバスに乗り続けて永泰公主墓に向かう。周囲は一面の麦畑と菜の花畑。時折現れる集落には桐の木の花が満開である。

永泰公主墓の隣にある飯店で遅い昼食にする。今回の旅では西安の町から最も離れた場所であるせいか、料理の味付けや香りも一番田舎風で口に合わなかった。

永泰公主墓は高宗と則天武后が合葬された乾陵の陪塚である。永泰公主は則天武后の孫娘でありながら則天武后によって殺された哀れな女性である。その墓からは見事な壁画が発見されたことで知られている。壁画そのものははぎ取られて陝西省博物館に所蔵されており、ここで見られるのはレプリカであった。

墓に入ることができるのも面白かった。傾斜のある長く暗い墓道を下った先に墓室があり、永泰公主の棺や副葬品が収められていた槨室がある。槨室の外壁には美しい女性達の群像が線刻されている。収められた当初は彩色も施され、さぞかし美しかったことだろう。しかし墓は古代に盗掘にあって、副葬品も奪われ、盗掘を免れた壁画だけが当時を物語っているのであった。

永泰公主簿から少し西に行ったところに乾陵がある。時間の関係もあって、地下に乾陵のある山の山頂まで行くことはせず、登り口の所までしか行かなかった。あの小山の地下に壮大な地下宮殿が設営され、高宗と則天武后が合葬されているのである。しかもその入り口部分は発見されており、入り口部分には鉄が流し込まれて厳重に固められており、盗掘されていないことは明らかである。しかし、これを発掘するには莫大な費用がかかり、しかも膨大な量の副葬品や墓の保存に、これまた莫大な費用がかかるため、発掘は行う予定がないとガイドは話していた。

墓へ続く道の登り口にあった巨大な無字碑と、「唐高宗乾陵」と清朝中期の文人畢沅が端正な隷書で揮毫した石碑、各国使節団の石像が全部首が欠かれていたことなどが印象に残っている。そしてここも桐の花が満開であった。


書道について68

2010-05-01 17:15:11 | 日記・エッセイ・コラム

○大学院2年の頃②

*西安ツアー・その2

いよいよ西安碑林に到着した。碑林へ続く道を進んでいくと、目の前に唐の玄宗の石台孝経があった。ただし碑面には拓本が貼られており、文字は見やすかったが、碑面が見えないのは残念だった。

入っていくと、石碑は古い順に並んでいるらしく、唐代の石碑の名品が勢揃いしていた。顔真卿の多宝塔碑、顔氏家廟碑がまず目に入った。しかし、いずれも石台孝経同様に碑面には拓本が貼られており、いささか興ざめだった。でも、先生方が、こうすると碑面の保護になるし、何しろ文字が見やすいのでよいということなので、そういう考え方もあるのかなと思ったが、やはり不満だった。ただし顔氏家廟碑の碑側だけは拓本が貼られておらず、またガラスもはめ込まれていないため、碑面にじかに手を触れ、顔真卿の文字をこの指でじかになぞってみた。石碑はいずれも亀の形をした台座にはめ込まれた巨碑ばかりであるが、何しろ千年以上前のものばかりなので、いずれも金属製の枠で補強されていた。

次に目に入ったのは、王羲之の文字を集めた興福寺断碑である。石碑の下半分だけが残っている。これは私も高校時代から好きでよく臨書していたものなので、親しみをもって見たが、これまた碑面に拓本が貼られており、いささか残念だった。

次の部屋へ移動する回廊の壁には、南北朝時代の墓誌がはめ込まれていた。特に元楨墓誌は名品で、この後岡本先生の紹介もあって、碑林のスタッフから特別に原拓を譲っていただいた。

次の部屋には張旭の草書千字文、顔真卿の顔勤礼碑があった。これにはどちらも拓本が貼られておらず、碑面の文字をじかに見ることができた。特に顔勤礼碑は出土して百ねんほどしか経っていないため碑面がきれいで、文字もとても千年前に刻されたとは思えないほどのきれいさであった。

次に曹全碑があった。これも碑面には拓本が貼られている。しかし碑陰には拓本は貼られていたいため、より日常的な書法が現れていると言われる碑陰の文字を、ガラス越しではあったが目を凝らして鑑賞した。

その次は南北朝時代の広武将軍碑。中村不折が愛したことで知られるこの碑は、他の石碑に比べ知名度が劣るのか、扱いがとても粗末だった。碑面にはもちろん拓本は貼られておらず、石碑そのものも奥まったところに置かれていた。

