みちのくの山野草

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安藤玉治 「農耕と著作」

2020-10-28 12:00:00 | 甚次郎と賢治
〈『和光 追悼の詩』(松田むつ子編集発行、昭和55年11月)吉田矩彦氏所蔵〉

 では今回からは、安藤玉治が寄せた追悼「松田甚次郎先生死せず」 からである。それは先ず「農耕と著作」という項から始まっていて、そこにはこんなことが述べられていた。
 …投稿者略…村を護ることも土を守ることも、それは、 結局、皇国守護の誠心を捧ぐることである。と、叫ばれた先生は、農耕人として全く表現を絶する程の働きをされつゞけた。生きるための農民ではなく、生かすための農民であるといふ信条のもとに、たとへ、一日でも無駄にすることなく、泥田に膝を没して休む間も惜しみ、畑では泥手で飯を喰ふことを楽しみ、家畜を殖やし、荒れ地を開墾し、出来得る限りの金肥や、用品の購入額を減少し、二人分の労力は一人でやり抜く心構えで終始された先生は、誠に東北農民の典型であられ、皇国農民の行手をかざす炬火であられた。
             〈『和光 追悼の詩』(松田むつ子編)130p〉
 そこでこの記述に従えば、
    松田甚次郎は、村を護ることも土を守ることも、それは、 結局、皇国守護の誠心を捧ぐることである。
と叫んでいたということになる。となれば、この「叫んでいた」ことが、はたして「時流に乗り、国策におもねた」ことの証左となるのであろうか。
 一方で甚次郞は、
 一日でも無駄にすることなく、泥田に膝を没して休む間も惜しみ、畑では泥手で飯を喰ふことを楽しみ、家畜を殖やし、荒れ地を開墾し、出来得る限りの金肥や、用品の購入額を減少し、二人分の労力は一人でやり抜く心構えで終始された先生
というように安藤からは見えたことになる。
 ちなみに、安藤が甚次郞を目の当たりに見たのは、
 私が最上共働村塾を訪ねたのは、昭和十八年一月十日だった。
 当時、岩手の国民学校の一教師、冬休みを利用して、一年後輩だった吉田六太郎君をたより、二人で訪れ、彼は直ぐ帰ったが、私は一週間ほどお世話になった。
と、『「賢治精神」の実践―松田甚次郎の共働村塾』の中で書いているから、ほどなく、ガダルカナル島から撤退することになる頃のことであり、戦況がはかばかしくなっていた頃だ。となれば、甚次郞独りだけが、「皇国守護」や「皇国農民」を声高に叫んでいたわけではなかろう。日本全体が熱に浮かされていたはずだ。
 一方で、農村からは多くの働き手が戦争に駆り出されてしまって、残された年寄りや女性たちが銃後の農作業等に取り組まねばならなかったはずだ。そんな状況下にあって、「泥田に膝を没して休む間も惜しみ、畑では泥手で飯を喰ふことを楽しみ、家畜を殖やし、荒れ地を開墾し、出来得る限りの金肥や、用品の購入額を減少し、二人分の労力は一人でやり抜く心構えで終始された」甚次郞は、評価されこそすれ、独り甚次郞だけが「時流に乗り、国策におもねた」と揶揄されねばならぬのだろうか。言い換えれば、もし甚次郞がそのように非難されるのであれば、それ以上に厳しく非難されねばならぬ人はもっともっと、他に沢山いたであろうに<*1>。

<*1:投稿者註> たとえば、以前〝群馬 阿部いわ〟でも触れたように、『農への銀河鉄道』(小林節夫著、本の泉社)がそのことを教えてくれている。 

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