《ルリソウ》(平成31年5月25日撮影)
〈子どもたちに嘘の賢治はもう教えたくない〉
〈子どもたちに嘘の賢治はもう教えたくない〉
今から数年前、私は目から大きな鱗が落ちたことがあった。それは、かつての満蒙開拓青少年義勇軍の一人で、滝沢市在住の工藤留義氏(昭和2年生れ)に会うことができて、
稲は酸性に耐性がある。……①
という意味のことを教わったからだ。
そこで早速、農林水産省のHP
http://www.maff.go.jp/index.html
を見てみたところ<*1>、確かにそうであった。
ちなみに、その中の穀類や野菜について主なものを抽出して一覧表にしてみると、下表のようになった。
もちろん工藤氏の教えの通りで、「稲は酸性に耐性がある」ということがこれで了解できた。それは、この表から、「稲に適する土壌は pH5.5~6.5〟である」ことが判るからである。
要するに、
稲の最適土壌は中性でも、ましてアルカリ性でもない。
稲の最適土壌は、微~弱酸性(pH5.5~6.5)で、しかも広い領域で生育する。……②
のであった。
なお、アルカリ性(つまりpH7以上)の欄はないから、
アルカリ性の土壌が最適である作物など殆どなさそうだ。
ということもまた知れたし、今後注意を要する。
さて、こんなわけで、私はここでもまた同様な疑問を抱いてしまう。それは、私が調べた限りではこの〝②〟を、今までに賢治研究家の誰一人として指摘していないということがである。
そしてその一方で、例えば、「土着の農民詩人」<*3>とも云われている真壁仁にして、次のようなことを論じているから、私は一層不安になってしまう。
酸えたる土にそそぐもの
年表に拠れば、宮沢さんは昭和六年四月東北砕石工場の技師になられました。そして炭酸石灰の製法改良とその販売斡旋のため奔走されて居ります。…(投稿者略)…この仕事は故人の生涯中最も立派なものの一つであります。酸えたる土<*2>を改めるためにそそぐものをつくる事を久しきに亘って思いつづけられたことでしょう。
〈『修羅の渚』(真壁仁著、法政大学出版局)13p〉年表に拠れば、宮沢さんは昭和六年四月東北砕石工場の技師になられました。そして炭酸石灰の製法改良とその販売斡旋のため奔走されて居ります。…(投稿者略)…この仕事は故人の生涯中最も立派なものの一つであります。酸えたる土<*2>を改めるためにそそぐものをつくる事を久しきに亘って思いつづけられたことでしょう。
つまり、賢治は岩手の「酸えたる土」を改良せんとして炭酸石灰の販売に粉骨砕身していたかのごとくに、山形の農民詩人は褒め称えているからである。ということは逆に、農民詩人真壁は〝②〟であることを知らなかった可能性が高い、とも言えそうだ。まして、石灰やタンカル(炭酸石灰)をどんどん「そそげば」(撒けば)いいというものでもないということも当たり前だろう。アルカリ性の土壌が最適の作物など何一つなさそうだからである。まして、稲の最適な土壌は中性でも、ましてアルカリ性でもない。あくまでも弱酸性~微酸性なのである。
さて、こうなると新たな不安が湧いてくる。それは、はたして当時の賢治は耕土のpHを測っていたのであろうか。そしてまたそもそも、〝②〟ということを知っていたのだろうかということがである。それは、「羅須地人協会時代」における講義の際に用いたであろう資料の『土壌要務一覧』によれば、賢治は、
稲の場合も望ましい「耕土」は中性であり、ただし稲は酸性の耐性もある。
と認識していたようだ<*4>ということは覗えるのだが、望ましいのはもちろん中性ではないからである。そしてその資料の中で耕土のpHについては、賢治は言及していないからである。ということは、賢治の「耕土」に関する稲作指導は定性的な段階に留まっていて、どうやら定量的な段階までには至っていなかったと推定される。するとこの時に思い出すのは、花巻農学校時代の同僚阿部繁が、
科学とか技術とかいうものは、日進月歩で変わってきますし、宮沢さんも神様でもない人間ですから、時代と技術を超えることは出来ません。宮沢賢治の農業というのは、その肥料の設計でも、まちがいもあったし失敗もありました。人間のやることですから、完全でないのがほうんとうなのです。