他には歐陽詢の皇甫誕碑も見た記憶があるのだが、残念ながら写真がない。この石碑も、有名な割には引っ込んだところに展示されていたように思う。

一番奥の部屋では、拓本採りの職人が大きなたんぽに墨をつけ、碑面をたたく音が部屋中になり響いていた。ここで採拓しているのは明清時代の法帖の重刻本であろうが、ここで採拓した拓本が、土産物として売られているのだろうと思った。

最後に岡本先生の紹介で、碑林のスタッフから特別に墓誌の拓本を譲っていただいた。他のツアー参加者はバスに戻ってしまっていたので、我々だけ特別に、ということだった。先生方は二枚購入していたが、私と友人は財布の具合のこともあり、一枚だけで我慢した。これが私が拓本を購入した最初であった。

ちなみにこの二年後に、シルクロード行きのツアーの途中で西安碑林を再訪したのだが、この時は碑面に貼られていた拓本は全て剥がされ、他のツアー客は素通りしてしまった後に一人残り、時間が許す限り、碑面の文字を堪能したのを覚えている。


書道について67

2010-01-12 22:17:09 | 日記・エッセイ・コラム

○大学院2年の頃①

*西安ツアー・その1

2年に進学し、1年生にはまたいろんな人達が入学してきた。学群にも11人の1年生が入学し、賑やかになった。でも、この年辺りから書コースの学生の質の変化が始まっていたように、今になって思う。

進級してからは教員採用試験の勉強を始めた。他に就職活動をしてもいなかったし、する木もなかったので、教員になるしか道は残っていなかった。問題集を買い、暇を見つけては図書館で勉強した。珍しく自宅でも勉強した。

4月に岡本先生の紹介してくれた西安へのツアーが行われた。名古屋在住の高木大宇先生と岡本先生が、それぞれのお弟子さん達を引き連れ、西安で行われる書道のイベントに参加しがてら、西安にある書道関係の史跡を見て回ろうという企画であった。同級生のS君も一緒に参加するので、不安は感じなかった。

現在では旅程表とかもどこかへ行ってしまったので、アルバムを見ながら書いていこうと思う。前日は名古屋在住の学群時代の友人宅に泊まり、翌日名古屋空港に集合した。当時は西安行きの飛行機は、西安と姉妹都市である名古屋からしか飛んでいなかったのである。

西安には夜中に到着した。中国は初めてだったが、機内食からして中国食の洗礼を受けた。西安で最初の食事は中国風の精進料理ということであったが、あまり食の進まないもので、これから先どうなるのかすごく不安を感じた。しかし到着したホテルは日航系の素晴らしく豪華なホテルで、ここでなら5泊するのも安心だとほっと胸をなで下ろした。

翌日はまず市内のホテルで開催された書道のイベントに参加した。席上揮毫が行われ、アジア各地やアメリカからも書家が集まり様々な書の腕前を披露していた。中村先生の授業で名前を聞いていた柳曽符という人や、「書道研究」という雑誌に「中国書法史」という論文を連載していた鍾明善という人も来ていた。

高木先生は筆を2本持って一気に大字を書き上げた作品と、紙を左右の2人の人に持たせ、空中に吊ったままで書き上げた作品の2点を制作した。岡本先生はお得意の趙之謙風の作品と、大字の篆書作品の2点を制作した。中国の人達の作品はいかにも中国風な作品ばかりだったが、曲芸的な技を披露してくれる人もいた。アメリカから来たAnne Woodsというおばあさんの書家は、筆で流暢なアルファベットを綴って見せてくれた。日本人も他にいたが、記憶にない。

午後は西安碑林の見学になっており、今回のツアーのメインイベントの一つでもあるので、午前中のこの退屈なイベントも我慢することができた。


書道について66

2010-01-01 22:04:59 | 日記・エッセイ・コラム

○大学院1年の頃⑨

大学院1年の後半のことはあまりよく覚えていない。しかし、進路のことと修論のことは考え始めていた。制作の方も、陳鴻壽風の行草を書いたり、何紹基風の隷書を書いたりしていたが、まだ将来の方向を決めたわけではなかった。

