歩行記録 H27-8-31(月)
歩行時間:6時間45分 休憩時間:1時間25分 延時間:8時間10分
出発時刻:8時45分 到着時刻:16時55分
歩 数: 38、240歩(推定距離28.7km) GPS距離29.2km
行程表
常滑駅 1:00> 66番 0:15> 67番 0:10> 68番 0:05> 69番 0:10> 70番 0:15> 71番 1:00> 72番 0:25>
77番 0:05> 73番 0:05> 75番 0:05 74番 0:05> 76番 0:30> 78番 0:10> 79番 0:00> 開山 0:20>
80番 0:10> 81番 0:40> 82番 0:15> 太田川駅
71番大智院(八百比丘尼)
大智院山門 本 堂
地蔵寺のある高台から下の道へおり、更に東に進み国道155号線を越えて行った丘陵地に71番大智院(だいちいん)はある。
大智院の塀にも定規筋らしき筋が3本見えていた。これも筋壁かと近づいて見ると、山門に接した部分の塀の筋は4本で、横に
長い塀の筋は3本だった。
エー!どちらが正しいのだょぅー、いや待てよ、私は勝手に定規筋と思っているが、これは若しかすると単なる塀の装飾かも知れ
ないと思いだした。何故なら高貴の方に許されて描いたのなら、筋が3本と4本が混じる分けはない。これは多分塀の模様でしか
ないだろう。そうなると慈雲寺の定規筋も自信が無くなってしまった。
このお堂が本堂なのか観音堂なのか判然としないが、お堂の中に本尊の聖観音が祀られているので一応本堂としておきます。
その本堂の前の両横には、狛犬ならぬ馬が置かれているが、どちらも口を閉じた “吽” の形でした。その横には “馬頭観音” の
幟も立ち、本堂の格子戸には 「尾張三十三所 馬頭観世音菩薩」 の札も掛かっていた。
アレー何故なんだ。観音巡りなら本尊の聖観音が指定されるであろうが、それが馬頭観音とは。
更に納経帳を見ると 馬頭観音と大きく、その横に 「身代大師」 となっていた。これでは聖観音はどこへ行ったのだ?
弘法堂 護国弘法大師像
弘法堂と書いたが自信はない。ただお堂の正面に 「卍71番弘法大師」の馴染みの札と 「めがね大師」「身代大師」 の札が
下がっていたので弘法堂と判断をした。但しここにも “薬師如来” と書かれた札があったが聖観音の名前は無かった。
弘法大師像の周りに二十一体の修行大師像も祀られていた。
弘法堂内部 めがね大師
弘法堂書面に祀られている弘法大師像に黒い眼鏡が掛けれれている。これが “めがね大師” の謂れなのだろう。
寺の案内には
「めがね弘法様は身代におたちになる 眼の弘法様として皆様から親しまれています。安政7年開眼した翁の身がわり 左目に
傷を負い、以来翁の残した眼鏡をかけられています。」
何々 そうするとめがね大師と身代大師は同じ大師だったのか。何とも紛らわしい。
この話を、もう少し丁寧に説明してあったので紹介します
「その昔、重い目の病気を患ったお爺さんがいました。お爺さんは目を守るためいつも黒い眼鏡をかけていました。
旅の途中お爺さんは、大智院に立ち寄り、弘法様に目が治るよう必死に祈ると、不思議な事にたちまち病気は治ってしまいました。
ところが、代りに弘法様の目に傷が付いてしまったので、お爺さんは驚いたが、弘法様が自分の病気を身代わり受けてくれたのだと
思いました。そして自分の眼鏡を弘法様に掛けて行きました。
それ以来、眼鏡をかける事になった弘法様は 「めがね弘法」 として親しまれています。」 のだそうです。
めがね塚 眼鏡大師の?
境内にあった 「めがね塚」 と、その横には薬局の宣伝?があった。
アレアレこれではめがね大師では眼病治癒の効果が無いので薬局を紹介している様なものだ。何とも情けない話だ。
めがね塚の横にも “寄贈 メガネのマツバ” の文字も見える。このめがね塚は眼病が治った人が掛けていたメガネを供養する
のだから、メガネ屋の宣伝があっては落着きが悪い。
眼病治癒の話は、この前の地蔵寺の水掛地蔵もそうだったが、連続して同じ病気を治すなんてお互い大変だろう。
方や地蔵尊、此方弘法大師。果たしてどちらの方が治癒能力が高かったか。
私の感想は、地味だが黒光りした水掛地蔵の方が治癒能力が高そうに見え、めがね弘法の黒いサングラスは、宣伝上手だが
腕の悪い施術者のように見えるのだが。
??? 樟の木
これは何でしょう。木で作った手の形の物、錫杖の上部を切取った物、そして木で作った小さな鍬のような物が置かれている。
説明が無いので分からないが、参拝するとき使う物だろうか?
