みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い はじめに

2024-01-07 12:00:00 | 賢治渉猟
《松田甚次郎署名入り『春と修羅』 (石川 博久氏 所蔵、撮影)》











 続きへ
前へ 
『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』の目次(改訂版)〟へ。 
********************************** なお、以下は今回投稿分のテキスト形式版である。**************************
〈表表紙〉松田甚次郎署名入り『春と修羅』
(石川 博久氏 所蔵、撮影)

〈裏表紙〉羅須地人協会跡地の日の出の時
(平成23年11月11日撮影)

    「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い
                      鈴木 守
       目      次 
はじめに                      1
第一章 「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い        3
 賢治が甚次郎に贈った『春と修羅』再発見 3
 賢治の最も短い詩「草刈」? 5
 賢治の「訓へ」(小作人たれ/農村劇をやれ) 6
 賢治の「訓へ」の矛盾 10
 「賢治精神」を実践しようと努力し続けた甚次郎 12
 大正十五年の未曾有の旱害と多くの救援 15
 賢治一ヶ月弱もの滞京 18
 当時の旱魃被害の報道 21
 「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」 24
 帰花後の賢治の無関心 27
 「本物の百姓」になりたいわけではなかった? 34
 抜きがたい「農民蔑視」 37
 昭和二年は「ひどい凶作であつた」という誤認 41
 昭和二年は「非常な寒い氣候が續いて」という誤認 44
 昭和三年の「ヒデリ」 49
 昭和三年の賢治の稲作指導 54
 「涙ヲ流サナカッタ」ことの悔い 59
第二章 「羅須地人協会時代」終焉の真相        63
 「演習」とは何か 63
 「かつての賢治年譜」の検証 64
 「逃避行」していた賢治 67
 「演習」とは「陸軍大演習」のことだった 69
 八重樫賢師について 72
 警察からの圧力と賢治の対処 73
 「自宅謹慎」 78
 書き残していなかったという事実 80
 論じてこられなかった理由と意味 83
 仮説を裏付けている賢治自身 87
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》 89
第三章 伊藤ちゑと高瀬露              92
 「伊藤ちゑから見た賢治」 92
 思考実験「悪女にされた切っ掛け」 94
 賢治宛来簡が実は存在している 98
おわりに                      101
《用語について》
・「下根子桜」=下根子桜の「宮澤家別宅」のあった場所
・「羅須地人協会時代」=「下根子桜時代」
      =宮澤賢治が「下根子桜」に住んでいた2年4ヶ月
・『校本全集第14巻』=『校本宮澤賢治全集第十四巻』
(筑摩書房)
・『新校本年譜』=『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)
年譜篇』(〃)
・帰花=花巻に帰ること
《引用文について》ゴシック体にしてある。

