みちのくの山野草

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3 尾崎喜八と賢治

2024-02-03 08:00:00 | 賢治昭和二年の上京











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********************************** なお、以下は今回投稿分のテキスト形式版である。**************************
3 尾崎喜八と賢治
 さて、山と自然とクラシック音楽を愛し、「高層雲の下」等を著すなど雲の研究家としても知られている詩人に、尾崎喜八という詩人がいるという。
 賢治の尾崎宅訪問
 この詩人尾崎喜八に関しては、重本恵津子氏が『花咲ける孤独 評伝尾崎喜八』で次のようなことを述べている。
 さて、この時代でもう一つ書き落とせないのは、大正十四年か十五年かはっきりしないが、「蒼天居(尾崎喜八の自宅のこと:筆者註)」に宮沢賢治の訪問を受けたことである。 …(中略)…賢治生前の唯一の詩集『春と修羅』が千部自費出版されたのは大正十三年(一九二四年)である。そして賢治はそれを喜八に贈呈しているのである。
《或る日幾つかの郵便物にまじって、その畑中の一軒家へ一冊の詩集が届けられた。差出人は遠い岩手県に住んでいる未知の人で、タンポポの模様を散らして染めた薄茶色の粗い布表紙の背に、「詩集 春と修羅 宮澤賢治作」とあった。私もその頃第二詩集『高層雲の下』の原稿をまとめていたが、今と違って知らない人から自著の寄贈を受けることなどは稀だったので、新婚早々のおおらかな気分、世の中との新しい交わりや人の訪れを広々と迎えようとする気持も手つだって、この未知の詩人からの贈り物を一つ大いなる祝福のように喜んだ。ときに宮澤賢治二十八歳、私は三十二歳だった》(「尾崎喜八資料」第七号)
 賢治が尾崎家を訪問した用件は
「たった三日でセロが弾けるように教えてもらいたい」ということであった。
 その前に高村光太郎を訪ねたようだが、すげなくことわられたらしい。尾崎家でも喜八は旅行中で留守だった。夫人の實子は、この無名の詩人がはるばる岩手県から上京してきたと聞いて気の毒に思い、たった三日でセロが弾けるようになるものかどうかわからないが、知人を紹介した。当時親しくしていた新交響楽団のトロンボーン奏者でチェロも弾く大津三郎氏である。彼女は住所氏名を教え、「多分この方ならお望みを叶えてさしてあげられると思います。尾崎家から聞いてきたとおっしゃいますように」と丁寧に対応して賢治を帰した。
<『花咲ける孤独 評伝尾崎喜八』(重本恵津子著、
河出書房)71p~より>
 ここからは次の4点が例えば導かれる。
 その一点目は、賢治の尾崎喜八宅訪問はやはり大正15年であろうということである。なぜならば、「大正十四年か十五年かはっきりしないが」とあるが、賢治の大正14年の上京は少なくともないというのが通説だから、この訪問の年次は残りの方の「大正十五年」である可能性が高いことになるからである。つまり、大正15年12月2日に上京した際の滞京期間中に賢治は尾崎喜八の自宅を訪れたという可能性が極めて高い。
 このことは一方で、大津三郎が前掲の「三日でセロを覺えようとした人」の中で、賢治への「チェロの特訓」の時期について
 それは大正十五年の秋か、翌昭和二年の春浅い頃だつたか、私の記憶ははつきりしない。
<『昭和文学全集 月報第十四號』(角川書店)5pより>
と証言していることとも矛盾しない。つまり、「チェロの特訓」は尾崎及び大津の両者の証言が矛盾しない大正15年のことになるのではなかろうか。
 ただしその場合、「大正十五年の秋」ということなので「大正15年12月」という季節とは時期的に合わない。がしかし、賢治が大津三郎宅を訪問した際に「バターのお土産」を持参したという話(詳細は後述する)が残っているから、秋よりは冬の方が季節的にはふさわしく、大津の勘違いということもあり得る。
 その二点目は、尾崎喜八とは一面識もない賢治ではあるが、賢治は尾崎に『春と修羅』(大正13年4月20日刊行)を贈呈していたということの不思議さである。このとき尾崎は32歳だったというから、重本氏の同書所収の「尾崎喜八 略年譜」によれば大正13年のことにそれはなろう。しかもそれは「新婚早々のおおらかな気分」と書き添えていることから、大正13年のそんなに遅くない時期と思われる。なぜならば、同年譜によれば尾崎が結婚したのは大正13年の3月だからである。
 それにしても、どういう訳で一面識もなかったという尾崎に賢治は出来上がったばかりの『春と修羅』を早々に送ったのだろうか。当時は今とは違って、インターネットが普及していた訳でもない。如何なる方法で賢治は尾崎宅の住所を知ることができたのだろうか。いや、というよりは、当時の詩人達の間にはよくできたアナログな情報ネットワークが存在していたということなのかも知れない。
