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註釈
(註一) (本文1p)
賢治の昭和2年4月18日付の詩〔うすく濁った浅葱の水が〕の中に次のような連、
そのいたゞきに
二すじ翔ける、
うるんだ雲のかたまりに
基督教徒だといふあの女の
サラーに属する女たちの
なにかふしぎなかんがへが
ぼんやりとしてうつってゐる
<『校本全集第四巻』(筑摩書房)66p~より>
があるが、この下書稿(二)において、《俸給生活者》に対して《サラー》と賢治はフリガナを付けているから
「サラーに属する女たち」=「俸給生活者に属する女たち」
ということがわかる。さらには下書稿(四)においては、[あの聖女の]を削除→[基督教徒だといふあの女の]に書き換えているから、「基督教徒だといふあの女の」とはクリスチャンで俸給生活者の女性、つまり寶閑小学校の先生高瀬露その人だと判断できる。賢治周辺の女性でこれに当てはまる人は他にいないからである。
したがって、賢治は「昭和2年4月18日」時点で露のことを「聖女」と認識していたことがわかる。
(註二) (本文2p , 69p)
佐藤勝治は「賢治二題」において、
「雨ニモマケズ」の書かれた十一月三日の十日前、十月廿四日の手記である。『決シテ瞋ラズ、イツモシヅカニワラツテ』いたいと祈る十日前に、彼はこのように瞋り、うらんでいる。さればこそ、彼は痛切に瞋るまいとしたのであろう。が、彼の全文章の中に、このようななまなましい憤怒の文字はどこにもない。
これがわれわれに奇異の感を与えるのである。
<『四次元50』(宮沢賢治友の会、昭和29年2月発行)10pより>
と述べている。
(註三) (本文7p)
『イーハトーヴォ第四號』には、この作者「露草」氏について
○露草氏 曾て賢治に師事せし人、岩手上閉伊にあり。
という説明が付記してあるし、同號には「喜捨芳名」として
(上閉伊郡附馬牛村)小笠原露
とあり、しかも当時の露の勤務校が「附馬牛村」の東禅寺尋常小学校であることから、この「露草」とは露のことであると判断できる。
(註四) (本文9p)
上田哲の論文の中に『露さんは、「右の手の為す所左の手之知るべからず」というキリストの言葉を心深く体していたような地味で控えめな人だった』(「「宮沢賢治伝」の再検証㈡-〈悪女〉にされた高瀬露-」より)という一文があるのだが、この「右の手の為す所左の手之知るべからず」はクリスチャンの間ではしばしば引用されるものであるということで、もしかすると鎌田さんは小学校時代にクリスチャン高瀬露からそのような話しをしばしばされていて、それが今でも心に残っているということを暗示しているのかもしれない。
ちなみに、このキリストの言葉の出処は、
施しをするときは、右の手のすること左の手に知らせてはならない。(マタイ伝6章3節)
<『新約聖書』(財団法人日本国際ギデオン協会)より>
のようだ。
(註五) (本文10p)
「ばけもの退治」の話である。
同じ菊仲間で牛乳屋をやつている八木さんと、近ごろ賢治さんの所に髪の長いばけものが出るというので、ある晩二人で退治に出かけた。
今こそ賢治住居のあたりはきれいに整理されて、道も広く明るくなつたが、じつさい彼が住んでいた頃はあの辺は藪であつた。鍛冶屋さんと牛乳屋さんは、おつとり刀で意気込んで出だしたのはいいが、木の根につまずき、ばらにさされて、いやもう大した目にあつて彼の家の戸を叩くことができた。
けつきよくその晩は相手のばけものがあらわれなくて、賢治さんと四方山話をして帰つて来たのであつたというが、この「髪の長いばけもの」というのが、彼の所謂『聖女のさましてちかづけるもの』T女である。
<『四次元50』(宮沢賢治友の会)11pより>
つまり、「髪の長いばけもの」とは、下根子桜の賢治の許を訪ねる露のことだった。もちろん「T女」もである。おそらくこのような噂話があれこれと流されていたのであろう。
(註六) (本文11p)
当時は、およそ1時間に1本の列車だから、大雑把に見積もって待ち時間の平均値は1時間×0.5=30分となり、往復で30分×2=1時間と見積もれる。
したがって、待ち時間も考慮した場合の所要時間は、
・一日に二回も遠いところをやってきたりするようになったとすれば、約 8+2=10時間は、
・一日に三回も遠いところをやってきたりするようになったとすれば、約 12+3=15時間は
かかることになる。
(註七) (本文20p)
同書によればその葉書の文面は