進路については漠然と教員かな、と思っていた。でも、書道の教員の採用はどうやらないらしいということを、同じ群馬出身の先輩に聞いていたので、副免として取ってあった国語の教員免許を生かして、国語教師の道を選ぶことになる(国語は古典を中心に嫌いではなかった)のかなと考え始めていた。そうなると、試験勉強はハードだなとも思っていたが、不思議と不安は感じていなかった。

修論については、卒論で陳鴻壽を扱う中で、陳鴻壽もその一員である西泠八家の書に惹かれるものがあり、陳鴻壽の書について調べたことを、西泠八家にまで広げて調べてみようと考えていた。陳鴻壽は西泠八家の中で時代的にほぼ中間に位置しており、陳鴻壽を基準にして、前にさかのぼって考えることも後に下って考えることも可能であり、その点では調べやすいのではないかと考えた。そこで、実は卒論が終わった後から、ぼちぼち資料を集め始めていたのだった。本格的な資料集めは台湾から帰った後から開始した。タイトルも「西泠八家の書」と決めた。

3学期に入った頃、授業の後の休憩時間に岡本先生から「今度4月に、西安に1週間ほど出かけるんだが、一緒に出かけてみる者はおらんか?」と言われた。聞けば、ある書道関係のイベントに参加するとともに、大雁塔、昭陵、乾陵、歴史博物館、兵馬俑坑、始皇帝陵などの書道関係の史跡を一通り見て回るとのことだった。どこも訪れてみたいところばかり。先生は費用も教えてくれたが、自分の持ち合わせに少しプラスすれば何とかなる金額だったので、同級生のS君と一緒に参加することに決めた。


書道について65

2009-12-30 23:47:59 | 日記・エッセイ・コラム

○大学院1年の頃⑧

*台湾の旅・その4

その日は残された写真によれば、龍山寺の近くで皆で夕食だったようだ。

その翌日は自由行動だが、オプショナルツアーもあって、多くの人はそれに参加した。しかしこの日は雨で、どこに行くにしても雨にたたられてしまった。私はツアーは申し込んでいなかったので、留学生の人の案内で、市内の書店巡りをすることになった。

書店は4,5カ所回っただろうか?でも、さしたる収穫もなく、目に付いた本をいくつか購入して荷物だけはいっぱいになったものの、気持ちは何となく不十分であった。昼食もその辺りの店に適当に入ったが、留学生の人が「ここはあまり美味しくない。」というくらいで大したことがなく、できれば割り切ってオプショナルツアーに申し込めばよかったと後悔した。

その夜は旅行の最後の晩ということで、パーティーが開かれた。食事も豪華で、酒も進んで大いに盛り上がった。その後、その夜のパーティーにも参加していた、筑波に留学していた杜忠誥さんのアトリエに伺うこととなった。杜さんも薛先生同様、台湾を代表する若手書家で、そのような立派な方と大学で一緒に学べたことは、台湾の書人から見ると大変なことらしい(実際、他の台湾からの留学生の人からすると、このお二人は雲の上の存在であるそうだ)のだが、私などにはそんな実感は全くなかった。

その後上級生と先生方がタクシーに分乗して、パーティーのゲストであった、台湾を代表する若手書家の一人である薛平南先生のアトリエに伺うこととなった。

先生のアトリエはマンションの一室で、篆刻をよくする先生らしく、机上には篆刻の道具が一面に広げられ、ガラス棚には篆刻用の印材がたくさん並べられていた。その中のいくつかを先生は私達に見せてくれたが、そのすごさは私などの門外漢には理解できなかった。篆刻家でもある小西先生は目を丸くしてそれらの印材の名品に見入っていた。

杜さんのアトリエもマンションの一室であった。部屋の壁一面に二重になった本棚があり、本がぎっしり詰まっている。机の上には紙が広げられ、書かれたばかりの作品も無造作に置かれている。軸や額などもあちこちに置かれている。私はその書棚の蔵書にびっくりしてしまい、杜さんにことわってその本の何冊かを手に取って見始めたのだが、興味深い本が多くてきりがない。先輩方が杜さんと話をしている間も、私はひたすら本に見入ってしまった。

帰る時間になった頃、杜さんの発案で、アトリエに置かれてあった作品のうち2点を、お邪魔した私達にくじ引きでプレゼントしてくださることになった。すると草書で書かれた大きな作品の方が私に当たり、小さい方の作品は、留学生の呂さんに当たった。私はできれば小さい方の作品(杜さんが得意とする秦隷書で書かれていた)が欲しかったのだが、まぁよしとしようと思った。(作品は帰国後すぐに表具に出して軸に仕立てた。)

