《金色の猩々袴》(平成30年4月8日撮影、花巻)
そして、「澤里武治氏聞書」の信憑性が極めて高いということを、あれらのことは傍証しているのだということにも気付く。
さて、ではこの「あれら」とは何のことか。それは、かつての「賢治年譜」には当初、いずれの年譜にも、昭和3年、
一月、肥料設計、作詩を繼續、「春と修羅」第三集を草す。この頃より過勞と自炊に依る栄養不足にて漸次身體衰弱す。………①
と記載されていることである。もう少し説明を付け加えると、あの「澤里武治氏聞書」で澤里は、「そして先生は三ヶ月間のさういふはげしい、はげしい勉強に遂に御病氣になられ歸鄕なさいました」と証言しているわけだが、昭和2年の11月頃上京した賢治が三ヵ月後に病気になって帰郷したとすれば、昭和3年1月頃の賢治は帰郷せねばならなかったほどの病気だったということになるから、この年譜の「この頃より過勞と自炊に依る栄養不足にて漸次身體衰弱す」という記述に符合している。よって、当時の年譜のこの記載〝①〟が、逆にこの聞書の信憑性の高さを示唆してくれる。要するに、この聞書に於ける澤里の証言内容の信頼度は高いということである。
あるいは、こんなことも示唆してくれる。それは、「澤里武治氏聞書」で、賢治が
「澤里君、セロを持つて上京して來る、今度は俺も眞劍だ、少なくとも三ヶ月は滯京する、とにかく俺はやる、君もヴアイオリンを勉強してゐて呉れ。」さう言つてセロを持ち單身上京なさいました。
と澤里は証言しているわけだが、この賢治の一言に従えば、 「今度(昭和2年の11月頃)」以前の、それもそれほど遡らない時期に賢治は、短期間の滞京をしていた。
であろうことが導かれる。つまり、昭和2年の11月頃の、それほど遡らない時期にも賢治は上京してい多可能性が大だ、と。すると思い付くのは、かつての「宮澤賢治年譜」には必ず載っていた、昭和二年 三十二歳(二五八七)
九月、上京、詩「自動車群夜となる」を創作す。
という記載である。要は、当時の「賢治年譜」では、
昭和2年9月に賢治は上京していた。
となっていたことをである。しかし賢治はこの9月の上京では悔いが残ったので、「今度は俺も眞劍だ、少なくとも三ヶ月は滯京する」と決意して再び同年11月頃に、「澤里君、セロを持つて上京して來る」と愛弟子澤里に語ったのだと解釈すれば、かなり辻褄が合う。
そこで私は合点する。あの小倉豊文はそのことをよく調べていたので、『昭和文学全集14 宮澤賢治集』(角川書店、 昭和28年)所収の「賢治年譜」で、
大正十五年(1926) 三十一歳
十二月十二日、東京國際倶樂部に出席、フヰンランド公使とラマステツド博士の講演に共鳴して談じ合ふ。
昭和二年(1927) 三十二歳
九月、上京、詩「自動車群夜となる」を創作。
十一月頃上京、新交響樂團の樂人大津三郎にセロの個人教授を受く。
昭和三年(1928) 三十三歳
一月、肥料設計。この頃より漸次身體衰弱す。
<『昭和文学全集14 宮澤賢治集』(角川書店、昭和28年6月10日発行)所収の「年譜 小倉豊文編」より>十二月十二日、東京國際倶樂部に出席、フヰンランド公使とラマステツド博士の講演に共鳴して談じ合ふ。
昭和二年(1927) 三十二歳
九月、上京、詩「自動車群夜となる」を創作。
十一月頃上京、新交響樂團の樂人大津三郎にセロの個人教授を受く。
昭和三年(1928) 三十三歳
一月、肥料設計。この頃より漸次身體衰弱す。
と書けたのだと。
そして、小倉豊文のこの「賢治年譜」の、
昭和2年賢治は(少なくとも)2度上京
という意味の記載は鋭いし、的確だと感心した。流石は小倉は歴史学者だと頷くのだった。私の知る限り、宮澤賢治が昭和2年に二度上京したという意味のことを述べている人は小倉以外にはいないし、まして、同年「十一月頃上京、新交響樂團の樂人大津三郎にセロの個人教授を受く」と断定している人は小倉豊文のみだ。私はそこに、小倉の矜持と自恃を垣間見たからだ。
続きへ。
前へ 。
〝「一寸の虫」ではありますが〟の目次へ。
”みちのくの山野草”のトップに戻る。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます