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1 賢治は日記を付けた

2024-02-04 10:00:00 | 賢治昭和二年の上京













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第七章 「本年中セロ一週一頁」
この章では、「♧」は賢治の真実であったということにして、賢治のその後のチェロの学習は順調であったか等について考えてみたい。

1 賢治は日記を付けた
 さて年が改まって昭和2年、賢治は年頭に当たって一年の計を立てた。一般に賢治は日記を付けなかったといわれているようだが、少なくとも昭和2年には日記を付けていた。それはいわゆる「手帳断片A」が残っているから判る。
 賢治一年の計「本年中セロ一週一頁」
 「手帳断片A」の1頁目には『大正十六年日記』というタイトルが印刷されているが、もちろん前年末に改元されたから実質的には『昭和二年日記』ということになる。
 そしてその3頁、「1月1日(土)」の欄に賢治は
  国語及エスペラント
  音聲學
とペン書きしている。賢治はこの日に
  国語、エスペラント、音声学
などを学んだということであろう。
 一方の、MEMO欄の
  本年中セロ一週一頁
  オルガン一週一課
のペン書きの方は、昭和2年の年頭に当たって立てた賢治の「一年の計」と考えていいだろう。
 そして、この記載の仕方からは、
・この時点ではオルガンの練習よりはチェロの練習の方を優先させていたということ。
・とはいえ、「セロ一頁」に対して「オルガン一課」だからおそらくオルガンに比べてチェロの腕前は未熟であったであろうこと。
・「セロ一週一頁」の「一頁」とは大津から貰った『ウエルナーの教則本』に対するものかもしれないこと。
・そして、一般に賢治は日記を書かなかった人のようだが、この昭和2年だけは他の年と違って日記を書き始めたということになりそうだから、昭和2年に対する意気込みはかなり強かったであろうこと。
などが読み取れる。したがって、昭和2年の賢治の日記からは
◇昭和2年の賢治は年頭に一年の計「本年中セロ一週一頁」を立て、かなりの意気込みで「年内にチェロが上達すること」を目指していた。
ということが言えよう。
 賢治の「昭和二年日記」より
 実はこの『昭和二年日記』は6頁までしか残っておらず、残りの分の記載は以下のようなものである。
1月2日   varma
1月3日   varma
1月4日   varma
1月5日 伊藤熊蔵氏仝竹蔵氏等来訪 中野新左久氏往訪1月6日   klara m varma
1月7日 中館武左エ門氏 田中縫次郎氏 照井謹二郎君     伊藤直見君来訪
1月8日   venta kaj varma
1月9日 (記載なし)
1月10日 肥料設計
<『校本宮澤賢治全集第十二巻(上)』(筑摩書房)408p~より>
 なお、ここに阿部孝の名前は出てこないから、少なくとも昭和2年元旦~10日の間には阿部孝は賢治の許を訪れていなかったであろうと判断できる(先に私が、『後述するような理由から阿部が「ぎいん、ぎいん」を聞いたのは12月内のことであろう』と述べたが、これがその理由である)。
 1月5日の来訪者等
 では、1月5日の来訪者等について次に少し調べてみたい。
《伊藤熊蔵》
 まず伊藤熊蔵であるが、あの羅須地人協会員伊藤克己、篤己兄弟の父親である。この伊藤熊蔵なる人物は、賢治の「春と修羅・詩稿補遺」の中の次の詩
     憎むべき「隈」辨当を食ふ
   きらきら光る川に臨んで
   ひとリで辨当を食ってゐるのは
   まさしく あいつ「隈」である
   およそあすこの廃屋に
   おれがひとりで移ってから
   林の中から幽霊が出ると云ったり
   毎晩女が来るといったり
   町の方まで云ひふらした
   あの憎むべき「隈」である
   ところがやつは今日はすっかり負けてゐる
   第一 草に腰掛けて
   一生けん命食ってゐるとき
   まだ一ぺんも復讐されない
     …(中略)…
   川がきらきら光ってゐて
   下流では舟も鳴ってゐる
   熊は小さな卓のかたちの
   松の横ちょに座ってゐる
   ぢろっと一つこっちを見る
   それからじつにあわてたあわてた
   黄いろな箸を二本びっこにもってゐて
   四十度ぐらゐの角度にひろげ
   その一本で
   熊はもぐもぐ口中の飯を押してゐる
   おれはたしかにうしろを通る
      …(以下略)…
<『校本宮澤賢治全集第四巻』(筑摩書房)213p~より>
に登場するおそらく「隈」に違いない。
 というのは次のように考えられるからである。この詩は「隈」なる人物が「下ノ畑」付近で弁当を食べているシーンを詠んだ詩で、タイトル等では「隈」となっているが、詩の後半ではその人物にあたる名が「熊」になっている。すると、この下根子桜周辺に住んでいる人物で「熊」ならば、直ぐに思う浮かぶのは伊藤熊蔵だし、その他にはなさそうだ。だからおそらく、賢治の生原稿では「隈」は実は「熊」だったが、後刻出版する際に「熊」のままでは流石に憚られるので「熊」を「隈」に差し替えようとした。ところが、それが徹底されなかったために元々の「熊」がそのまま一部残ってしまったと推測できる。
