みちのくの山野草

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宮城県での営業活動

2021-02-11 12:00:00 | 賢治の「稲作と石灰」
〈『宮澤賢治と東北砕石工場の人々』(伊藤良治著、国文社)〉

 では今度は、宮城県での営業活動についてである。『新校本年譜』によればそのための出張は三回あり、それぞれの概略は、
<1回目>
 4月18日:松川→仙台 県庁農務課
 4月19日:県庁農務課(関口三郎技師<*1>と面談)→古川(県農事試験場、浦壁国雄<*2>)→小牛田(斉藤報恩農業館訪問?)
<2回目>
 5月4日 :松川→仙台 県庁農務課
 5月5日 :宮城郡農会→石巻広淵沼開墾地(高野一司<*3>、旧知)→小牛田(斉藤報恩農業館長工藤文太郎<*4>、旧知)
<3回目>
 5月10日:小牛田(工藤文太郎)→仙台
 5月11日:宮城県庁農務課→斉藤報恩会→宮城郡農会→岩沼→仙台
 5月12日:小牛田肥料店→斉藤報恩農業館(工藤文太郎)→築館栗原郡農会
というものであった。
 これらを見て、誰かがこの時代の賢治を「猛烈サラリーマン」に譬えていたが、その見方は間違っているわけではないが、それよりは「猛烈セールスマン」なのかなと私は思った。かといって、何も賢治独りだけが突出した「猛烈セールスマン」であったわけではなく、誰しもが賢治のような立場と環境におかれればそのように努力する程度の「猛烈セールスマン」であったのだと。そう、賢治だけがそうであったわけではなくて、賢治そうであったのだと。
 このことは、以前に掲げた「東北砕石工場技師時代の賢治の動向」一覧表からも窺える。







            <『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(筑摩書房)より拾い上げた>
実際、この一覧表による限りでは少なくとも8月までであれば、賢治の動向は時間的にはそれほどタイトだったとは思えない。昨今いわれる過労死が懸念されるような状態までは当時の賢治は陥っていなかったであろうと推し測れる。
 それより心配されることは、それまでの賢治には見られないような「気負い」が当時の賢治にはあったと思われることである。それは例えば次の書簡、
 1931年4月13日付鈴木東藏宛書簡〔327〕
  …(略)…
次に私事本日は気分漸く清快にて熱も退き候間両三日を経て宮城へ出張致すべくその節は朝工場へ御立寄の上色々御指示を得べく候 但し宮城県庁よりは可否共に未だに何等の通知無之候哉 今后の私の小案としては左の如くに御座候
一、岩手県にて約束の十数車を数次交渉して必ず獲得すること。
二、同未注文の分を特に刺戟し、並びに県購聯に単価を賢治には物事を長続きできないと低くして(小生持ち)大量売込の運動
三、宮城県小牛田の県技師工藤文太郎氏を通じて農務課に改めて交渉のこと。(泣きを入れることを含む。)
四、同氏を通じて斉藤等の大地主に利害を説きて大量使用を勧むること
五、小牛田附近の白兵戦(組合)
六、県の諒解を得て一流肥料商に一二車宛送ること。
七、秋田県購聯に大量を持ち込む。
            <『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)>
の中にある、私からすれば賢治らしからぬ記述「(小生持ち)大量売込の運動 」「(泣きを入れることを含む。) 」「白兵戦」等からは、当時の賢治にはかなりの「気負い」があったことが読み取れるからである。
 したがって、賢治は、肉体的なというよりは精神的な無理が続いていって、やがてそれが祟って撤退してしまうことを私は恐れてしまう。賢治には物事を長続きできないという性向があるからだ。早晩精神的にかなり追い込まれていくであろうことが容易に推察されて心配である。

 そしてそれは、次のような伊藤良治氏の指摘からも危惧される。この一連の宮城出張に関して伊藤氏は、『宮澤賢治 東北砕石工場の人々』の中の「三 宮城県出張による賢治の商戦」の中で、
 病弱な賢治がかくのごとく奔走して倒れないのが不思議である。果たせるかな、五月一六日から二五日までの十日間、賢治は病臥静養しなければならなくなる。
と述べている。さらには、続けて
 四月一九日に関口技師との面談の折は、まだ時期が早いので注文がボチボチだった。ところがその半月も経たない五月三日には、工場は何をしているのだと出荷遅延の苦情、そして五月中旬には出荷催促におわれて昼夜ぶっ通しの多忙をきわめる作業が工場で続く。ところがそれから十日も経たない五月下旬には、もう需要期は終わりをつげる注文激減現象の到来となる。「先はいづれも甚面白からぬ御報のみながらいづれ陰陽は交代し晴雨は循環致すべく次便を御待ち奉願候」(書簡三四七)と連絡してくる始末である
            <共に『宮澤賢治 東北砕石工場の人々』(伊藤良治著、国文社)143p、144p>
とも述べているからである。いままでは炭酸石灰の営業に邁進してきたのだが、それも「五月下旬には、もう需要期は終わりをつげる」ということになり、これからはまた別の新たな製品の販売活動をせねばならないことになる。それ故に、賢治は新たにまた「たゞあらたなる/なやみのみちを得しといふのみ」と思ったことであろう。

 残念ながら、今回もまた、
 この頃の賢治はかつて下根子桜でやったようなことをもう一度やってみようなどということはもはや考えていなかった。
ということを、そして、
 東北砕石工場の嘱託となった賢治は、炭酸石灰販売等の猛烈セールスマンになってゆくわけだが、それは当時の貧しい多くの農民を救うことを第一にしていたものではなかった。
ということを改めて確認するしかなかった。

<*1> 関口三郎とは、群馬県出身だが、1927年盛岡高等農林卒の後輩である。5月11日の晩にわざわざ賢治の宿泊先まで訪ねている。
<*2> 浦壁国雄とは、山形県出身だが、1914年盛岡高等農林卒の先輩である。
<*3> 高野一司とは、国民高等学校の主事だったので旧知。
<*4> 工藤文太郎とは、賢治より七歳年長で紫波郡出身、盛岡高等農林の先輩。斉藤報恩農業館の初代館長。
          <いずれも『宮沢賢治 東北砕石工場技師論』(佐藤通雅著、洋々社)148p~より>
 したがって、宮城での営業の場合は秋田の「とびこみ」営業とは違って、賢治は今度はしっかりと「つて」を使ったのでその成果はあったということになろう。

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            ☎ 0198-24-9813
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 〝「宮澤賢治と髙瀨露」出版〟(2020年12月28日付『盛岡タイムス』)

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