みちのくの山野草

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為すべきことを為したのか?

2021-05-05 16:00:00 | なぜ等閑視?
《金色の猩々袴》(平成30年4月8日撮影、花巻)

 さて、幸運にも私は柳原昌悦の、
という証言を知ったわけだが、その矢先、『校本宮澤賢治全集 第十三巻』(筑摩書房)の、例の「三日間のチェロの特訓」に関連する次の註釈「*5 」をたまたま発見して驚いた。
*5 新交響楽協会……新交響楽団。大正十四年三月に山田耕筰・近衛秀麿らによって結成された日本交響楽協会は、十五年九月早くも分裂し、十月五日近衛は新交響楽団を結成。練習所は東京コンサーヴァトリー。大津散浪(三郎の筆名)「私の生徒 宮沢賢治~三日間セロを教えた話~」(「音楽之友」昭和二十七年一月号)によれば、賢治はこの上京時、同楽団のチェリスト大津三郎に頼んで江原郡調布村字嶺の大津宅に通い、三日間早朝二時間のチェロのレッスンを受けた。ただしこれは、大津の夫人つや子の記憶では、次女誕生の後で昭和二年のことであったかもという。さらに沢里武治が大正十五年十二月の上京時に一人で賢治を見送った記憶をもつのに対し、柳原昌悦もチェロを携えた賢治の上京を送った記憶を別にもっている。これらのことから、チェロを習いに上京したことが、昭和二年にもう一度あったとも考えられるが、断定できない。
             <『校本宮澤賢治全集 第十三巻』(筑摩書房)569p>
 これは、宮澤政次郎宛書簡221の中の「新交響楽協会」ついての註釈であり、「柳原昌悦もチェロを携えた賢治の上京を送った記憶を別にもっている」とあったからだ。はたして、その時に賢治が「チェロを携え」ていたか否かはさておき、柳原は上京する賢治を送ったことがあるということになる。となれば、前掲の証言〝①〟はもはや無視できなかろう。

 一方で、いわば「賢治昭和二年上京説」、
〈仮説2〉賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、しばらくチェロを猛勉強していたが病気となり、三ヶ月後の昭和3年1月頃に帰花した。
私は検証できたし、入沢康夫氏からの支持も得たし、反例も今のところ突きつけられていない。よって逆に、『新校本 宮澤賢治全集 第十六巻(下)補遺・資料 年譜篇』がその典拠だと実質的に言っている「澤里武治氏聞書」(『續 宮澤賢治素描』所収)、
  澤里武治氏聞書
 確か昭和二年十一月頃だつたと思ひます。當時先生は農學校の教職を退き、根子村に於て農民の指導に全力を盡し、御自身としても凡ゆる學問の道に非常に精勵されて居られました。その十一月のびしよびしよ霙の降る寒い日でした。
 「澤里君、セロを持つて上京して來る、今度は俺も眞劍だ、少なくとも三ヶ月は滯京する、とにかく俺はやる、君もヴアイオリンを勉強してゐて呉れ。」さう言つてセロを持ち單身上京なさいました。その時花巻驛までセロを持つて御見送りしたのは私一人でした。駅の構内で寒い腰掛けの上に先生と二人並び、しばらく汽車を待つて居りましたが先生は「風邪をひくといけないからもう歸つて呉れ、俺はもう一人でいゝいのだ。」と折角さう申されましたが、こんな寒い日、先生を此處で見捨てて歸ると云ふ事は私としてはどうしてもしのびなかつたし、また先生と音樂について樣々の話をし合ふ事は私としては大變樂しいことでありました。滯京中の先生はそれはそれは私達の想像以上の勉強をなさいました。最初のうちは殆ど弓を彈くこと、一本の糸をはじく時二本の糸にかゝからぬやう、指は直角にもつていく練習、さういふ事にだけ、日々を過されたといふ事であります。そして先生は三ヶ月間のさういふはげしい、はげしい勉強に遂に御病氣になられ歸鄕なさいました。
              <『續 宮澤賢治素描』(關登久也著、眞日本社)60p~>
に基づいてこの件は考えればいいということになる。まして、この証言(「澤里武治氏聞書」)を大正15年12月2日の賢治年譜の直接の典拠にすることはもはやできないということはもちろんである。

 それにしても、「沢里武治が大正十五年十二月の上京時に一人で賢治を見送った記憶をもつ」というこの「記憶」の出典は何なんだろうか。私の管見故か、そのような証言や資料は聞いたことも見たこともない。
 そしてまた同様に、註釈「*5」の「柳原昌悦もチェロを携えた賢治の上京を送った記憶を別にもっている」の出典は何であろうか。澤里の場合と同様私は見たことも聞いたこともない。
 願わくば、典拠を明らかにせず、しかも一般読者にはそれに対応するような典拠を探し出せない、このような表記は避けていただきたいものだ。もし事情があってその時点ではその典拠を読者に明らかにできないというのであれば、その時点では活字にしないでいただきたい。
 また、『旧校本全集第十三巻』で「昭和二年にもう一度あったとも考えられるが」と問題提起をして、なおかつ「断定できない」と断り書きをしている以上、関係者はそのことを次回への大きな課題だと認識していなかった訳はなかろう。
 しかし、その努力を筑摩書房がなしたとは思えない。なぜならば、
  書簡篇『旧校本全集第十三巻』の発行は昭和49年
  年譜篇『旧校本全集第十四巻』の発行は昭和52年
 『新校本第十五巻書簡校異篇』の発行は平成7年
  『新校本第十六巻(下)年譜篇』の発行は平成13年
であり、
  柳原昌悦(明治42年~平成元年2月12日没)
  澤里武治(明治43年~平成2年8月14日没)
なので時間的にはかなりの余裕があったのだから、『旧校本全集』発行~『新校本全集』発行の間に調べようとすればかなりの程度のことを澤里や柳原本人から直接訊くことができたはずだ。ところが現実は、この『新校本全集第十五巻書簡校異篇』の註釈「*5」は、『旧校本全集第十三巻』の註釈と番号まで含めてまったく同じものであり、一言一句変わっていない。何も進展していなかったのである。何も進展がなかったということは、為すべきことが為されていないことの証左であるということにはならないだろうか。まことに残念なことである。
 まあ、澤里からの聞き取りに関しては関登久也が既に行って「澤里武治氏聞書」という形で公にしているから措くとしても、一方の柳原の先の「記憶」については極めて重要な意味合いを持つ訳だから、柳原本人からしっかりと聞き取ってその真相を『新校本全集』では読者に明らかにしてほしかった、時系列的には可能だったのだから。
 
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