 そこでもし私のこの推測が当たっているとしたならば、賢治は伊藤熊蔵を苦々しく思っている訳だが、当の伊藤熊蔵は律儀にも賢治のところへわざわざ年賀の挨拶に来たということになろう。このような近所の付き合いを大切にしている熊蔵の人柄を知ってしまえば、賢治から「憎むべき」等と形容されてこのように揶揄された詩に詠まれたのでは熊蔵も立つ瀬がなく、気の毒である。
《仝竹蔵》
 つまり伊藤竹蔵という名の人物になる訳だが、不詳である。
《中野新左久》
 往訪者の中野新左久とはもちろん当時の花巻農学校の校長のことである。
 『今日の賢治先生』によれば、
 中野新左久 明一九~昭四四。石川県出身。明四一盛岡高等農林学校卒業→青森県(教諭)・福島県(校長)で教鞭をとり、大一四畠山栄一郎校長と入れかわりに花巻農学校に着任。生真面目な人物で、校長室を作り職員との間に一線を設けた。はじめ賢治の教師ぶりを喜ばなかったという。
<『今日の賢治先生』(佐藤司著)576pより>
とある。一般に、前任畠山校長に比べて中野新左久校長の評価は、それぞれが豪放磊落と生真面目と単純に図式化されてしまっていて分が悪いような気がする。しかし冷静に考えればそれは我々の偏見かもしれない。その中野校長を、疾うの昔に農学校を辞してしまった賢治がわざわざ松の内に実際訪ねていることになる訳だから、賢治は中野新左久を少なくとも悪く思っていた訳ではなさそうだからである。
 1月7日の来訪者等
 では次は1月7日の来訪者についてである。
《中(館)舘武左衛門》
 この人物は盛岡中学の5年先輩である。どういう経緯で二人が付き合い始めたのかはわかりかねるが、後年、賢治はこの中舘を揶揄するような内容の書簡「241a」(昭和3?年7月30日付)を出している(『新校本宮澤賢治全集別巻(補遺篇)』(筑摩書房)27p)。さらには、昭和7年6月22日付書簡「422」では高瀬露がらみで中舘を見下しているような書き方をした辛辣な下書を残している(『宮沢賢治全集9』(ちくま文庫))。これらの書簡からは、二人の人間関係がきわめて悪いことが読み取れる。
 そのような人物中舘が、その5年前の松の内にわざわざ賢治のところへ年賀の挨拶に来ていると解釈できるのだから、この頃の二人の間の人間関係は逆にきわめて良好であることが想像できる。この5年の間に賢治と中舘の間には一体何が起こっていたのであろうか。 
《田中縫次郎》
 『宮野目小史』という郷土史を見ると
 (宮野目地区は)このような水不足の不安を抱えての米作りに代わる作目を志向して、瀬川の最下流の上似内、下似内は、特に水源が乏しいことから、以前から取り組んでいた養蚕を積極的に推進し、活路を求めるため、養蚕技師、田中縫次郎氏(埼玉県)の献身的指導を得て、大きな成果を上げるなど苦心しながらも、農業を維持したのである。この当時の養蚕事業がこの地区で、それから昭和30年頃まで、一部の農家が継続して営まれていた。因みに田中氏の指導と農民の努力によって、大正3年収繭高3600㎏程度であったが、昭和7年には、約8200㎏と2倍以上に伸張した。この養蚕振興に尽力した田中氏を顕彰する「豊蚕之碑」が上似内八坂神社境内に建立されている。
<『宮野目小史』(花巻市宮野目地域振興協議会)20pより>
とあった。
 ということは、田中縫次郎なる人物はわざわざ埼玉からやって来てなおかつ宮野目のために多大の貢献をしていたのだ。そしてそのような田中が、昭和2年1月7日に下根子桜の賢治の許を訪ねていたことになる。
 またその立派な顕彰碑を見てみると、大正14年の8月時点でこの顕彰碑が建っていることが判るから、賢治が花巻農学校に奉職していた時点で田中縫次郎は既に地元の人達からとても崇敬されていたということも分かる。
 考えてみれば、花巻農学校の前身は郡立農蚕講習所であり、当時の生徒は蚕を飼い、桑の葉をせっせと採っていたであろうゆえ「クワッコ(桑ッコ)大学」とあだ名されていたようだから、農学校勤務時代から賢治と田中縫次郎は仕事上の往き来があったということなのであろう。
《照井謹二郎》
 花巻農学校での教え子。
《伊藤直見》
 現時点では不詳。
 1月10日「肥料設計」
 そして、いよいよ「肥料設計」を始めるぞという意気込みが『昭和2年日記(「手帳断片A」)』の1月10日のメモから読み取れる。この「肥料設計」は例の講義豫告表』
 一月十日(新暦)農業ニ必須ナ化學ノ基礎
 一月廿日(同上)土壌學要綱
 一月丗日(同上)植物生理要綱上部
 二月十日(同上)同上 下部
 二月廿日(同上)肥料學要綱 上部
 二月廿八日(同上)同上   下部
 三月中 エスペラント   地人藝術概論
   午前十時ヨリ午后三時マデ 時間厳守
資格ヲ問ワズ 参觀も歡迎 晝食御持參
<『宮沢賢治の世界展』(原子郎総監修、朝日新聞社)145pより>
の中の1月10日分の予定とも符合している。よって、これらのこと等からは昭和2年1月頃の賢治の旺盛な実践活動がありありと見えてくる。どう見たってこの時期の賢治が病気であったとは思えない。
 したがって『宮澤賢治物語(50)』における証言
 先生は予定の三ヵ月は滞京されませんでしたが、お疲れのためか病気もされたようで、少し早めに帰郷されました。
はこの時期(大正末~昭和2年1月)には全くそぐわないことが判る。
 「三ヵ月」は当て嵌められない
 とまれ、ここまで調べてきて言えることは、昭和2年1月上旬の賢治はチェロの練習などに熱心だったばかりでなく、来訪者もあったり、中野新左久を訪ねたりと元気で忙しくしていたであろうということである。また、1月10日以降の講義に意欲をみなぎらせていたことも同時に解る。