翌日は帰国の途についた。台湾ではとにかくたくさんの本を買ったので、レンタルして持って行ったスーツケースは、帰りには本でいっぱいになってしまい、服などは一緒に持って行ったリュックに詰め換えて帰ってきたほどであった。それ以外にも大漢和辞典の海賊版を購入したが、それは後日自宅へ配送されるとのことだった。

初めての台湾旅行だったが、いろいろ不十分なところはあったものの、充実した4泊5日であった。ちなみにこれ以降、書コースでの海外研修旅行は実施されていない。台湾で買った本も、大漢和辞典以外はほぼすべて処分してしまった。でも、あの時中央研究院で見た木簡と、故宮博物院で見た黄州寒食詩巻と祭姪文稿を直に目にした感動は今でも鮮明である。


書道について64

2009-05-24 18:15:17 | 日記・エッセイ・コラム

○大学院1年の頃⑦

*台湾の旅・その3

翌日は中央研究院に出かけた。ここは特別展観なのだが、実際は展示室が完備されており、しかし一般には公開していないようで、参観者は我々だけだった。

まずは研究院の方の挨拶があり、その方の斡旋で、居延漢簡の研究所と図録を希望者が購入した。20世紀初頭に、中国内蒙古自治区で発掘された1万点にも及ぶ居延漢簡は、紆余曲折を経て、ここ台湾中央研究院が所蔵しているのである。

展示室にはそのうちの数点が展示されていたが、中でも感動したのは「永元器物簿」である。これは78枚の木簡が当時のままに麻縄で綴られて発掘されたものである。(ちなみに木簡を縄で綴った形から「冊」の漢字ができた。「典」はその「冊」が机の上に置かれている様を表している。)当時はこれを巻いて保存し、読むときはそれを広げながら読んだのである。

私は本でよく知っているその実物が目の前に置かれているのに感激したとともに、その文字に使われる墨が薄いことに驚いた。また、墨は青みがかっており、まるで青墨で書いたかのような感じである。また、写真ではややはっきりしなかった文字が、実にくっきりとしており、砂漠の砂の中に埋もれて、その保存状態が大変よかったことをあらわしていた。私はその永元器物簿をずっと見ていたので、他の展示物は印象に残っていない。甲骨文や青銅器の名品もあったように記憶はしているのだが。

1階には拓本が展示されていた。これまた名品揃いで、特に北魏から唐代にかけての名品が印象に残っている。時代の新しいものは印象に残っていないが、清代末期に行われた科挙の合格者の一覧を書いて掲示した巻物が印象に残っている。確か、その巻物の前で、引率の岡本先生が「1位で合格すると、この巻物の一番初めに名前が記されるのでその人を「状元」と呼ぶんだよ。」と教えてくださったのを覚えている。

この後市内にある美術館で、明清の絵を見たように思うのだが、これまた記憶が定かではない。その後は中正紀念堂へ出かけた。写真がいろいろ残っているが、これまた印象に残っていない。台湾の人には蒋介石を祀るところということで、大切なところだそうだが、我々日本人には一つの観光地としてしかとらえられなかった。

この日もややおおざっぱな日程で、できれば故宮にもう一度訪れたいと思ったくらいだった。


書道について63

2009-05-02 23:41:14 | 日記・エッセイ・コラム

○大学院1年の頃⑥

*台湾の旅・その2

2日目は故宮博物院を訪れた。日程はよく覚えていないのだが、とにかく1日まるまる故宮博物院であった。蒋介石が北京の故宮から運んできた名品中の名品ばかりだけのこともあり、どれも見事の一言であった。

書の作品では、王羲之「快雪時晴帖」、顔眞卿「祭姪文稿」、蘇軾「黄州寒食詩巻」ともう1点が展示されていたのだが、あと1点が何だったのかは思い出せない。しかし、どれも、書道史の本では必ず掲載されている名品で、私は中でも「黄州寒食詩巻」の素晴らしさに感動し、時間をかけてじっくり見た。先輩や先生方は「祭姪文稿」が群を抜いていたと口々に言っていたが、私は「黄州寒食詩巻」の印象の方が鮮烈だった。