高橋サン、ゴメンナサイ。宮沢先生ノ所カラオソクカヘリマシタ。ソレデ母ニ心配カケルト思ヒマシテ、オ寄リシナイデキマシタ。宮沢先生ノ所デタクサン讃美歌ヲ歌ヒマシタ。クリームノ入ツタパントマツ赤ナリンゴモゴチソウニナリマシタ。カヘリハズツト送ツテ下サイマシタ。ベートーベンノ曲ヲレコードデ聞カセテ下サルト仰言ツタノガ、モウ暗クナツタノデ早々カヘツテ来マシタ。先生ハ「女一人デ来テハイケマセン」ト云ハレタノデガツカリシマシタ。私ハイゝオ婆サンナノニ先生ニ信ジテイタゞケナカツタヤウデ一寸マゴツキマシタ。アトハオ伺ヒ出来ナイデセウネ。デハゴキゲンヤウ。六月九日 T子。
<『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉豊文著、東京創元社)113pより>
ということだが、もしこの葉書に書かれている内容が事実であったとすれば、その頃までの二人は少なくとも親しく交際していたことが直ぐわかるが、もちろんこの葉書が果たして露本人が昭和2年6月9日に書いたものなのだろうかという疑問が湧く。なぜなら、6月上旬に〝クリームノ入ツタパン〟は当時手に入ったかもしれないが、その時代の6月上旬頃に〝マツ赤ナリンゴ〟が手に入ることは全くあり得ないはずだからである。
従って、この書簡の取り扱いはかなりの注意が必要である。
(註八) (本文50p)
杉浦 賢治あての手紙が残されているとすれば、来簡集のようなものを編みたいのですが…。
続橋 それはあるらしいですね。なかば公然の秘密みたいな囁やかれ方をしていますが。
入沢 よくわかりませんけど、実際問題としては、公にすることを聞いたことは一度もないです。
<『賢治研究 70』(1996.8 宮沢賢治研究会)185pより>
(註九) (本文51p)
『宮澤賢治物語』の中の「羅須地人協会時代」の中に、
協会を訪れる人の中には、何人かの女性もあり、そのうちの一人が賢治を慕つておつたようです。最初は賢治も「なかなかしつかりした人だ。」とほめておりましたが、その女性が熱意をこめて来るので、少し困つたようです。そこで「本日不在」という貼紙をはつておいたり、又は別の部屋にかくれて、なるべく遭わないようにしていたのですが、そうすればするほどいよいよ拍車をかけてくるのが人情で、しまいにはさすがの賢治もおこつてしまい、その女性に、少し辛くあたつたようです。(傍点筆者)
<『宮澤賢治物語』(関登久也著、岩手日報社、昭和32年)89pより>
とある。
(註十) (本文51p)
『宮澤賢治物語』の中に、賢治の教え子の簡 悟の次のような証言もある。
森さんは宮沢賢治をめぐる三人の女性を書いておられるが、実際は、五人の女性があります。二人の女性については、すでに話題になっておりますが、あとの二人は現存してる人達だし、何も徳義に欠けた行動をとつた人達ではないから申し上げてもいいようなものの、お話しする機会もそのうちあると思います。先生はその時も、私は遠からず結婚するかもしれぬと申されましたが、それはついに実現しませんでした。(傍点筆者)
<『宮澤賢治物語』(関登久也著、岩手日報社)275pより>
なお、ここでいう「三人の女性」とは妹トシ、露、ちゑのことであり、「二人の女性について」とは露とちゑについてであることが同書からわかるので、「あとの二人」とはこれらの「三人の女性」以外の人であるということになる。
(註十一) (本文59p,75p)
「10月29日付藤原嘉藤治宛伊藤ちゑ書簡(抄)」
秋晴れの良いお日和が続きます。先日は失礼申し上げました その後御家族ご一同様には御変わりも御座居ませんか 謹んで御伺ひ申し上げます
宮澤さんの御本、色々とありがたう存じました 厚く厚く御礼申し上げます
又、御願ひで御座居ます この御本の後に御附けになりました年表の昭和三年六月十三日の條り 大島に私をお訪ね下さいましたやうに出て居りますが宮澤さんはあのやうに いんぎんで嘘の無い方であられましたから 私共兄妹が秋 花巻の御宅にお訪ねした時の御約束を御上京のみぎりお果たし遊ばしたと見るのが妥当で 従つて誠におそれ入りますけれど あの御本を今後若し再版なさいますやうな場合は何とか伊藤七雄を御訪ね下さいました事に御書き代へ頂きたく ふしてお願ひ申し上げます。尤も大島に兄を御訪ね下さいました事などは年表に御入れなる程の必要も無い小さい事故どうでもよろしゆう存じますが 昨日落手いたしました奉天に居ります兄の知人の便りに宮澤賢治氏の御本にあなたが出て来るが色々と妻と話し合つている云々とあり ギクツとしてしまひました 多分あの年表を御覧になつたのかと存じます 宮澤さんが私にお宛て下すつたと御想像を遊ばしていらつしやる御手紙も先日私の名を出さぬからとの御話しで御座居ましたから御承諾申し上げたやうなものゝ 実は私自身拝見致しませんので とてもビクビク致して居ります 一応読ませて頂く訳には参りませんでせうか なるべくなら くどいやうで本当に申訳け御座居ませんけれど 御生前ポストにお入れ遊ばしませんでしたもの故 このまゝあのお方の死と一緒に葬つて頂きたいと存じます能 