はじめに

 実は、私は宮澤賢治の妹シゲの長男岩田純蔵教授の教え子である。その岩田先生が今から約50年ほど前、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだがそのようなことはおいそれとは喋られなくなってしまった。
というような意味のことを私たちの前で嘆いたことがあったのだが、当時私の尊敬する人物は他ならぬ賢治であり、甥にあたる岩田先生のその話がずっと気になっていた。
 そこで、九年程前に定年となってやっと時間的余裕が生じたので少しずつ賢治のことを調べ始めた。すると、『新校本年譜』等において、常識的に考えればこれはおかしいという点がいくつか見つかるのだった。それは例えば次のようなものである。
(1) 大正15年7月25日には、
 賢治も承諾の返事を出していたが、この日断わりの使いを出す。使者は下根子桜の家に寝泊りしていた千葉恭で午後六時ごろ講演会会場の仏教会館で白鳥省吾にその旨を伝える。
とあるからだ。もしこれが記述どおり事実であったとするならば、「羅須地人協会時代」の賢治は「独居自炊」とは言い切れないから「通説」とは違うことになる。
 そこで私なりに検証してみたならば、やはりそうだったということを実証できたので、平成23年に拙著『賢治と暮らした男―千葉恭を尋ねて―』(自費出版)でそれを公にした。
(2) 大正15年12月2日には、
 セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち沢里と改姓)武治がひとり見送る。「今度はおれもしんけんだ、とにかくおれはやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」といったが高橋は離れがたく冷たい腰かけによりそっていた。
とあり、その典拠は澤里武治のある証言だと『新校本年譜』は述べている。ところが、その証言に従えば同年譜には致命的な欠陥が存在することになる。そこで、この欠陥を解消できる仮説を立ててみたところそれが検証できたので平成25年に拙著『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』(自費出版)にてそのことを公にした。
(3) かつての「賢治年譜」の昭和3年8月の記述、
八月、心身の疲勞を癒す暇もなく、氣候不順に依る稻作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、歸宅して父母のもとに病臥す。
についてもやはりおかしいと感じたので、そのことを検証して、平成25年に小冊子『羅須地人協会の終焉―その真実―』(自費出版)にてそのことを公にした。
(4) となれば、いわゆる「高瀬露悪女伝説」も然りで、これはおそらく捏造だろうと直感したので、その検証をしてみたところやはりそれは捏造であり、その捏造された伝説を全国に流布させた責任は『校本全集第14巻』にあるということを実証できたので、それを「聖女の如き高瀬露」と題して、平成27年に『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)の中で公にした。
 以上のことなどを通じて、
 とりわけ「賢治伝記」に関しては、常識的に考えておかしいと思ったところは実はいずれもほぼおかしい。
と判断しても間違いないということを確信するようになった。そしてこのようなことが、恩師が私たちの前で嘆いた「いろいろなこと」の具体事例なのだと合点したのだった。
 また一方で、これらのことを調べてみて特に感じたことは、私が理系出身だから特にそう感じたのかもしれないのだが、少なくともかつての賢治研究においては、裏付けも取らず、検証もせずに、しかも典拠を明示せずにいともたやすく断定表現をしている個所が少し多過ぎるのではなかろうかということである。まずは自分で直接原典に当たり、実際自分の足で当地に出かけて行って自分の目で見、現地で直接関係者から取材したりした上で、自分自身も考えるということなどがもっともっと必要だったのではなかろうか。
 さて、前置きが長くなったが、この度このような拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』を自費出版した。実は、拙論「「涙ヲ流サナカッタ」ことの悔い」が平成27年度岩手芸術祭の「文芸評論」部門で「奨励賞」をいただけた。そこでそれに加筆して詳述した拙論「「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い」として書き直して、それを第一章とした。その大きなテーマは二つあり、一つは松田甚次郎に賢治が贈った『春と修羅』が再発見され、その外箱には賢治が詠んだと思われる短い詩「草刈」が手書きされていたということである。もう一つは、賢治が大正15年の紫波郡赤石村等の大旱害に際して一切「涙ヲ流サナカッタ」ことの事実とその悔いについてである。
 第二章は、前掲の『羅須地人協会の終焉―その真実―』の一部分が会話形式になっているので、普通の論述形式のものに仕立て直したものである。澤里武治宛書簡中の「演習」とは「陸軍大演習」のことであったということを手がかりとし、いわゆる『阿部晁の家政日誌』から知ることができる当時の花巻の天気等を基にして、この時に賢治が実家に戻ったのは病気のためというよりは、当時岩手で行われた凄まじい「アカ狩り」に対処するために「下根子桜」から撤退し、豊沢町の実家で謹慎していたためだったということを実証したもので、「羅須地人協会時代」の終焉の真相を探ったものである。
 第三章には、先に『宮沢記念館通信第112号』に拙論「伊藤ちゑからみた賢治」を載せてもらったのだが、それは、今まであまり世に知られていなかった伊藤ちゑのある書簡等を基にして、ちゑと賢治の関係の新しい見方を示したものであり、それを転載した。なおその後、ちゑが賢治との見合いのために花巻に訪れた時期をほぼ確定できたので、そのことを踏まえて高瀬露とも関連するある仮説を見出そうと試みた思考実験等を最後に付け加えてある。
 したがって、第一章~第二章は、基本的には「仮説検証型」の論考であるが、最後の章はまだ仮説の段階であることをお断りしておく。
******************************************************* 以上 *********************************************************
 続きへ
前へ 
『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』の目次(改訂版)〟へ。
 〝渉猟「本当の賢治」(鈴木守の賢治関連主な著作)〟へ。
 ”みちのくの山野草”のトップに戻る。
 
***********************************************************************************************************
《新刊案内》
 この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』

を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。
 延いては、
 小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、
『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。

 しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
 まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
 きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。
 すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。

 そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。

 そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。

 そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。

 現在、岩手県内の書店で販売されております。
 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« やはり心もとない「校本賢治年譜」 | トップ | 高村光太郎の随筆集『獨居自炊』 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

賢治渉猟」カテゴリの最新記事