 では三点目であるが、それは賢治がチェロを買ったのはこの尾崎宅を訪問した頃ではなかろうかということである。というのは、尾崎の留守宅を訪問したことになったしまった賢治が、實子夫人に対して話したのであろう「たった三日でセロが弾けるように教えてもらいたい」が示唆していると思うからである。それは、この際の賢治の依頼は「たった三日でセロが巧く弾けるように」というものではなくてあくまでも「たった三日でとりあえずセロが弾けるように」なることを教えてもらいたいという意味に取れるからである。この点からも、
◇大正15年12月末賢治は最高級のチェロ一式を入手していた。
可能性が高いと考えられるのではなかろうか。
 最後の四点目は、「その前に高村光太郎を訪ねたようだが、すげなくことわられたらしい」という部分である。もしこの部分が著者重本氏の推測でなくて、尾崎喜八あるいは同夫人實子自身の証言ならば興味深い。
 というのは、当時賢治は千葉恭をして「先生は都會詩人所謂職業詩人とは私の考へと歩みは違ふし完成しないうちに會ふのは危險だから」(『四次元7號』の「宮澤先生を追つて(三)―大桜の実生活―」より)と言わしめている訳だから、私は何でわざわざ「都會詩人」の光太郎を訪ねたのか今ひとつ解らなかった。もちろん賢治は光太郎から『春と修羅』を誉めた葉書(<*>)を既にもらっていたようだからそのお礼のために訪ねたという可能性もあるとは思うが、もしかすると賢治が光太郎を訪ねた理由は尾崎宅を訪れたと同じ理由、すなわち「たった三日でセロが弾けるように教えてもら」えるようなチェロの先生を紹介してもらうためだったのではなかろうか。
<*註 吉田コトの証言>
 あれは初めて花巻に行ったときじゃなかったかな。甚次郎さんとしまちゃんと私、みんなで宮沢家でごちそうにな ったんですよ。…(中略)…
 このとき、賢治が自費出版で出した『春と修羅』の話もしてましたよ。「おらいで金出したんだけどよー。だれも認めなくてよー」なんて言ってた。ちょっと正確な数は忘れたけれど、一〇〇部だか二〇〇部だか、作家とか詩人に送ったんだって。だけど、みんな返事もよこさないで、草野心平さんと高村光太郎さんだけがハガキをくれた。そのハガキを賢治がお守りさんみたいに大事にしてたんだって。私、政次郎に「どんなこと書いてあった」って聞いたっけの、そしたら政次郎さん「なんもなんも」って。「贈ってくれたありがとう。ゆっくり読ませていただきます。これからもがんばりなさい」みたいなものだっけな。まあ、普通の礼状だね。
<『月夜の蓄音機』(吉田コト、荒蝦夷)15p~より>
 突如チェロを習おうと思い立つ
 したがって、この『花咲ける孤独 評伝尾崎喜八』に基づけば次のようなことが一つの可能性として浮かび上がる。
◇賢治が尾崎喜八宅を訪ねたのは大正15年である。その理由は、手に入れたばかりのチェロが弾けるようになりたいがために、それを三日間で指導してくれる先生を紹介して欲しかったからである。
 そして仮にそうだったとすれば、それに付随して
◇大正15年12月の滞京当初、賢治はチェロを習おうと思っていた訳ではない。その上京の際に賢治はチェロを持って上京していた訳でもない。
ということも自ずから言えよう。
 そしてこのことは次のことからも言えるであろう。それは、宮澤政次郎宛書簡「222」〔十二月十五日〕の中には、タイプライター、オルガン、エスペラントのそれぞれの学習についての報告はあるものの、チェロの学習に関しての報告は一切ないからである。セロの「セ」の字さえもそこには出てこない。そしてそれは、この滞京中に賢治が出した他の書簡の中でも同様であってチェロに関しての記載は一切ない。やはり、もともとチェロの学習を思い立って上京していた訳でもなかろう。
 もし賢治が当初からチェロの指導を受けようとしていたのであれば、 「たった三日でセロが弾けるように教えてもらいたい」ということを依頼するために、チェリストでもない詩人尾崎喜八宅を訪ねる訳がない(もしかすると、賢治の「たった三日でセロが弾けるように教えてもらいたい」という口跡の依頼の仕方からすれば、賢治は尾崎がある程度チェロを弾ける詩人であると思い込んでいたということはあるかもしれないが)。
 あるいは、以前賢治は尾崎に『春と修羅』を贈っていてその住所を知っていて、しかも尾崎はクラッシック音楽にも造詣が深いということを賢治は知っていたからかもしれない。この滞京中に急にチェロをやりたくなった賢治はチェロを教えてくれそうな専門家を知らなかったので、細いつてだがその尾崎宅を訪ねたのかもしれない。逆に言えば、面識もなく懇意にしていた訳でもない尾崎喜八を賢治が訪ねたという行動は、賢治がチェロを習おうと思い立ったのはその滞京中に突如であるという可能性が高いことを示唆している。
 一方で、しばしば見られるように賢治(あるいは天才)の性向としては思い立ったら直ぐ飛びつく(諦めるのもまた早い)性向があるが、まさしくその性向をして賢治にチェロを買わしめたのがこの上京の折のことであろう。なおかつその時期もこの滞京期間の終盤(大正15年12月下旬)であろう。なぜならば「たった三日でセロが弾けるように」と言っていたようだから、そこからは念願のチェロは入手できたが、ほどなく花巻に戻らなければならないので時間的余裕がなく、そこでそのような無理なお願いを賢治はしたのだという推理ができるからである。いずれこのことは後程再考したい。 
