みちのくの山野草

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「サムサノナツハオロオロアルキ」もなかった

2019-08-24 16:00:00 | 子どもたちに嘘の賢治はもう教えたくない
《ルリソウ》(平成31年5月25日撮影)
子どもたちに嘘の賢治はもう教えたくない

 というわけで、昭和2年の岩手は、「冷温多雨の夏」でもなければ「非常な寒い氣候が續いて」いたわけでもなく、もちろん「ひどい凶作であった」ということもなかったのであり、
 盛岡測候所長だった福井の「昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であった」という証言は、彼の事実誤認であった。
ということがこれで実証できたことになる。しかも、凶作どころか、昭和2年の岩手県の米の作柄は平年作以上であったことも分かった。
 するとおのずから、「羅須地人協会時代」である昭和2年に、賢治が「サムサノナツハオロオロアル」こうと思ってもこれは土台無理な話だし、冷夏による凶作を心配して「オロオロアル」く必然性もなかったのだった。
 当然、
 昭和2年に賢治が「サムサノナツハオロオロアルキ」することはなかった。………(x)
という結論にならざるを得ない。それは、くどくなるが、昭和2年の夏は「サムサノナツ」などではなく、それどころか逆に平年よりかなり暑い夏(先に〝典拠も、裏付けも示さず、検証もせずに〟や〝「健全な批判精神」が失われて起こった悲劇〟で実証したように)だったからである。

 よって、「羅須地人協会時代」の賢治が、大正15年及び昭和3年の「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」たとは言えないことが、既に先の〝「ヒデリノトキニ涙ヲ流サナカッタ」賢治〟で解っているので、これと先ほどの(x)とを併せれば、
 「羅須地人協会時代」の賢治が「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」たとか「サムサノナツハオロオロアルキ」ということはそれぞれ、そうしたとは言えないし、出来なかった。
ということになってしまった(そう、それ故にこそこのようなことを悔いて、「サウイフモノニワタシハナリタイ」ということなのだ、きっと)。

 なお、農学博士卜藏建治氏の『ヤマセと冷害』によれば、大正2年(賢治17才)の大冷害以降しばらく「気温的稲作安定期」が続き、賢治が盛岡中学を卒業してから「下根子桜」撤退までの間に、稗貫郡が冷害だった年は全くなかったということであり、同博士は次のように、
 この物語(投稿者註:「グスコーブドリの伝記」)が世に出るキッカケとなった一九三一年(昭和六年)までの一八年間は冷害らしいもの「サムサノナツハオロオロアルキ」はなく気温の面ではかなり安定していた。…(投稿者略)…この物語にも挙げたように冷害年の天候の描写が何度かでてくるが、彼が体験した一八九〇年代後半から一九一三年までの冷害頻発期のものや江戸時代からの言い伝えなどを文章にしたものだろう。 
             〈『ヤマセと冷害』(ト藏建治著、成山堂書店)15p~〉
と論じている<*1>。
 このことに関しては、『岩手県農業史』(森嘉兵衛監修、岩手県発行・熊谷印刷)によれば、当時の冷害・干害等発生年は下表のごとく、
      〈冷害〉           〈干害〉
    明治21年         明治42年
    明治22年         明治44年
    明治30年         大正5年
    明治35年(39)      大正13年
    明治38年(34)      大正15年
    明治39年        昭和3年
    大正2年(66)      昭和4年
    昭和6年         昭和7年

    昭和9年(44)      昭和8年
    昭和10年(78)      昭和11年
       注:( )内は作況指数で、80未満の場合に示した。
となっていて、賢治は明治29年生まれ、昭和8年歿だから、賢治が稲作に関わるようになった「花巻農学校教師時代」~「羅須地人協会時代」(大正10年12月~昭和3年8月)の間に起こった冷害・干害は、
    大正13年、大正15年、昭和3年の干害だけである。
から、たしかに卜藏建治氏の言うとおり、大正2年以降、昭和6年までの18年間は冷害がなかったことを確認できた。だから、少なくともこの期間、実は賢治には冷害の体験はなかったのである。

 なお、昭和6年は周知のように岩手県はかなりの冷害だったのだが、稗貫郡はそれどころか実は平年作以上であったことは、先にも用いた《表4 当時の米の反当収量》

の中の数値「+0.4」から明らかであり、
    昭和6年稗貫郡の稲作は平年作以上だから、実は冷害だったわけではない。
 それゆえ、
    盛岡中学卒業後の賢治は没するまでの間は、身近に冷害を体験することはなかった。
ということになる。
 つまり、賢治が直接稲作に関わっていた期間はもちろんのこと、盛岡中学を卒業して没するまでの間でさえも身近に冷害を体験したことはなかったということになり、実質的には、賢治は生涯、「サムサノナツハオロオロアルキ」することなかったと言えるようだ。

<*1:註> 私は、今になって多少ホッとしている。
 先に私は〝典拠も、裏付けも示さず、検証もせずに〟で引例した、少なからぬ賢治研究家の〝(a)~(g)〟の断定表現を、しかもそれはほぼ間違っているということを知って残念に思っていた。ところが、これらの研究家たちとは異分野のともいえる農学博士が、間接的にではあるが〝(a)~(g)〟が危ういということを示唆していたということに私はやっと今気付いたからである。
 そして、なぜ農学博士の卜藏建治氏がこのような示唆が出来たのかというと、石井洋二郎氏が強調するところの「必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみる」という、研究者としての重要な必要条件を同博士は心懸けていたからだということを、私は容易に察することが出来た。

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      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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