<『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著、津軽書房)82p~より>と追想していたことだ。後々当時のことを振り返って阿部がこう発言していたということは、このことを示唆していたのかもしれないなどと、私は不安になってくるのだった。
また、この件に関しては〝あれっ、知らないのは私たちだけ?〟も併せてご覧頂きたい。「稲作で安易に石灰を施用すると、逆効果?」ということを賢治は気付いていたはずだからだ。
<*1:投稿者註> 同HPにおいて、「キーワードで探す」の窓に、
pH 作物
と入力して検索すると、
『3 土壌のpHと作物の生育 3-1 作物別最適pH領域一覧』
というタイトルの一覧表が現れる。
なお、その中の穀類や野菜について主なものを抽出して表にしてみたものが上掲の一覧表である。
<*2:投稿者註> 実際の耕土のpHの実例としては、論文「水稲育苗床土の種類とpH推移」(長谷川栄一・武田良和・斉藤公夫・丹野耕一、『東北農業研究 42, 9-10、1989』所収)によれば、
宮城県名取市水田土 pH 5.7
同 山土 pH 5.7
宮城県大和町山土 pH 5.6
ということである。よって、案外そのままで最適のpH内にあるということのようだ。となれば、真壁が言っているようにはたして「酸えたる土」と言い切れるのだろうか。
<*3:投稿者註> 大滝十二郎の『近代山形の民衆と文学』(未来社)の221pに「土着の農民詩人真壁仁の出発」という節があり、そこでは真壁が「土着の農民詩人」と規定されている。
<*4:投稿者註> ちなみに、『土壌要務一覧』の中で、
六、耕土ハ茶褐色乃至黒褐色ヲ保タシメタイ溜リ水ノ褐色ナノハ排水、砂ノ客土、祖粒石灰岩抹ノ施用ニヨリ、赤及黄ハ有機物ト石灰ノ施用ニヨリ、青色及灰色ハ石灰ヲ用ヒ又秋耕ニヨリ、白ハ有機物並ニ洪積ナラバ石灰ヲモ与ヘテ改良スル。
とか、一一、耕土ノ反応ハ中性ヲ望ム。洪積台地ハ、殆ド酸性デアル。適量ノ石灰木灰ヲ施用スルコト、有機性酸性ナラバ(六)中ノ方法ヤ焼土等之ヲ矯正スル。尤モ水稲陸稲小麦蕎麦ハ酸性ニモ耐ヘル。大麦ヤ荳菽類ハ耐エナイ。
<それぞれ、『校本宮澤賢治全集第十二巻(下)』(筑摩書房)149p、150pより>と賢治は書いている。なお、私は「尤モ水稲陸稲小麦蕎麦ハ酸性ニモ耐ヘル」という記述にとりわけ吃驚した。
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賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』
〈平成30年6月28日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版いたしましたのでご案内申し上げます。
その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました。
そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題になっている本です。
現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
電話 0198-24-9813
さて、賢治の石灰工場技師時代のパンフレットを見ますと、水稲に関しては酸性の中和の効果についてあまり書いていません。(大麦や大豆では中和効果を書いています。)
むしろ、有機肥料などと組み合わせて間接の窒素りん酸カリ肥料となることのほうを強調しています。
また、肥料設計での石灰施用量は土壌を中和するほどの多量ではありません。
賢治の指導で土壌がアルカリ化したとのご心配はいらないのではないかと思います。
昨日一昨日と、松田甚次郎の関係で山形の新庄に出かけておりましたので、ご返事遅れて申し訳ございません。
さて、私もかつてそうでしたし、賢治も「耕土ノ反応ハ中性ヲ望ム」と述べておりますので、なおさらにでした。
ところが、稲の最適土壌は、微~弱酸性(pH5.5~6.5)ということでしたから私は愕然としました。
それから、賢治から石灰の施用を勧められた羅須地人協会員の一人が、それを撒きすぎて岩のようになったという証言もございます。
そこでご教示いただきたいのですが、当時賢治は定量的にも言及していたのでしょうか。言い換えれば、水稲の適正なpHを知っていたのでしょうか。あるいは、実際にpHを計測していたのでしょうか。
