みちのくの山野草

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〔雨ニモマケズ〕(祈りと願い)

2017-02-04 10:00:00 | 賢治作品について
<『校本宮澤賢治全集 資料第五(復元版雨ニモマケズ手帳)』(筑摩書房)より>
祈りと願い
 ではここで一度〔雨ニモマケズ〕の全文を見直してみよう。もちろんそれは、
  雨ニモマケズ
  風ニモマケズ
  雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
  丈夫ナカラダヲモチ
  慾ハナク

  決シテ瞋ラズ
  イツモシヅカニワラッテヰル
  一日ニ玄米四合ト
  味噌ト少シノ野菜ヲタベ
  アラユルコトヲ
  ジブンヲカンジョウニ入レズニ
  ヨクミキキシワカリ
  ソシテワスレズ

  野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
  小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
  東ニ病気ノコドモアレバ
  行ッテ看病シテヤリ
  西ニツカレタ母アレバ
  行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
  南ニ死ニサウナ人アレバ
  行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
  北ニケンクヮヤソショウガアレバ
  ツマラナイカラヤメロトイヒ
  ヒデリノトキハナミダヲナガシ
  サムサノナツハオロオロアルキ

  ミンナニデクノボートヨバレ
  ホメラレモセズ
  クニモサレズ
  サウイフモノニ
  ワタシハナリタイ
             <『校本宮澤賢治全集 資料第五(復元版雨ニモマケズ手帳)』より>
というものだ。そこで今回は、まだ考察をしていなかったうちの次のような事項について考察してみたい。

 まず「決シテ瞋ラズ/イツモシヅカニワラッテヰル」に関しては、菊池忠二著『私の賢治散歩 下巻』によれば、羅須地人協会の隣人で協会員でもあったという伊藤忠一が次のようなことを菊池氏に対して語ったという。
 私が意外に思ったのは、隣人として、また協会員としての伊藤さんが、賢治のところへ気軽に出入りすることができなかったということである。
 「賢治さんから遊びに来いと言われた時は、あたりまえの様子でニコニコしてあんしたが、それ以外の時は、めったになれなれしくなど近づけるような人ではながんした。」というのである。
 同じような事実は、その後高橋慶吾さんや伊藤克己さんからもたびたび聞かされた。
 「とても気持ちの変化のはげしい人だった」という話なのだ。
              <『私の賢治散歩 下巻』(菊池忠二著)36p>
 あるいはまた、佐藤勝治が「賢治二題」の中に書いてあるのだが、佐藤がD(投稿者が付けた仮名)に無理矢理、『いやな思い出があつたらきかせてくれとたのんだ』ところ、
 Dさんは、ずいぶんためらつた後に、決心したように、実にいやなこと、それを思い出すと今でも腹わたがにえくりかえるようで、先生についてのすべてのたのしい思い出は消え去つてしまうといつて話し出した。
 話といつても簡単であつて、二つである。一つは、…(投稿者略)… 常にもなく威丈高に叱りつけた。Dさんはあまりの事に口もきけずに、だまつて叱られていた。
 もう一つの話は、Dさんがある人(A)に稲コキ用のモーターを手離したいからどこかえ(ママ)へ世話をしてくれとたのまれていた。そこでさいわい知り合い(B)でほしい人があつたので世話することにしていたら、村の三百代言(C)がこれで一もうけしようと割り込んで来た。そこで彼(C)は賢治に告げ口をしたのである。そこでDさんは賢治によびつけられ、長時間にわたつて叱りとばされた。つまり、Dさんは、Cの世話しかけているAのモーターを、Bと組んで安くAから取り上げようとしている。Cの取引の邪魔をし、Aをだましているというのである。話はまるであべこべなのだが、先生はぜんぜん弁解を受けつけず、村でも名高いCの嘘言だけをほんとにして、お前も見下げはてた奴だ、せつかく俺がこれ程お前のために何彼と心をつかつているのに、よくも裏切つたなと、さんざんな叱言である。Dさんも、この時はほんとに腹が立つたが、どうしても話を受けつけないのだからしまいには泣くより仕方がなかつた。
              <『四次元44』(宮沢賢治友の会)12p~>
と紹介している。
 したがって、「羅須地人協会時代」の賢治は「決シテ瞋ラズ/イツモシヅカニワラッテヰル」という訳でもなかったということになりそうだ。

 次に、「一日ニ玄米四合ト」については、昭和7年6月1日付森佐一宛下書(419)の中の、
いままで三年玄米食(七分搗)をうちぢゅうやりました。母のさとから宣伝されたので、私はそれがじつにつらく何べんも下痢しましたが去年の秋までそれがいゝ加減の玄米食によることに気付きませんでした。気付いてももう寝てゐて食物のことなどかれこれ云へない仕儀です。最近盲腸炎(あらのため)を義弟がやったのでやっとやめて貰ひました。学者なんどが半分の研究でほうたうの生活へ物を云ふことじつに生意気です。
              <『新校本宮澤賢治全集第十五巻書簡本文篇』(筑摩書房)より>
という記述があることを知ってしまえば、「羅須地人協会時代」の賢治が玄米食だったとは言えないだろう。したがって、同時代の賢治が「一日ニ玄米四合ト/味噌ト少シノ野菜ヲタベ」であったということの保証はなさそうだ。

 さらに「野原ノ松ノ林ノ蔭ノ/小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ」ついてだが、花巻農業高校に今建っている「賢治先生の家」を見ればすぐに、あるいは当時の「羅須地人協会」の建物の写真を見てみても、同時代の賢治が「野原ノ松ノ林ノ蔭ノ/小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ」という訳でもなかったということは想像に難くない。

 畢竟は、先の「ヒデリノトキハナミダヲナガシ/サムサノナツハオロオロアルキ」ということが「羅須地人協会時代」の賢治にはなかったのと同様に、ここに書かれている「雨ニモマケズ/風ニモマケズ……ヒデリノトキハナミダヲナガシ/サムサノナツハオロオロアルキ」全体についてもほぼ賢治がしていなかったか、できなかったことであったということになりそうだ。

 しかも、これらを受けて賢治は最後に
   サウイフモノニ/ワタシハナリタイ
と締め括っている訳だから、ここに書かれている多くの内容は賢治が実際にそうであったとか実践していたとかということではなく、これからはそうありたいという、純粋に賢治の祈りと願いであったということになるではなかろうか。ただし、……

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《鈴木 守著作案内》
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 まず、葉書か電話にて下記にその旨をご連絡していただければ最初に本書を郵送いたします。到着後、その代金として500円、送料180円、計680円分の郵便切手をお送り下さい。
       〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守    電話 0198-24-9813
 ☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』                  ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)          ★『「羅須地人協会時代」検証』(電子出版)

 なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』        ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和2年の上京-』      ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』


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