みちのくの山野草

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壮行会

2024-02-17 08:00:00 | 独居自炊の光太郎
《『高村光太郎山居七年』》(佐藤隆房著、筑摩書房)

 『高村光太郎山居七年』にはこんなことも載っていた。
   一五四 壮行会
 先生が東京に出る準備が始まった頃、山口の人たちは、先生の前途を祝うため壮行の会を開きました。 場所は広い座敷のある戸来九左衛門さん宅とし、午後三時頃からの会で、
山口部落から二十人以上の人が集まり、役場の方からも助役の上田盾夫さんや、議長の清水賢竜さん等が集まりました。
 先生は戸来さんの宅へは時折遊びにきておったので、勝手もわかっており、清酒一升を土産にして、喜んで列席しました。
 質素な山のことでしたから、立派な食器や、美味しい食物などはなく、田舎風のお膳に田舎料理です。当日の御馳走は、山の幸のキノコ類と、芋の子です。キノコは、マがい出た名とのことです。ウエッコは雑木林に出て、傘の表の黒い、裏と軸の白い綺麗なキノコで、地方では殊の外珍重しています。みんなで工夫してのキイタケ、ウエッコ、銀タケ、金タケ、バクロウタケなど種々様々です。マイタケは黒い色のキノコで鶏頭の花の形に似、その何倍か大きいようなものくつもいくつもくっついてできて、これがみつかるときは大きな群落になっていることが多く、これを見つけた者は喜びの余り舞をまうということからノコ料理はいろいろです。
 お膳につきますと、先生は座談の中に「皆さんおききの通り、今度十和田の湖畔にたてる記念像を制作するために東京に行くことになったのですが、一年たてばでき上がると思います。私は年を取っているがこの通り健康ですから、折角青森の知事から頼まれたものなので立派に作ります。一年経てば又会うのだから、地元に皆さんも達者でいて下さい。おいしいキノコをたくさん集めて下すって、これは東京では到底食べれない珍味です。」
 お酒を皆が献杯したが余りいただかず、ビール四本位飲んで相当愉快になり、盛んに笑談しました。縁側で一同記念撮影をしてからは、部落の人たちがはりきって民謡をやったり、尺八をふいたり、大気焔でした。 (昭和二十七年十月七日 戸来九左衛門氏談)
             〈『高村光太郎山居七年』(佐藤隆房著、筑摩書房)277p~〉
 なるほど、光太郎は十和田湖の乙女の像を制作したわけだが、その制作はあの高村山荘は小さすぎて難しいので、そのために一時東京に戻って作ろうとしたということか。実際、上掲書は続けてこんなことを述べていた。
   一五五 別れの言葉
 いよいよ先生は十和田湖にモニュマンを作る決心をし、七年の山口の生活からひとまず東京に移ることになったのです。永久に山口を離れる積もりではなく、一時の別れという考えらしく、留守の間の荷物の整理をすることになり、重次郎さんが四日ばかりつめて、先生の指示で荷物の整理をしました。東京へ持って行く大きな荷物は通運で出し、小さな荷物だけ持って山を出ることになりました。
 その別れのとき
「重次郎! 僕は何時死んでも構わないんだけど、為事をしたくって生きているんです。」
 小屋を出て、先生は幾度か振りかえりながら小屋への無限の愛着と惜別の情が禁じ得ないようでした。…投稿者略…(昭和二十七年十月九日 駿河重次郎氏談)
             〈『高村光太郎山居七年』(佐藤隆房著、筑摩書房)278p〉
 これらのことを知って、光太郎は山口の人たちから如何に慕われていたかということと、光太郎が山口と山口の人たちを如何に愛していたかということを改めて私は確信した。延いては、賢治の下根子桜での「独居自炊」と光太郎の山口でのそれは、かなり違っていたのだということも思い知らされた。

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 この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』

を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。
 延いては、
 小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、
『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。

 しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
 まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
 きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。
 すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。

 そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。

 そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。

 そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。

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