《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
安藤義道氏は『犬田卯の思想と文学』において、当時の「民衆芸術運動」の中の文学分野の運動の一つ「農民文学運動」の成立に関して次のように述べている。 わが国の農民文学運動に直接的な役割を担ったのは一九二二年(大正一一年)の「シャルル・ルイ・フィリップの十三周忌記念講演会」であったと犬田卯は『日本農民文学史』に記している。この講演会の開催を知った犬田は友人平林初之輔の紹介状をもらって、会の呼びかけ人の一人である吉江喬松を訪ねた。犬田卯の農民文学運動へのかかわりはこのときからはじまった。…(投稿者略)…
この記念講演会がきっかけになって「フィリップ友の会」あるいは「大地の会」が結成され、犬田卯を幹事として毎月会合を催した。しかし一九二三年九月一日の関東大震災で『種蒔く人』などと同様にこの会も一時中断した。それは当時の会員吉江喬松、中村星湖、椎名其二、石川三四郎、犬田卯のうち椎名、石川が震災の際保護検索をうけたことなどにもよる。その後中村星湖が吉江喬松に手紙を送って会の再組織が具体化され、一九二四年三月下旬、田端の椎名其二邸で会合が催され、吉江、中村、犬田、平林初之輔が参加した。以後、加藤武雄、白鳥省吾、大槻憲二、佐伯郁郎、渋谷栄一、和田伝、中山義之、湯浅真生、帆足図南次らが加わって名称も「農民文芸研究会」となった。
<『犬田卯の思想と文学』(安藤義道著、筑波書林)50p~より>この記念講演会がきっかけになって「フィリップ友の会」あるいは「大地の会」が結成され、犬田卯を幹事として毎月会合を催した。しかし一九二三年九月一日の関東大震災で『種蒔く人』などと同様にこの会も一時中断した。それは当時の会員吉江喬松、中村星湖、椎名其二、石川三四郎、犬田卯のうち椎名、石川が震災の際保護検索をうけたことなどにもよる。その後中村星湖が吉江喬松に手紙を送って会の再組織が具体化され、一九二四年三月下旬、田端の椎名其二邸で会合が催され、吉江、中村、犬田、平林初之輔が参加した。以後、加藤武雄、白鳥省吾、大槻憲二、佐伯郁郎、渋谷栄一、和田伝、中山義之、湯浅真生、帆足図南次らが加わって名称も「農民文芸研究会」となった。
そして、犬田卯が農民文芸運動に関わるきっかけは「シャルル・ルイ・フィリップの十三周忌記念講演会」であったということは、『愛といのちと』の中で犬田の妻でもある住井すゑが述べているところでもある。また前掲書によれば、この「記念講演会」の発起人にはあの「種蒔く人」運動の小牧近江や吉江喬松も加わっていたという。なおこの吉江喬松という人は、当時早稲田大学仏文科の主任教授であり、佐伯郁郎が早稲田大学時代に私淑した人物でもあるという。
このようにして犬田卯は農民文学運動に関わるようになったようだが、大正13年に再出発したこの会合に関しては犬田自身が『日本農民文学史』の中で次のように少し詳しく語っている。
この会合は、当時、それからそれへと伝わり、期せずして同好の氏を呼び迎えることになった。まず、加藤武雄、白鳥省吾の二人が、つづいて大槻憲二が参加した。改めて述べるまでもなく、加藤武雄はすでに『土を離れて』その他いくつかの農村取材の小説によって知られており、白鳥省吾はいわゆる「民衆詩派」の驍将として、当時『地上楽園』なる月刊詩誌を主宰し、多くの農民的色彩の詩人たちをリードしていた。大槻憲二は早稲田大学英文科の出身、かねてウイリアム・モリスの芸術社会主義体系の研究を『早稲田文学』に発表し、農民文学についてもモリスから出発して強い関心を寄せていたのである。
この三人につづいて、同じく早稲田大学文科出身の佐伯郁郎、渋谷栄一、和田伝、中山議之、帆足図南次等が参加することになり、会はますますにぎやかになった。と同時に、漠然と会合をつづけていた最初から、幹事の役目を負うて会合の事務をとっていた犬田は、そうなって来ると、通知状を出したり、次の会合の際の種々のプランを知らせたりする場合、会そのものの名を決定しておく必要に迫られ、取りあえず、協議の結果、「農民文芸研究会」と仮称することになった。