御承知の通り草野心平氏も御書き遊ばして居られましたけれど □□の詩の中の雲の種ゝ相のスケッチすらも 完全に□□とらへ歌ひすてゝ 再びは決してお取り上げならなかつたらしく それにあの方は御心の祈り傾くまゝに吾々凡人の思ひもよらぬ大きな願望を持つて居られて その世界に眞向ひ火華を散らしての激しいひたむきな御精進の道以外にお有りならなかつたらしゆう御見受けいたします 仮に厚かましく私に御書き下さつた御手紙と思つて見ましても あの方の御残しなつた□□の心象詩の一行にも当らぬ程の途上の一瞬の関心を 御永眠後世に発表遊ばしたら きつとあの優しいお目を きらりとおさせになつて 止めてくれやめてくれと仰言ると存じられます 私宛のものでしたら私だけ読ませて頂いて終ひにさせて下さいませ こんな事を申し上げるのもお恥ずかしいのですけれど 私事は仰臥天井を眺めて病床に五年も居りますのに まだ尚も凡悩迷低その上□□の代者で御座居ますので 立派なあの方の御本のどの頁にも 私如き者の名を入れて汚したくは御座居ません能 考へれば考へます程とてもつらくなつてしまひます どうぞどうそお判り下さいませ あのお方が御生前ふれ合ふ凡ての人々に対して惜しみなくあたへられた あの親しい眞実な微笑と底なしの友情は 遠くの方から少し私も分けて頂き 残る半生をつつましく迎へたいと存じ居ります。…(筆者略)…御多忙の中を誠におそれ入りますけれど 花巻の御宅へどうぞよろしくおとりなし下さいませ どんな御手紙を御残し下さいましたか 謹んで拝見させて頂きます …(筆者略)…少し遅れましたが 見事な果物本当に本当にありがたう御座居ました 美味しくみんなで頂きました だんだんお寒くなります折から どうぞみな様御風邪など御召し遊ばしませぬやう 末筆で大変おそれ入りますが 奥様にくれぐれもよろしくお伝へ下さいませ あらかしこ
十月二十九日 ちゑ
藤 原 嘉 藤 治 様
彼岸花見つゝ史跡をめぐりたる大和の秋の旅をし想ふ
大和路の秋をめぐらん日の有りや病みこもる身の儚きあくがれ
お笑ひ草までに
<筆者註> この書簡は、平成19年4月21日第6回「水沢・賢治を語る集い「イサドの会」」 における千葉嘉彦氏の発表「伊藤ちゑの手紙について―藤原嘉藤治の書簡より」の資料として公にされたものでもある。
(註十二) (本文75p,81p,86p)
現時点ではこの発言を活字にする事は憚られるので一部伏せ字にした。
(註十三) (本文119p)
「賢治像・賢治作品の評価をたどる」という座談会において、次のようなやりとりがあったということである。
司会 堀尾さんの他には、戦争中から宮沢家を訪れていた小倉豊文さんが非常に実証的な取り組みをなされていますね。
続橋 小倉豊文さんは「農民は口を開かないんだ。親しくなって農民に口を開かせてみろ。宮沢がどんなに恨まれているか」というのを口を酸っぱくして小倉豊文さん話をしていた。そこまで調べないとだめだ、と。
<『賢治研究 70』(宮沢賢治研究会)175pより>
(註十四) (本文119p)
考証的な文化史学の徒であり、文学のアマチュアにすぎない私が…
<『文学第三十二巻第三号』(岩波書店)43pより>
(註十五) (本文123p)
【仮説】〔哲〕(hypothesis)自然科学その他で、一定の現象を統一的に説明しうるように設けられた仮定。ここから理論的に導き出した結果が・観察・計算・実験などで検証されると、仮説の域を脱して一定の限界内で妥当する真理となる。
<『広辞苑 第二版』(新村 出編、岩波書店)>
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ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているという。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。
おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
一方で、私は自分の研究結果には多少自信がないわけでもない。それは、石井洋二郎氏が鳴らす、
あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という警鐘、つまり研究の基本を常に心掛けているつもりだからである。そしてまたそれは自恃ともなっている。そして実際、従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと言われそうな私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、なおさらにである。
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