みちのくの山野草

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いよいよ東北砕石工場の技師となる

2021-03-08 12:00:00 | 賢治の「稲作と石灰」
【東北砕石工場技師時代の賢治(1930年頃 撮影は稗貫農学校の教え子高橋忠治)】
<『図説宮澤賢治』(天沢退二郎等編、ちくま学芸文庫)190pより>

 さて、今回は賢治がいよいよ東北砕石工場の技師になったことについてである。
 佐藤竜一氏によれば、
 技師の辞令を受ける
 東北砕石工場の仕事は、翌一九三一(昭和六)年になると具体化した。…(投稿者略)…
 二月一七日、鈴木東蔵から技師の辞令を受けた。身分は嘱託だった。
             〈『あるサラリーマンの生と死』(佐藤竜一著、集英社新書)119p~〉
という。そこで、『広辞苑』にて確認すれば、
【嘱託】
②正式の雇用や任命によらないで、ある業務にたずさわることを頼むこと。また、その頼まれた人。
ということだから、賢治は東北砕石工場の正社員になったわけではなかった。
 なおこの件に関しては、周知のように事前に恩師の関豊太郎に手紙で相談していて、それは、
301 二月二十五日 関豊太郎あて 封書
永々ご無沙汰いたし居りました処、本年は寒さ殊の外厳しくしく悪性の感冒などもしきりでございましたが先生並びに皆様にはお障りございませんでせうか虔んでお伺ひ申しあげます。 扨紙面を以てまことに恐り入りますが、年来のご海容に甘えお指図を仰ぎたい一事は本県松川村東北砕石工場より私に同工場の仕事を嘱托したいと申して参りました儀でございます。同工場は大船渡松川駅の直前にありまして、すぐうしろの丘より石灰岩(酸化石灰五四%)を採取し職工十二人ばかりで搗粉石灰岩末及壁材料等を一日十噸位づつ作って居りまして、小岩井へは六七年前から年三百噸(三十車)づつ出し昨年は宮城県農会の推奨によって俄かに稲作等へも需要されるやうになったとのことでございます。就てこの際私に嘱托として製品の改善と調査、広告文の起草、照会の回答を仕事とし、場所はどこに居てもいいし給年六百円を岩末で払ふとのことでございます。それで右に応じてよろしうございませうか、農芸技術監査の立場よりご意見お漏し下さらば何とも幸甚に存じます。尚石灰岩末の効果は専ら粒子の大小にあると存じますが稲作などには幾ミリ或は幾センチ位の篩を用ひてよろしうございませうか、いづれにせよ夏までには参上拝眉いたしたく紙面を以って失礼の段は重々お赦しねがひ上げます。ご多用の場合かとも存じ同封葉書封入致し置きました。単に一方ご抹消下さる迄でもねがひあげます。まづは。
   昭和六年二月廿五日
             〈『新校本 宮沢賢治全集〈第15巻〉書簡本文篇』〉
というものであった。
 そしてここで、私にとって改めて確認できたことは、
⑴ 搗粉石灰岩末及壁材料等を一日十噸位づつ作って居り
⑵ 嘱托として製品の改善と調査、広告文の起草、照会の回答を仕事とし
⑶ 小岩井へは六七年前から年三百噸(三十車)づつ石灰岩を出し 
⑷ 給年六百円を岩末で払ふ
ということなどである。
 ということは、この時点では、東北砕石工場の作っていたものは肥料というよりは、まず「搗粉石灰岩末及壁材料」であったということになりそうだ。
 それから、仕事内容にはもともと「照会の回答」も含まれていたということ。
 さらに、「三百噸(三十車)」ということだから、先の「一二車とは、120㌧もの量の「石灰岩抹」を意味し、そのような大量の石灰岩抹を渡辺肥料店は賢治の紹介で注文したということになるようだ。
 ちなみに、先の「昭和3年度用〔施肥表A〕21枚」分の石灰岩抹はトータル59貫だから、59×3.75㎏=221.25㎏、すなわち約0.22㌧となる。すると、その約545倍もの量となる「120㌧もの量の「石灰岩抹」」が如何に大量であるかは容易に想像できる。言い換えれば、賢治はかなりの量の石灰の施用を薦めたかということがこれで推し量れる。
 このことを私は知って思い出したことがある。それは、高橋光一が賢治から「これは、あの田には殊に良いものだから使ってみなさい」(『宮澤賢治研究』(草野心平編、筑摩書房、昭和44年)277p)と教えられ、「土地全体が酸性なので、中和のために一反歩に五、六十貫目石灰を入れた…(投稿者略)…」(同285p)ということをだ。
 そこでこれがもし事実であったとすれば、どうも賢治の石灰施用の指導の仕方については一度疑ってみる必要がありそうだ。なぜならば、「一反歩に五、六十貫目」となれば、例の〔施肥表A〕に書いてあるのは、せいぜいは多くても一反歩当たり十貫であり、その5~6倍もの量の石灰を高橋が撒いたということになり、過ぎたるは及ばざるがごとしであったであろうことはほぼ明らかだ。となれば、賢治はそのことを言い含めて石灰の施用を高橋たち農民に指導していたのだろうか。
 それから大事なことを高橋が言ったいたことに私はここで初めて気付く。それは、「中和のために一反歩に五、六十貫目石灰を入れた」ということである。なぜならば、稲の最適土壌はpHが5.5~6.5であり、中和したならばpH7となるので、当然やり過ぎとなる。どうも、賢治はこの件に関しては定性的な指導に留まっていて、定量的な指導に至ってはいなかったのではなかろうか。だから、もしかすると賢治は稲の最適土壌が実は「弱酸性~微酸性のpH5.5~6.5」であることを知らなかったのではなかろうか、というような不安を私はつい抱いてしまう。
 それは、賢治が石灰施用に関して「pH」に言及していた資料とか証言を私は今のところ見つけられずにいるからある。しかも、花巻農学校時代の賢治の同僚阿部繁が、
 科学とか技術とかいうものは、日進月歩で変わってきますし、宮沢さんも神様でもない人間ですから、時代と技術を超えることは出来ません。宮沢賢治の農業というのは、その肥料の設計でも、まちがいもあったし失敗もありました。人間のやることですから、完全でないのがほうんとうなのです。
            <『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著、津軽書房)82p~>
と指摘しているからなおさらにである。    

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