みちのくの山野草

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〔雨ニモマケズ〕(〔聖女のさまして近づけるもの〕)

2017-02-06 10:00:00 | 賢治作品について
<『校本宮澤賢治全集 資料第五(復元版雨ニモマケズ手帳)』(筑摩書房)より>
〔聖女のさまして近づけるもの〕
 物事を見る際は、そこだけにスポットを当てるという見方も良いとは思うが、虫の眼だけではなく鳥の眼になることも必要だろう。その一つの手法としては関係の中で見るということがあると私は思う。具体的には、〔雨ニモマケズ〕の前後に「雨ニモマケズ手帳」には何が書かれていたかということなどを時系列の視点から見てみるのはどうだろうか。

 さて、〔雨ニモマケズ〕を賢治が手帳に書き記した日は11月3日であったようだが、賢治はこの日から約10日前の10月24日に、佐藤勝治の言葉を借りれば、「彼の全文章の中に、このようななまなましい憤怒の文字はどこにもない」(『四次元44』(宮沢賢治友の会)所収「賢治二題」より)と形容している次の詩〔聖女のさまして近づけるもの〕、
   聖女のさましてちかづけるもの
   たくらみすべてならずとて
   いまわが像に釘うつとも
   乞ひて弟子の礼とれる
   いま名の故に足をもて
   われに土をば送るとも
             <『校本宮澤賢治全集 資料第五(復元版雨ニモマケズ手帳)』より>
をいわゆる『雨ニモマケズ手帳』に書いていた。そして、佐藤は「賢治二題」でこのことを「これがわれわれに奇異の感を与えるのである」と評しているのだが、もちろんその通りだと私も思う。それは、この〔聖女のさまして近づけるもの〕と〔雨ニモマケズ〕のそれぞれの日付は約10日間の違いしかないというのに、それぞれから受ける印象は両極端にあるとさえ思えて、あまりにも落差が大きすぎるからなおさらにである。何故だったのだろうか。

 このことに関連しては、『雨ニモマケズ手帳』研究の第一人者小倉豊文が次のようなことを論じていた。
 同手帳の32p~33pには、〔われに衆怨ことごとくなきとき〕がメモされているのだが、小倉豊文によればここには、
   ◎われに
    衆怨ことごとく
          なきとき
    これを怨敵
       悉退散といふ
   ◎
    衆怨
     ことごとく
          なし

              <『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉豊文著、東京創元社)116p>
と書かれていて、どちらの頁も〔聖女のさましてちかづけるもの〕が書かれた日と同じ10月24日のものらしいと推測している。
 そして、小倉は賢治がこの〔われに衆怨ことごとくなきとき〕をここに書き付けた理由を次のように解説している。
 恐らく、賢治は「聖女のさましてちかづけるもの」「乞ひて弟子の礼とれる」ものが、「いまわが像に釘う」ち、「われに土をば送る」ように、恩を怨でかえすようなことありとも、「わがとり来しは、たゞひとすじのみちなれや」と、いささかも意に介しなかったのであるが、こう書き終わった所で、平常読誦する観音経の「念彼観音力衆怨悉退散」の言葉がしみじみ思い出されたことなのであろう。そして、自ら深く反省検討して「われに衆怨ことごとくなきとき、これを怨敵悉退散といふ」、われに「衆怨ことごとくなし」とかきつけたものなのであろう。
            <前掲書119p~>

 このように解説してもらえば、10月24日に詠まれた〔聖女のさましてちかづけるもの〕とその約10日後に書かれたという〔雨ニモマケズ〕の間にある両極端とも思えるほどの賢治の心情の落差や感情の起伏が従前どうしても私には理解できなかったが、実は賢治は〔聖女のさましてちかづけるもの〕を詠んだ後にそのことを「自ら深く反省検討」していての〔雨ニモマケズ〕だったということであれば、腑に落ちる。先に引例したように、賢治は感情の起伏が激しかったということだから、そこが天才の天才たる所以の一つかもしれないが、少なくともこれら二つの間に〔われに衆怨ことごとくなきとき〕が書いてあったということならば、まあ、〔雨ニモマケズ〕がそれから約10日後に同手帳に書き記されていても分からない訳でもないな。
 言い換えれば、その約10日後に、賢治は「羅須地人協会時代」にやるべきことで実際にはできなかった事柄を羅列して悔い、最後に「サフイウモノニワタシハナリタイ」と締め括って懺悔したことによって初めて賢治は新たなステージに止揚されたと解釈できるのではなかろうか。そしてそこにこそ、賢治が〔雨ニモマケズ〕を手帳に書き記したことの最大の意味と価値があるのだとも言えるのではなかろうか。

 しかしながら、この止揚が短期間でなったことになる訳だから、賢治が完全に脱皮できていたのかというとそれはそうとばかりも言えないだろう。実際に、昭和7年6月の中舘武左衛門宛書簡下書(422a)中で賢治は、
拝復 御親切なる御手紙を賜り難有御礼申上候 承れば尊台此の度既成宗教の垢を抜きて一丸としたる大宗教御啓発の趣御本懐斯事と存じ候…(投降者略)…却つて新宗教の開祖たる尊台をして聞き込みたることありなど俗語を為さしめたるをうらむ次第に御座候。この語は岡つ引きの用ふる言葉に御座候。呵々。妄言多謝。
            <『新校本宮澤賢治全集第十五巻書簡本文篇』(筑摩書房)より>
という一文を書いているから、また元の木阿弥に戻ってしまったこともあったようだ。書き出しは「拝復 御親切なる御手紙を賜り難有御礼申上候 承れば尊台此の度既成宗教の垢を抜きて一丸としたる大宗教御啓発の趣御本懐斯事と存じ候」と慇懃に始まったと思いきや、最後はなんと、「吃驚仰天「呵々。妄言多謝」と皮肉たっぷりの捨て台詞で賢治は締めくくっているからである。

 そもそも人間そう簡単に変われるものでもなく、賢治もその例に漏れなかったということであろう。逆に言えば、私はそこにこそ愛すべき賢治を見ることができる。賢治も人間的には私達と結構似た点も多かったのだと。

 なお、〔雨ニモマケズ〕の次は同手帳67p~70pには
   ◎病ミテ 食摂ルニ 難キトキノ文 云々
が書かれているのだが、この位置づけ等は私には難しそうなので割愛。そしてその次の71p~74pには
   「土偶坊
が書かれている訳だが、このことについては次回に回したい。
 
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