 念のため、「大正15年12月の上京前後~昭和2年11月頃の上京前」の間の賢治の営為について以下に確認しておきたい。今までの考察と「新校本年譜」等を基にして次のようなものになるであろうと私は認識している。
【表7 大正15年11月22日~昭和2年11月1日の宮澤賢治】
 大正15年
11月22日 この日付案内状を伊藤忠一方へ持参。配布依頼
11月29日 「肥培原理習得上必須ナ物質ノ名称」など講義
12月1日 羅須地人協会定期集会。持寄競賣を行う。
12月2日 澤里武治、柳原昌悦に見送られて上京。なおこ     の時チェロは持参していない。
12月3日 着京、神田錦町上州屋に下宿
12月15日 父に二百円を無心
12月下旬 最高級のチェロ一式購入
12月 末 大津三郎から三日間のチェロの特訓を受ける。
12月30日 帰花
 昭和2年
1月1日 「本年中セロ一週一頁」という一年の計を立てる。国語及エスペラント 音聲學
1月2日   varma
1月3日   varma
1月4日   varma
1月5日 伊藤熊蔵氏仝竹蔵氏等来訪 中野新左久氏往訪
1月6日   klara m varma
1月7日 中舘武左エ門氏 田中縫次郎氏 照井謹二郎君     伊藤直見君来訪
1月8日   venta kaj varma
1月10日〔講義案内〕による羅須地人協会講義 農業ニ必     須ナ化学ノ基礎
1月20日 羅須地人協会講義 土壌学要綱
1月30日 羅須地人協会講義 植物生理学要綱
2月1日『岩手日報』に「農村文化の創造に努む」の記事
       直後に楽団解散
2月10日 羅須地人協会講義 植物生理要綱 下部
2月19日 寶閑小学校において八木先生と一緒に講話
2月20日 羅須地人協会講義 肥料学要綱 上部
2月27日 この日付「規約ニヨル春ノ集リ」の案内葉書を作
     成、発送。
2月28日 羅須地人協会講義 肥料学要綱 下部
3月4日 湯口村の高橋末治の日記によれば、組内の人6     人、地人協会へ入会。
3月8日 松田甚次郎来訪。
3月20日 羅須地人協会講義 「エスペラント」「地人芸術概     論」
4月4日 「羅須地人協会農芸化学協習」の案内状を出す。
4月10日 「羅須地人協会農芸化学協習」として「昭和二年度
     第一小集」を開催。
7月18日 盛岡測候所へ。
8月8日 松田甚次郎はるばる稲船村(現新庄市)鳥越から来訪。
11月1日 菊花品評会審査員
 こうしてみるとなおさらに、「昭和2年1月~4月上旬」の間の羅須地人協会にける賢治の熱心な活動振りが見えてくる。したがって前頁で挙げた証言、
 先生は予定の三ヵ月は滞京されませんでしたが、お疲れのためか病気もされたようで、少し早めに帰郷されました。
の中の「三ヵ月」を、このような賢治の大正末~昭和の初めに当て嵌めることはまずほぼ無理なのではなかろうか、ということになろう。
 端的に言えば、
 大正15年12月2日の「現通説」が、もし『宮澤賢治物語(49)、(50)』や「澤里武治氏聞書」における澤里武治の証言を典拠にしているとするならばそれは適切な使われ方はしていない。
ということであり、これらの証言が正しく使われるとすればそれは少なくとも「大正末~昭和2年1月」に対してではなく、それよりは「昭和2年11月頃~昭和3年1月頃」のことであるとした方が遙かに合理的であり、典拠を忠実に生かしていると思うのである。
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《新刊案内》
 この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』

を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。
 延いては、
 小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、
『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。

 しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
 まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
 きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。
 すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。

 そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。

 そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。

 そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。

 現在、岩手県内の書店で販売されております。
 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813


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