 年末チェロ特訓後直ちに帰花
 さて尾崎喜八は、賢治没6年後の昭和14年版『宮澤賢治研究』(草野心平編)所収の「雲の中で苅つた草」において次のように
 多分四五年前になると思ふが、彼は上京中の或夜東京の某管弦樂團のトロンボーン手をその自宅に訪問した。海軍軍樂隊出身の此樂手は私の友人で、一方セロも彈き詩が好きで、殊に「春と修羅」のあの男らしい北歐的なノルマン的な、リヽシズムを愛してゐた。其時の宮澤君の用といふのが、至急簡單にセロの奏法と手ほどきと作曲法の初歩とを教授してくれと云ふのだつた。併し之はひどくむづかしい註文で遂に實現出來ず、やがて一日か二日で宮澤君は郷里へ歸つたのだが、その熱心さには、ワクナアのファンファールを吹き抜いて息一つ彈ませない流石のトロンボーン手さへ吐息をついて驚嘆してゐた。
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店)203pより>
回想している。
 もちろんこの「トロンボーン手」とは大津三郎のことであり、賢治が大津の自宅に例の「三日間のチェロ特訓」を受けに行った際のことを語っていることになろう。その特訓期間は通説では「三日間」だが、尾崎の言っている「一日か二日」も似たり寄ったりで、いずれその期間は短期間であったということをこの証言は駄目押ししていると思う。
 ただしこのことよりももっと注目したいことは次の二点である。その一点目は
  ・多分四五年前になると思ふが
にである。このことからは、この証言はそれほど昔のことを言っている訳ではないということになる。そして二点目は
  ・やがて一日か二日で宮澤君は郷里へ歸つた
にである。
 とりわけ、私はこちらの証言が重要だと思った。この証言からは、この際の滞京はこの「チェロの特訓」を受けた直後に終止符を打ち、即帰花したということが導かれるし、その信憑性がかなりの確度で保証されることになろうと思えるからである。さほど昔のことを言っている訳ではないからである。
 よって現時点での私の判断は、父政次郎宛書「222」の中の
御葉書拝見いたしました。小林様は十七日あたり花巻へ行かれるかと存じます。わたくしの方はどうか廿九日までこちらに居るやうおねがひいたします。
<『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)238pより>
に注意すれば、
◇大正15年12月の滞京については、その月末に大津三郎から「三日間のチェロの特訓」を受け、直ちに帰花した。
と判断できることになる。
 もちろん、賢治のこの頃の上京といえばそれこそ「昭和2年の11月頃の上京」ということも考えられるが、その際は澤里武治の証言に従うならば病気になって帰花したのだから当てはまらず、この特訓を受けて賢治は直ちに帰花ということが言えるのは大正15年12月の上京しか考えられないことになる。なぜならば、もう一つの「下根子桜時代」の上京、昭和3年6月の上京がもちろん当てはまらないことは自明だからである。
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《新刊案内》
 この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』

を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。
 延いては、
 小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、
『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。

 しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
 まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
 きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。
 すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。

 そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。

 そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。

 そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。

 現在、岩手県内の書店で販売されております。
 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813

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