とにかく博物院は広く、見るべきものが多すぎ、また予備知識も不足していたので、皆いささか持て余し気味だった。あとはミュージアムショップで本を買いあさった。私もたくさんの本を買い、持って帰るのが大変だった。(この本は後にほとんど処分してしまい、手元に残っていない)他の皆も、それに釣られて色々買い込んでいるのが面白かった。

故宮博物院からの帰りにも観光地に寄って、写真もあるのだが、その場所の名前が思い出せない。夕飯は自由食ということになっていた。3年生は、その学年に在籍している台湾からの留学生の自宅に行き、豪勢な夕食をご馳走になったようだ。私達は台湾からの留学生の案内で、台湾師範大学のすぐ横にある学生行きつけの店と思われる食堂に向かった。当日は定休日であるにもかかわらず、無理を言って開けてもらっていたのだった。

店そのものは地元民が行く普通のところだったが、人気のある店のようで、とにかく料理がどれも素晴らしく美味しかった。特にシジミの醤油漬けの美味しさは忘れられない。翌日の宴会でも出たように思うのだが、この時食べたものにはかなわなかった。

この日は結局故宮博物院とこの夕食の記憶しかない。写真もその時のものしか残っていない。他の記憶がすっかり欠けてしまっているのだが、4泊5日の旅行の割には日程にゆとりがあり、見学地を増やすなど、もう少し充実した見学ができれば良かったのにな、と思う。


書道について62

2009-04-01 21:18:41 | 日記・エッセイ・コラム

○大学院1年の頃⑤

*台湾の旅・その1

台湾学外演習が始まった。朝早く大学前からバスに乗り、一路成田空港へ向かった。学生40人、教官4人の総勢44人である。

成田空港はその前の年の1月に香港に出かけた時以来。あの時は初めてでしかも一人で不安を感じていたが、今回は面倒な手続きは全部添乗員が済ませてくれる。あっと言う間に機中の人となる。

実は書コースは九州出身の学生が多く、彼らは皆飛行機で地元とを往復するので、飛行機には乗り慣れている。しかし、群馬出身の私はまだ香港行きの時しか飛行機に乗ったことはない。そのためにいささか浮かれすぎたのか、台北到着直前の飛行機の降下に伴う気圧の変化と飛行機の揺れにすっかり酔ってしまい、気分が悪いままに台湾への第一歩を記さざるを得なかった。

気分がすっきりしないまま空港に降り立つと、南国特有の空気に包まれる。空気のにおいも日本とは全く違い、香港へ行った時のことを思い出した。入管の所へ移動する通路にはたくさんの書作品が掲げられており、さすがだな、と思った。中に筑波に留学されていた杜忠誥さんの作品もあり、杜さんの台湾での評価の高さを改めて思い知らされた。

入管の行列に並んで私の前に立っている男性の頭を何の気もなくぼーっと眺めていると、何だか懐かしい思いにとらわれた。よく見ると、見れば見るほど私の頭の形、髪の生え方、髪の質、生え際の形がよく似ているのである。私は思わず後ろにいたある先輩にそのことを耳打ちすると、先輩もよくよくそれを見て、私と同じ印象を持って、声を出さずに爆笑していた。いわゆるドッペルゲンガーとはこういうことをいうのであろうか?しかし私達は、その見ず知らずの男性(日本人だった)に声を掛けることもできずに終わってしまった。

その日の午後は台北でも著名な庭園を見学し、これまた著名な観光地である龍山寺を訪れることになっていた。前者はマカオで見た庭園と似たようなものでこれと言って面白くもなかったが、後者は日本で言う浅草のような場所で、色々と見ものもあり面白かった。周辺の雑然とした雰囲気も面白く、夜になって遊びに来ればさぞかし楽しいだろうに、と思ったが、言葉の通じない私には、そんなことをする勇気はなかったのは言うまでもない。

ホテルは3つ星クラスの普通のところだった。前回の台湾学外演習の時は、圓山大飯店という5つ星クラスのホテルにも泊まったそうだが、今回はない。それにしては結構なお値段(旅行費用は23万円くらい)なのだが、特別なところを訪れ、しかも添乗員がずっと同行するのであるからやむを得ないだろう。ホテルや夕飯の記憶はない。写真もほとんど無いところを見ると、普通に皆で夕食を囲み、夜は皆の部屋を訪れ賑やかに過ごしたのだろう。日付が変わっても遊んでいる様子を撮した写真が残っている。同室だったT君は、先輩のAさんに呼び出され、3日間とも俺が寝てから部屋に戻ってきたのを覚えている。