<『日本農民文学史』(小田切秀雄編、犬田卯著著、農文協)23p~より>この三人につづいて、同じく早稲田大学文科出身の佐伯郁郎、渋谷栄一、和田伝、中山議之、帆足図南次等が参加することになり、会はますますにぎやかになった。と同時に、漠然と会合をつづけていた最初から、幹事の役目を負うて会合の事務をとっていた犬田は、そうなって来ると、通知状を出したり、次の会合の際の種々のプランを知らせたりする場合、会そのものの名を決定しておく必要に迫られ、取りあえず、協議の結果、「農民文芸研究会」と仮称することになった。
ということは、幹事として犬田卯は実質的にこの「農民文芸研究会」(この「農民文芸研究会」はいつからか「農民文芸会」という名称となっていったという)をやはり取り仕切っていたことになろう。
実は、賢治が下根子桜に住んでいた頃、犬田卯は大正15年には『土に生まれて』を、昭和3年には『土にあえぐ』をともに平凡社から、そして『土にひそむ』を昭和4年に不二屋書房から相次いで出版している。そして、同じく安藤氏によれば、
この三つの作品はいわば犬田卯の「土」三部作といえる。主人公はいずれも良一であるが、恐らく犬田卯をモデル化した農村青年であろう。というのは、良一をして農村生活を批判させ、農村・農民の覚醒のための芸術論を語らせているからである。
『土に生まれて』の良一はいう。「さうだ。自分の仕事を芸術化する事によってそれを生きたものとするより自分のこれからの生活はないのだ。自分の生活の芸術化、そこにのみ、現代のやうな組織の社会では本当の生活がある。社会のためにその庇護の下に、奴隷的の生活をするのでなく、社会の上に立って、そして新しく生活を創造して行く。それが芸術の時代だ。芸術家の仕事だ。芸術のみがすべてのものから自由である。自分はあらゆる過去を放棄し、脱却して、そこへ行かなくてはならない」…(投稿者略)…
そのためには「粗衣粗食、泥と汗、茅屋と貧窮――さうしたことは敢て苦とするに足りない。ただ自由でありたい。支配を受けたくない。あらゆる人間に対して平等であり、他に犯されず、他を侵さず、他を扶け、他に扶けられ、相共に自然より賦与せられているところのものを残りなく発揮したい」(『土にひそむ』)とも良一にいわせている。
<『犬田卯の思想と文学』(安藤義道著、筑波書林)17p~より>『土に生まれて』の良一はいう。「さうだ。自分の仕事を芸術化する事によってそれを生きたものとするより自分のこれからの生活はないのだ。自分の生活の芸術化、そこにのみ、現代のやうな組織の社会では本当の生活がある。社会のためにその庇護の下に、奴隷的の生活をするのでなく、社会の上に立って、そして新しく生活を創造して行く。それが芸術の時代だ。芸術家の仕事だ。芸術のみがすべてのものから自由である。自分はあらゆる過去を放棄し、脱却して、そこへ行かなくてはならない」…(投稿者略)…
そのためには「粗衣粗食、泥と汗、茅屋と貧窮――さうしたことは敢て苦とするに足りない。ただ自由でありたい。支配を受けたくない。あらゆる人間に対して平等であり、他に犯されず、他を侵さず、他を扶け、他に扶けられ、相共に自然より賦与せられているところのものを残りなく発揮したい」(『土にひそむ』)とも良一にいわせている。
ということだから、ここで良一をして言わしめている犬田卯の思想と、賢治が下根子桜でやろうと「計画していたこと」との間には相通ずるところが少なからずあると私は直感する。なぜなら、『岩手日報』から取材を受けた賢治は大正15年4月1日付同紙紙面上で、
現代の農村はたしかに経済的にも種々行きつまつてゐるやうに考へられます、…(投稿者略)…この花巻で耕作にも従事し生活即ち藝術の生がいを送りたいものです、そこで幻燈會の如きはまい週のやうに開さいするし、レコードコンサートも月一囘位もよほしたいとおもつてゐます幸同志の方が二十名ばかりありますので自分がひたいにあせした努力でつくりあげた農作ぶつの物々交換をおこないしづかな生活をつづけて行く考えです
と答えているからである。しかも、犬田卯は次第に「反マルクス…」の傾向を強めていったということだが、安藤義道氏は犬田卯のことを次のように
彼は自他共に認める重農主義者であり、農民主義者であった。従って最も階級意識にめざめたプロレタリアートを前衛としてのプロレタリア革命によって社会変革をはかろうとするマルクス主義には真っ向から反対していた。
<『犬田卯の思想と文学』(安藤義道著、筑波書林)21pより>とも指摘している。したがって、犬田と賢治は政治的思想面でも似たようなところがあったと思う。
一方賢治は、昭和2年の夏から秋にかけて賢治と川村尚三は「交換授業」を行ったということだが、