楠の木といえば一般的に、幹は太く背が高い巨木を想像するが、ここの樟の木は幹が横になり盆栽の形の筏吹きや株立ち、
根連なりに見えないことはない変わった樹形の木だった。案内板によれば
「八百比丘 御手植えの大樟の由来 若狭の国に賢い少女がおりました、早く母親とは死別して、いつも意地悪な継母にいじめ
られていました。やがて父親が亡くなると父母の菩提を弔うため諸国の神社仏閣を巡拝していました。
あるとき当大智院に訪れ、樟木をお手植になり 「我死なば其霊この樟樹の精とならん」 と言い残して若狭に帰り、入定してしまい
ました。
茲に千有余年の樟樹は、何時しか八百比丘の精霊こもれる古木となり、不老長寿、開運福徳、商売繁盛、不慮の疾患、苦悩の
解脱等祈る人が多くなりました。殊に珍しいのは、婦人容貌を美麗ならしめる効果があり、夫人がこの霊木に記念する人が多い。」
ウーン一寸待った。表題には “八百比丘” とあるが、本文では “賢い少女” となっている。
本来 “比丘” なら男性で、女性なら “比丘尼” なのだから、表題は “八百比丘尼” とならなければならない筈だ。
それは兎も角、私の知っている話で 「八百比丘尼(やおびくに)」 があるが、それとは少し違っていたので紹介します。
「長寿伝説の尼 人魚の肉をたべて800歳まで生きたとされ、肌が娘のように白く、白比丘尼ともよばれる。
若狭(福井県)小浜を中心に、植樹伝説や椿を持って諸国を巡歴した話が各地に分布する。」
「ある男が、庚申講に誘われ人魚の肉料理をご馳走されるが、男は食べずに土産として持ち帰った。その料理を食べた男の娘は、
それ以来不老長寿となり、何度も夫に死別し、知合いもみな死んでしまう目にあった。そして女は出家して比丘尼となって村を出て
全国を巡り、各地に杉や椿、松などを植えて歩いた。やがて最後は若狭にたどり着き入定する。齢は八百歳であったといわれる。」
と、マー日本版人魚伝説のようなものだったが、大智院の言い伝えには、比丘尼が何故八百歳まで生き延びたかの理由がない。
せっかくここに沢山の枝が幹のようになった楠の木があるのだから、それを800本として話を作ればもっと面白くなるのにと思う。
更に樟の養分から美顔クリームを作り 「美顔術の元祖八百比丘尼から伝わる “婦人容貌を美麗ならしめる効果がある” クリーム」
として売り出したらどうだろう。尤もこれも眼病治癒に効力があるといいながら薬局を紹介すると似たりよったりかな。
それにしても興味は引いたが、読み難い案内板だった。
70番地蔵寺から71番大智院への道
歩行時間:6時間45分 休憩時間:1時間25分 延時間:8時間10分
出発時刻:8時45分 到着時刻:16時55分
歩 数: 38、240歩(推定距離28.7km) GPS距離29.2km
行程表
常滑駅 1:00> 66番 0:15> 67番 0:10> 68番 0:05> 69番 0:10> 70番 0:15> 71番 1:00> 72番 0:25>
77番 0:05> 73番 0:05> 75番 0:05 74番 0:05> 76番 0:30> 78番 0:10> 79番 0:00> 開山 0:20>
80番 0:10> 81番 0:40> 82番 0:15> 太田川駅
71番大智院(八百比丘尼)
大智院山門 本 堂
地蔵寺のある高台から下の道へおり、更に東に進み国道155号線を越えて行った丘陵地に71番大智院(だいちいん)はある。
大智院の塀にも定規筋らしき筋が3本見えていた。これも筋壁かと近づいて見ると、山門に接した部分の塀の筋は4本で、横に
長い塀の筋は3本だった。
エー!どちらが正しいのだょぅー、いや待てよ、私は勝手に定規筋と思っているが、これは若しかすると単なる塀の装飾かも知れ
ないと思いだした。何故なら高貴の方に許されて描いたのなら、筋が3本と4本が混じる分けはない。これは多分塀の模様でしか
ないだろう。そうなると慈雲寺の定規筋も自信が無くなってしまった。
このお堂が本堂なのか観音堂なのか判然としないが、お堂の中に本尊の聖観音が祀られているので一応本堂としておきます。
その本堂の前の両横には、狛犬ならぬ馬が置かれているが、どちらも口を閉じた “吽” の形でした。その横には “馬頭観音” の
幟も立ち、本堂の格子戸には 「尾張三十三所 馬頭観世音菩薩」 の札も掛かっていた。
アレー何故なんだ。観音巡りなら本尊の聖観音が指定されるであろうが、それが馬頭観音とは。
更に納経帳を見ると 馬頭観音と大きく、その横に 「身代大師」 となっていた。これでは聖観音はどこへ行ったのだ?