それでは、どうぞよろしくお願い致します。
鈴木 守
賢治の肥料設計では反当たり7貫、約26kgです。この量ではpHはほとんど変わりません。
賢治は水稲では、中和目的ではなく、他の肥料や地力の効果を上げるために使っていたのだと思います。
早速のご教示ありがとうございます。
つい私は、農民詩人の真壁仁が、「賢治は酸性土壌を中和するために炭酸石灰を使った」というようなことを述べておりますように、殆どの賢治研究家もそう理解していると思い込んでおりました。もちろん、私自身も、基本的には「酸えたる土」を中和せんが為に炭カルは使われるものとばかり思っていました。
そこでお願いなのですが、「賢治は水稲では、中和目的ではなく、他の肥料や地力の効果を上げるために使っていた」ということを、どうすれば客観的に論証出来るのか(それは、「……使っていたのだと思います」という推測に異議はございませんが、私には、推測を基にして推論を重ねてゆくことは馴染みませんので)、お暇なときで結構ですので、教えてもらえないでしょうか。
鈴木 守
もっと直接的な証拠がないか探してみます。
お忙しいところ、またまたの無茶なお願いにお応え頂きまして大変ありがとうございます。
お陰様で、殆どの賢治研究家(私は賢治研究家などとはもちろん言えないのですが、そのような私も含めて)はとんでもない誤解をしていたということ覚るべきだということを覚悟しつつあります。
それではお言葉に甘えまして、「直接的な証拠」につきましても、ただしどうかお暇な時で結構ですので、ご教示お願い致します。
鈴木 守
大正はじめには、酸性土壌改良の原則は、中性に矯正すること、との意見もありました(1)
しかし、関豊太郎は、大正15年の著書で、水稲の場合、必ずしも中性まで矯正しなくてよいしています。(2)
関豊太郎に指導を受けていた賢治は、東北砕石工場時代のパンフレットで同様の記述をしています。(3)
なお、賢治の死後、昭和19年に関豊太郎は著書「土」において水稲の最適pHは5~6と明記するに至ります。(4)
以上により、大正後期から昭和初期の関豊太郎と賢治は、土壌改良は中性になるまで行うべき、との意見に比べると慎重な考えを持っており、結果として水稲の最適pHは弱酸性とする現在の考えに近い意見を持っていたと言えます。
(なお、牧草や大麦に対しては賢治は中和に積極的でした。)
(1)香川県農事試験場編「酸性土壌調査報告」(大正2年)
(国会図書館オンライン(下記)により閲覧可)
P4「酸性土壌改良の原則亦た此に存し(略)土壌を中性ならしむるにあるなり」
(2)関豊太郎著「土壌学講義」(大正15年)
(国会図書館オンライン(下記)により閲覧可)
P230「耐酸度 一、最強 作物の種類 稲、燕麦」
P231「酸性土の矯正には必ずしも土壌が中性となるまで石灰を加用するに及ばない」
P231「栽培せんとする作物が正常の生育をなし得る程度に矯正を施すこと(正則)」
(3)宮沢賢治著「肥料用炭酸石灰」(昭和8年版)
(ちくま文庫「宮沢賢治全集10」より)
P591「作物に依っては敢て矯正の必要なく、また必ずしも完全に中和するを要せず」
(4)関豊太郎著「土」(昭和19年)
(国会図書館オンライン(下記)により閲覧可)
P143「馬鈴薯や水稲は明酸性(pH五-六)を最適とする」
国会図書館オンライン
https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/
お忙しいところ、ご丁寧なご教示ありがとうございます。
基本的には、水稲の場合、石灰や炭カルの施用は中和目的ではなかったのですね。
お陰様で、大分納得できました。
ただしそうしますと、水稲の場合敢えて炭カルを施用する必要性がないのでは、という疑問が湧くのですが、それは「他の肥料や地力の効果を上げるために」ということになるのですね。
言い換えますと、例えば金肥のリン酸を施用しますと土壌はpHが減少するはずですので、それを元へ戻すためなどにも使われたりしていた、と解釈して宜しいのですね。
鈴木 守
一、石灰は直接に作物の営養です。(略)
二、石灰は間接の窒素肥料です。(略)有機物分解菌の繁殖を助けて(略)窒素を間接に作物に供給いたします。(略)
これを重視していたと考えられます。