レーニンの『国家と革命』を教えてくれ、と言われ私なりに一時間ぐらい話をすれば『今度は俺がやる』と、交換に土壌学を賢治から教わったものだった。疲れればレコードを聞いたり、セロをかなでた。夏から秋にかけて一くぎりした夜おそく『どうもありがとう、ところで講義してもらったがこれはダメですね、日本に限ってこの思想による革命は起こらない』と断定的に言い、『仏教にかえる』と翌夜からうちわ太鼓で町を回った。
<『岩手史学研究 NO.50』(岩手史学会)220p~より>と川村は証言しているということだし、羅須地人協会員の伊藤与蔵は次のような証言
「革命が起きたら、私はブルジョアの味方です」こう先生ははっきりと言われたことがあります。先生はいつも「私は革命という手段は好きではない」とも言っていました。又、「私は小ブルジョアの出身です」とも言っていました。「私はいまこうしてみんなと同じように働き、みんなの味方です。けれども万が一、革命が起こったならば、私はブルジョアに味方するようになります」と言われました。
<『賢治とモリスの環境芸術』(大内秀明著、時潮社)40pより>をしているから、これらの証言に従うならば、賢治はどちらかというと「反マルクス」の立場にいたし、プチブル(小ブルジョア)に属していると認識していたということになりそうだからである。
あるいはまた、『農民芸術概論綱要』で述べている事柄は結構重農主義・農民主義的色彩が強いと私は感ずるからでもある。実際安藤氏も犬田卯等の「農民文芸運動」に関しては、
こうした小牧と吉江の決定的な違い、すなわち小牧は農民文学を農民・労働者を含めて統一社会運動として行為していたのに対し、吉江は社会運動よりも精神運動として農民解放を考えたという、がはっきりとした形で落着するのが『農民文芸十六講』(一九二六年十月)の発行であった。
と述べ、 政治的・社会運動的であった小牧に比べ、より文学的に農民文芸を模索したのが吉江喬松であった。それだけに犬田には吉江が身近な存在だった。
<ともに『犬田卯の思想と文学』(安藤義道著、筑波書林)のそれぞれ58p、63pより>とも断定している。となれば、次はこの『農民文芸十六講』について少しく調べてみる必要があろう。
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今日は。いつも大変お世話になっております。
今回のシリーズ“大正15年の賢治”につきましては、なぜ賢治はこの年の大干魃の際に古里で義捐活動を殆どと言ってもいいほど行わずに、12月東京で約一か月もの間無職にもかかわらず大金を使って滞京していたのか、どうもそれが納得できない自分がいたから始めたのですが、済みません私は難しいことがわからず、おどおどしながら庶民目線で投稿しております。
つきましては、この度の
「反マルクス」についてですが、賢治のレーニン『国家と革命』のプロレタリア独裁など、ロシア革命の「マルクスレーニン主義』には批判的だったことは明らかです。ただ、賢治が労農派シンパだとすると、すでにこの時点では堺利彦、山川均の労農派は「マルクスレーニン主義」とは理論的。実践的に対立していた。しかし、堺の「真のマルクス主義」、つまりマルクス―モリスの立場だった。その点、犬田などの重農主義というか、アナーキズムとも一線を画そうと苦悩していた。
というご教示大変ありがとうございました。とりわけ、「その点、犬田などの重農主義というか、アナーキズムとも一線を画そうと苦悩していた。」というご指摘にははっとさせられました。実は、賢治は心情的には基本的にアナーキズムかなと思っていたからです。
それから、“、①早稲田グループとの関係、②モリスー大槻憲二との関係、”等につきましては、私は殆ど無知ですので、今後学んでまいりたいと思っております。
なお、増子市議は最近『宮澤賢治と花巻市民の会』に入会なさいましたので、毎月例会でお目にかかっております。岩波の『賢治の時代』を以前拝読してその姿勢に私は敬意を表しておりましたので、これからは直接お訊きできるものと思って楽しみにしております。
それではこれからもどうぞよろしくお願いいたします。
鈴木 守
ともあれ、①早稲田グループとの関係、②モリスー大槻憲二との関係、など小生にとり興味あるご提起を頂き感謝です。
なお、先日は増子市議が仙台・羅須地人協会のセミナーにご出席頂き、貴兄とのご縁も話題になりました。
今後ともよろしく。