弘法堂 護国弘法大師像
弘法堂と書いたが自信はない。ただお堂の正面に 「卍71番弘法大師」の馴染みの札と 「めがね大師」「身代大師」 の札が
下がっていたので弘法堂と判断をした。但しここにも “薬師如来” と書かれた札があったが聖観音の名前は無かった。
弘法大師像の周りに二十一体の修行大師像も祀られていた。
弘法堂内部 めがね大師
弘法堂書面に祀られている弘法大師像に黒い眼鏡が掛けれれている。これが “めがね大師” の謂れなのだろう。
寺の案内には
「めがね弘法様は身代におたちになる 眼の弘法様として皆様から親しまれています。安政7年開眼した翁の身がわり 左目に
傷を負い、以来翁の残した眼鏡をかけられています。」
何々 そうするとめがね大師と身代大師は同じ大師だったのか。何とも紛らわしい。
この話を、もう少し丁寧に説明してあったので紹介します
「その昔、重い目の病気を患ったお爺さんがいました。お爺さんは目を守るためいつも黒い眼鏡をかけていました。
旅の途中お爺さんは、大智院に立ち寄り、弘法様に目が治るよう必死に祈ると、不思議な事にたちまち病気は治ってしまいました。
ところが、代りに弘法様の目に傷が付いてしまったので、お爺さんは驚いたが、弘法様が自分の病気を身代わり受けてくれたのだと
思いました。そして自分の眼鏡を弘法様に掛けて行きました。
それ以来、眼鏡をかける事になった弘法様は 「めがね弘法」 として親しまれています。」 のだそうです。
めがね塚 眼鏡大師の?
境内にあった 「めがね塚」 と、その横には薬局の宣伝?があった。
アレアレこれではめがね大師では眼病治癒の効果が無いので薬局を紹介している様なものだ。何とも情けない話だ。
めがね塚の横にも “寄贈 メガネのマツバ” の文字も見える。このめがね塚は眼病が治った人が掛けていたメガネを供養する
のだから、メガネ屋の宣伝があっては落着きが悪い。
眼病治癒の話は、この前の地蔵寺の水掛地蔵もそうだったが、連続して同じ病気を治すなんてお互い大変だろう。
方や地蔵尊、此方弘法大師。果たしてどちらの方が治癒能力が高かったか。
私の感想は、地味だが黒光りした水掛地蔵の方が治癒能力が高そうに見え、めがね弘法の黒いサングラスは、宣伝上手だが
腕の悪い施術者のように見えるのだが。
??? 樟の木
これは何でしょう。木で作った手の形の物、錫杖の上部を切取った物、そして木で作った小さな鍬のような物が置かれている。
説明が無いので分からないが、参拝するとき使う物だろうか?
楠の木といえば一般的に、幹は太く背が高い巨木を想像するが、ここの樟の木は幹が横になり盆栽の形の筏吹きや株立ち、
根連なりに見えないことはない変わった樹形の木だった。案内板によれば
「八百比丘 御手植えの大樟の由来 若狭の国に賢い少女がおりました、早く母親とは死別して、いつも意地悪な継母にいじめ
られていました。やがて父親が亡くなると父母の菩提を弔うため諸国の神社仏閣を巡拝していました。
あるとき当大智院に訪れ、樟木をお手植になり 「我死なば其霊この樟樹の精とならん」 と言い残して若狭に帰り、入定してしまい
ました。
茲に千有余年の樟樹は、何時しか八百比丘の精霊こもれる古木となり、不老長寿、開運福徳、商売繁盛、不慮の疾患、苦悩の
解脱等祈る人が多くなりました。殊に珍しいのは、婦人容貌を美麗ならしめる効果があり、夫人がこの霊木に記念する人が多い。」
ウーン一寸待った。表題には “八百比丘” とあるが、本文では “賢い少女” となっている。
本来 “比丘” なら男性で、女性なら “比丘尼” なのだから、表題は “八百比丘尼” とならなければならない筈だ。
それは兎も角、私の知っている話で 「八百比丘尼(やおびくに)」 があるが、それとは少し違っていたので紹介します。
「長寿伝説の尼 人魚の肉をたべて800歳まで生きたとされ、肌が娘のように白く、白比丘尼ともよばれる。
若狭(福井県)小浜を中心に、植樹伝説や椿を持って諸国を巡歴した話が各地に分布する。」
「ある男が、庚申講に誘われ人魚の肉料理をご馳走されるが、男は食べずに土産として持ち帰った。その料理を食べた男の娘は、
それ以来不老長寿となり、何度も夫に死別し、知合いもみな死んでしまう目にあった。そして女は出家して比丘尼となって村を出て
全国を巡り、各地に杉や椿、松などを植えて歩いた。やがて最後は若狭にたどり着き入定する。齢は八百歳であったといわれる。」
と、マー日本版人魚伝説のようなものだったが、大智院の言い伝えには、比丘尼が何故八百歳まで生き延びたかの理由がない。
せっかくここに沢山の枝が幹のようになった楠の木があるのだから、それを800本として話を作ればもっと面白くなるのにと思う。
更に樟の養分から美顔クリームを作り 「美顔術の元祖八百比丘尼から伝わる “婦人容貌を美麗ならしめる効果がある” クリーム」
として売り出したらどうだろう。尤もこれも眼病治癒に効力があるといいながら薬局を紹介すると似たりよったりかな。
それにしても興味は引いたが、読み難い案内板だった。
70番地蔵寺から71番大智院への道
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます