みちのくの山野草

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1815 千葉 恭の羅須地人協会寄寓10

2010-11-06 08:00:00 | 賢治関連
 では今回は『 四次元』(宮沢賢治友の会)に戻ってその5号に載っている千葉 恭の「宮澤先生を追ひて(二)」を見てみたい。
 まずはその前半部分を転載させて貰う。次のようになっている。
 先生との親交も一ヶ年にして一応終止符をうたねばならないことになりました。昭和四年の夏上役との問題もあり、それに脚氣に罹つて精神的にクサクサしてとうとう役所を去ることになりました。私は役人はだめだ!自然と親しみ働く農業に限ると心に決めて家に歸つたのです。
 家に歸ることについては先生は非常に喜んでくれました。家には年寄ばかりで朝から晩までせつせつと働き續けるのを見てはぢつとしてはゐられなくなり、私は元氣を出して働き出したのです。田舎の朝の空氣一番先に胸一杯吸ふのはやつぱり百姓だ!私もその百姓として先生の教へを乞ひつゝ働きつゞけて美しい農民の生活に入つて行こうと決心したのです。鋤を空高く振り上げる力の心よさ!水田が八反歩、畑五反歩を耕作する小さな百姓だが何かしら大きな希望が見出した様な氣がされました。作物に對する愛情はだれも知り得ない美しい世界です。春の田打から田植えの土のかおりに浸りながら、暖かい陽ざしを浴び農業の研究的なことを語る樂しさ、伸び行く作物にしみじみと親しさを感じ味はひ得るところに農民の尊さと神聖さのあることを發見しました。
 その年の私の村では農會廢止論が起こつたり、また年の離農者が増して來るばかりで、私が考へたやうな理想の農村や先生が語る理想の農村は、破かいされて行くばかりなのです。かうした農村を如何にして是正しようかと考へさせられました。味氣ない農村だ農業だと年の離村して行くのは私が百姓をやり出してからの苦悩の最大のものであつたのです。それを除くために如何なる方法を講ずべきかと、私は十日間も考へ抜いた末にやつとその方法を見出したのです。それは實際やつて見て巧く行くか、また逆轉するかは判りませんが先づやつて見ようとしたのです。
 村で農學校を卒業して働いてゐる青年は三十二名もありましたので、稲作も濟んだある夜役場に集まつて、何とか農村日本の美風を保つて行きたいと相談しました。その結果先づ農村は味氣なく殺風景だから、文化による向上で農民の土に親しむ道を講じ、それと共に農會の機能を活發に活動するやう促進させることであると、各人担當研究員として組織し農會を盛り立てゝ行くことゝしました。そして實地農業技術の透徹であり、農業経営の理想化自然と親しむ芽生えの昂揚であることを強調しました。研究會と云ふ名稱の下に組織して水稲関係は水稲の担任者の意見、副業関係は副業担任者意見によつて、農民の働く力を増進させること、それと共に一方年によつて農民劇を、子供には童話會を開催して文化により土に親しみ土地を去る心をおさへることに腐心しました。
    研郷會規則
一、この會は農村の隆盛と技術の向上により理想化し親しみのある農民の集合である。
二、この會は研郷會として事務所を會長宅に置く。
三、この會は事業の遂行のために左のことを行ふ。
 1.各種目の研究を担當する
 2.研究會・座談會・普及會・農民劇・童話會・農事視察・農事調査を開始する
 3.その他必要なる事項
四、この會には農民の誰もが入りうる。
五、この會の事業は奉仕的にやり役員を必要とする。
 1.会長 一名 2.専任役員 四名 3.研究員 三十名 4.修養員 十名 5.幹事 若干名
六、この會は互いに随時集まり必要なる問題につき研究討議するものとす。
七、この會は理想農村の完遂までつゞくること。
  …(中略)…
 一ヶ年の成績は見るべきものがあり、明るい村となつて來たのを見出しました。成績については別の機會にゆづることにします。
 かうした方法で色々の問題が解決して行き、年の離村も苦い顔もなくなり、水稲其他の収穫等も多くなり模範村となつたことだけは記して置きます。

         <『四次元 5号』(宮沢賢治友の会 Mar-50)より>

 さて、千葉が述べているこの追想に関して次の二つのことをここでは述べてみたい。
 その一つ目は、もちろん
 親交も一ヶ年にして一応終止符をうたねばならないことになりました。
の部分の解釈に関してである。
 これに続けて
 昭和四年の夏…とうとう役所を去ることになりました。
と千葉は言っているわけだから、素直にこれを受け止めれば千葉が役所を去ったのは昭和4年の夏ということになろう。とすればこの、”一ヶ年の親交”の”一ヶ年”とは”昭和3年の夏~昭和4年の夏の一ヶ年”ということになるはず。
 ところが、賢治は昭和3年の8月初旬には発病してそれ以降は豊沢町の実家に戻っているはずだからこの期間を”親交の一ヶ年”という表現をするわけはなさそうである。
 ならば、”親交の一ヶ年”を”昭和4年の夏”と切り離して、”親交の一ヶ年”の部分だけに焦点当てて考えてみることにしよう。”親交の”といえば直ぐに思いつくのは千葉が賢治と一緒に寝泊まりしていたと考えられる大正15年の二人の密接な関係である。ところが、千葉自身はその期間を約半年と言っているから大正15年頃の一ヶ年も”親交の一ヶ年”とは考えにくい。
 すると、”親交の一ヶ年”とは一体何時の期間のことなのだろうか。そしてどのような”親交”だったのだろうか。はたまた、役所を辞した時期はそもそも何時で、それと”親交の一ヶ年”どんな関係があったのだろうか…。理解に苦しむところである。

 述べたいことの二つ目は、松田甚次郎と同じ様に千葉恭もまた地元に戻って帰農し、賢治精神を実践しようとした(賢治が語るような理想の農村に変えてゆこうとした)ということである。なかなか出来ることではない。そしてこれも甚次郎の場合と同様、そのために規約を設けた組織を設立し、農業技術や農村生活の改善・向上、農村文化の振興などに努めて実際それ相応の成果を上げたということであり、そのことに敬意を表したいのである。わけても、そのことにより村の青年が離村することのない明る農村になったという実績に、千葉君なかなかやるじゃないかとエールを送りたい。

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