書道について61

2009-03-31 19:46:03 | 日記・エッセイ・コラム

○大学院1年の頃④

この年の学園祭で、私はあることを計画していた。それは高野切第一種の巻一の復元である。昨年の学園祭の書展で、ある先輩が、現存する巻一の断簡を全部臨書して一巻にまとめた巻物を出品しており、それを見て連続部分がとても多いことを知り、これはひょっとすると巻一全部の復元が可能なのではないかと思うようになった。

また、その学園祭の後に受験した大学院入試で予想を覆して高野切第一種のマイナーな部分が臨書課題として出題され、その出来を仮名担当のM先生から暗に揶揄されるということがあり、それ以外にも、大学院入試のための仮名の持ち込み作品においても色々と意に反する指導をされたために、私は何とかしてM先生の鼻を明かして、ずたずたにされた自分のプライドを回復したいと考えていたのである。

幸い先生はこのような作業について相当関心を持っているらしいというのは、1年半接してきてよくわかっていた。大学院の授業でも、古筆の失われた部分を倣書で補うという課題に取り組んでいた。そこで、大学院に進学した4月以降、少しずつ資料を集め、1学期の終わり頃からは実際に臨書と倣書を始めた。夏休み中には一通り全巻を書き上げ、9月のある日、4年生の学生2人がいろいろな相談で研究室を訪れているところへ、まだ未完成ではあるものの、出来上がった巻物を持ち込み、先生に見ていただいた。

その時のM先生の表情は今でも忘れられない。M先生の「してやられた!」といったような表情。私はこの顔を見たくて、4月からずっと、私には似合わない細かな作業を続けてきたのだ。私はその表情を見て、先生に対して”復讐”できたと確信した。

先生は口元をぷるぷる震わせつつ、いくつかのアドバイスをしてくださった。もちろんその作品はまだ不十分なところばかりだったので、私は内心勝ち誇りつつも謙虚にそのアドバイスに耳を傾けた。特に墨法については私は工夫が及んでいなかったので、ありがたいアドバイスだった。その後完成作品を書き上げ、表具に出し、完成した巻物を学園祭に出品したのである。

しかし、私の”復讐”はそこでは終わらなかった。学園祭が終わった後、今度は修了制作には巻一同様に断簡が多く残る、高野切第三種巻十八の復元をしようと決めていたのである。それを完成させることで初めて、M先生に対する”復讐”が完結すると思っていたのである。


書道について60

2009-03-16 21:31:27 | 日記・エッセイ・コラム

○大学院1年の頃③

夏休みが開けると、学園祭の準備に入る。この年は色々考えた結果、陳鴻壽の行草書八屏を参考にし、書風も真似て四屏の作品に仕立てることにした。詩文は陳鴻壽の師である阮元の詠んだ詩で、しかも陳鴻壽の書斎を「桑連理館」といったことにちなみ、「秋桑」と題した連作の詩の中の四首を選んだ。陳鴻壽の文字を集めて倣書から入り、次第に書き込んでいって統一感を出すように努めた。しかし、先生方からの評価は今ひとつだった。

学園祭の書展では、陳列に気を使う。基本的には学生がざっと並べたものを、後から先生方の指示で掛け替えるという手順を取る。以前伊藤伸先生が生きておられた頃は、会場全体にぴりぴりした空気が張り詰めていたのを覚えている。そして、一番奥の、先生方の作品が展示される部屋に作品が展示されるのは、学生にとって名誉なことであった。しかし、ある年は学生だけで展示したこともあり、その時は大分不満も出たりして大変だったのだが、この年と翌年は、先生方が全面的に指示を出してくれ、無事に陳列は済んだ。私も初めて一番奥の部屋に展示されたのだった。

学園祭が終わると、いよいよ台湾研修旅行へと気持ちが向かっていく。三年生と留学生の人達は皆準備に大わらわだった。中に四人ほど参加しない学生もいた(しかも企画運営する三年生にも一人いた)が、何故こんな得難い機会に皆と一緒に出かけようとしないのか、とても不思議だった。

旅程は、三泊四日で台北に滞在し、一般的な観光地の他に、故宮博物院と中央研究院を訪れることになっていた。私も一度は出かけてみたいところだったので、とても楽しみにしており、夏休みには三越のお中元のアルバイトに精を出して資金を貯めた。