みちのくの山野草

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賢治は「独居自炊」ではなかった

2016-03-15 08:00:00 | 「羅須地人協会時代」の真実
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
 では今回は、
   (1) 「羅須地人協会時代」の賢治は「独居自炊」だったとは言い切れない。
について少しく述べたい。

 まず最初に私がおかしいと思ったのが「独居自炊」についてだった。というのは、「旧校本年譜」(『校本宮澤賢治全集第十四巻』所収「賢治年譜」)の「大正15年7月25日」の中に、
 賢治も承諾の返事を出していたが、この日断わりの使いを出す。使者は下根子桜の家に寝泊りしていた千葉恭で午後六時ごろ講演会会場の仏教会館で白鳥省吾にその旨を伝える。
という記述があったからだ。もちろん、この記述「下根子桜の家に寝泊りしていた千葉恭」に従うならば、「羅須地人協会時代」の賢治は「独居自炊」だったとは言い切れない。これでは同時代の賢治は「独居自炊」だったという「通説」とは違うことになるではないか。
 そこで、まずは千葉恭なる人物のこと調べようと思ったのだが、何時頃から何時頃まで賢治のところに寝泊りしていたのかも、その出身地さえも『校本宮澤賢治全集』等には一切書かれていない。となれば私自身で調べるしかない。その結果、
・千葉恭の出身地は真城村折居(現奥州市水沢区真城折居)。
・恭は大正15年6月22日付で穀物検査所花巻出張所を辞職、昭和7年3月31日に同宮守派出所に正式に復職。
・甚次郎の日記によれば、松田甚次郎は昭和2年3月8日と同年8月8日の二回下根子桜の賢治の許を訪れている。
・恭は甚次郎を下根子桜の別宅で直に見たと言っているが、それが事実ならば昭和2年3月8日のことである。
・恭は賢治から実家の田圃の「施肥表A」〔一一〕等を設計してもらった。
・恭はマンドリンを持っていたと、恭の長男・三男が証言している。
・N氏が直接平來作本人に取材した際に、來作は下根子桜のあの楽団でたまにマンドリンを弾いていたということ、恭も一緒にマンドリンを弾いたということを証言している。
ということなどがわかったので、
〈仮説〉千葉恭が賢治と一緒に暮らし始めたのは大正15年6月22日頃からであり、その後少なくとも昭和2年3月8日までの8ヶ月間余を2人は下根子桜の別宅で一緒に暮らしていた。
を定立して検証してみたところ、現時点では反例は一つも見つかっていない。
 しかも恭は、下根子桜の別宅に寄寓していた際に、『私が炊事を手伝ひました』とか『私は寝食を共にしながらこの開墾に従事しました』ということも証言している。したがって、
    「羅須地人協会時代」の賢治は、厳密には「独居自炊」であったとは言い切れない。
と言えることがわかった。
 かてて加えて、この時代が「独居自炊」と譬えられるようになったのは『昭和文学全集14宮澤賢治集』(角川書店、昭和28年)以降であり、奇しくもそれは、高村光太郎の随筆集『獨居自炊』(昭和26年)の発行を境にしていることもわかる。それ故、「羅須地人協会時代」を「独居自炊」で譬えるのは換骨奪胎の感が否めず、あまり後味もいいものではない。
 なお、恭は下根子桜の別宅寄寓解消後、真城村の実家に戻って帰農し、地元の青年32名を誘って『研郷會』を組織して、農村の隆盛と農業技術の向上により理想の農村を創ろうと腐心した。これはちょうど、甚次郎は昭和2年3月8日に下根子桜に賢治の許を訪ねて「一、小作人たれ/二、農村劇をやれ」と「訓へ」られてそのとおり故郷鵜飼村に戻って本当に小作人になり、農村劇を行いながら農村改革に身を捧げたわけだが、甚次郎のそれと同様であり、恭も甚次郎も共に「賢治精神」を実践しようとしたと言える。

 だから私には、生前全国的にはほぼ無名だった賢治及びその作品を初めて全国規模で世に知らしめた甚次郎だが、その甚次郎の名が昨今は殆ど忘れ去られてしまっていること、そして賢治と一緒に暮らした恭もまた同様であることが残念だ。どうも、現時点ではその理由は不明だが、共にこの二人は意識的に無視されてきたという感が否めない。

<注> この項については、拙著『賢治と一緒に暮らした男―千葉恭を尋ねて―』において実証的に考察し、それを詳述してある。

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 『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』         『羅須地人協会の真実-賢治昭和2年の上京-』       『羅須地人協会の終焉-その真実-』

 『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)               『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』

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