《賢治愛用のセロ》〈『生誕百年記念「宮沢賢治の世界」展図録』(朝日新聞社、)106p〉
現「宮澤賢治年譜」では、大正15年
「一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の沢里武治がひとり見送る」
が定説だが、残念ながらそんなことは誰一人として証言していない。
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第七章 「本年中セロ一週一頁」現「宮澤賢治年譜」では、大正15年
「一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の沢里武治がひとり見送る」
が定説だが、残念ながらそんなことは誰一人として証言していない。
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この章では、賢治のその後のチェロの学習は順調であったか等について考えてみたい。
1 賢治は日記を付けていた
さて年が改まって昭和2年、賢治は年頭に当たって一年の計を立てた。一般に賢治は日記を付けなかったといわれているようだが、少なくとも昭和2年には日記を付けていた。それはいわゆる、
【「手帳断片A」】
〈『昭和2年の賢治の日記帳(印刷上は「大正十六年日記」)』》<『校本宮澤賢治全集第十二巻(上)』(筑摩書房)〉
が残っているから判る。
賢治一年の計「本年中セロ一週一頁」
「手帳断片A」の1頁目には『大正十六年日記』というタイトルが印刷されているが、もちろん前年末に改元されたから実質的には『昭和二年日記』ということになる。
そしてその3頁、「1月1日(土)」の欄に賢治は、
国語及エスペラント
音聲學
とペン書きしている。賢治はこの日に
国語、エスペラント、音声学
などを学んだということであろう。
一方の、MEMO欄の
本年中セロ一週一頁
オルガン一週一課
のペン書きの方は、昭和2年の年頭に当たって立てた賢治の「一年の計」と考えていいだろう。
そして、この記載の仕方からは、
・この時点ではオルガンの練習よりはチェロの練習の方を優先させていたということ。
・とはいえ、「セロ一頁」に対して「オルガン一課」だからおそらくオルガンに比べてチェロの腕前は未熟であったであろうこと。
・「セロ一週一頁」の「一頁」とは大津から貰った『ウエルナー教則本』<*1>に対するものかもしれないこと。
・そして、一般に賢治は日記を書かなかった人のようだが、この昭和2年だけは他の年と違って日記を書き始めたということになりそうだから、昭和2年に対する意気込みはかなり強かったであろうこと。
などが読み取れる。したがって、昭和2年の賢治の日記からは、・とはいえ、「セロ一頁」に対して「オルガン一課」だからおそらくオルガンに比べてチェロの腕前は未熟であったであろうこと。
・「セロ一週一頁」の「一頁」とは大津から貰った『ウエルナー教則本』<*1>に対するものかもしれないこと。
・そして、一般に賢治は日記を書かなかった人のようだが、この昭和2年だけは他の年と違って日記を書き始めたということになりそうだから、昭和2年に対する意気込みはかなり強かったであろうこと。
昭和2年の賢治は年頭に一年の計「本年中セロ一週一頁」を立て、かなりの意気込みで「年内にチェロが上達すること」を目指していた。
ということが言えよう。賢治の「昭和二年日記」より
ただし、実はこの『昭和二年日記』は6頁までしか残っておらず、残りの分の記載は以下のようなものである。
1月2日 varma
1月3日 varma
1月4日 varma
1月5日 伊藤熊蔵氏仝竹蔵氏等来訪 中野新左久氏往訪
1月6日 klara m varma
1月7日 中館武左エ門氏 田中縫次郎氏 照井謹二郎君 伊藤直見君来訪
1月8日 venta kaj varma
1月9日 (記載なし)
1月10日 肥料設計
1月3日 varma
1月4日 varma
1月5日 伊藤熊蔵氏仝竹蔵氏等来訪 中野新左久氏往訪
1月6日 klara m varma
1月7日 中館武左エ門氏 田中縫次郎氏 照井謹二郎君 伊藤直見君来訪
1月8日 venta kaj varma
1月9日 (記載なし)
1月10日 肥料設計
<『校本宮澤賢治全集第十二巻(上)』(筑摩書房)408p~より>
なお、ここに阿部孝の名前は出てこないから、少なくとも昭和2年元旦~10日の間には阿部孝は賢治の許を訪れていなかったであろうと判断できる(先に私が、『後述するような理由から阿部が「ぎいん、ぎいん」を聞いたのは12月内のことであろう』と述べたが、これがその理由である)。1月5日の来訪者等
では、1月5日の来訪者等について次に少し調べてみたい。
《伊藤熊蔵》
まず伊藤熊蔵であるが、あの羅須地人協会員伊藤克己、篤己兄弟の父親である。この伊藤熊蔵なる人物は、賢治の「春と修羅・詩稿補遺」の中の次の詩、
憎むべき「隈」辨当を食ふ
きらきら光る川に臨んで
ひとリで辨当を食ってゐるのは
まさしく あいつ「隈」である
およそあすこの廃屋に
おれがひとりで移ってから
林の中から幽霊が出ると云ったり
毎晩女が来るといったり
町の方まで云ひふらした
あの憎むべき「隈」である
ところがやつは今日はすっかり負けてゐる
第一 草に腰掛けて
一生けん命食ってゐるとき
まだ一ぺんも復讐されない
…(中略)…
川がきらきら光ってゐて
下流では舟も鳴ってゐる
熊は小さな卓のかたちの
松の横ちょに座ってゐる
ぢろっと一つこっちを見る
それからじつにあわてたあわてた
黄いろな箸を二本びっこにもってゐて
四十度ぐらゐの角度にひろげ
その一本で
熊はもぐもぐ口中の飯を押してゐる
おれはたしかにうしろを通る
…(以下略)…
きらきら光る川に臨んで
ひとリで辨当を食ってゐるのは
まさしく あいつ「隈」である
およそあすこの廃屋に
おれがひとりで移ってから
林の中から幽霊が出ると云ったり
毎晩女が来るといったり
町の方まで云ひふらした
あの憎むべき「隈」である
ところがやつは今日はすっかり負けてゐる
第一 草に腰掛けて
一生けん命食ってゐるとき
まだ一ぺんも復讐されない
…(中略)…
川がきらきら光ってゐて
下流では舟も鳴ってゐる
熊は小さな卓のかたちの
松の横ちょに座ってゐる
ぢろっと一つこっちを見る
それからじつにあわてたあわてた
黄いろな箸を二本びっこにもってゐて
四十度ぐらゐの角度にひろげ
その一本で
熊はもぐもぐ口中の飯を押してゐる
おれはたしかにうしろを通る
…(以下略)…
<『校本宮澤賢治全集第四巻』(筑摩書房)213p~より>
に登場するおそらく「隈」に違いない。というのは次のように考えられるからである。この詩は「隈」なる人物が「下ノ畑」付近で弁当を食べているシーンを詠んだ詩で、タイトル等では「隈」となっているが、詩の後半ではその人物にあたる名が「熊」になっている。すると、この下根子桜周辺に住んでいる人物で「熊」ならば、直ぐに思う浮かぶのは伊藤熊蔵だし、その他にはなさそうだ。だからおそらく、賢治の生原稿では「隈」は実は「熊」だったが、後刻出版する際に「熊」のままでは流石に憚られるので「熊」を「隈」に差し替えようとした。ところが、それが徹底されなかったために元々の「熊」がそのまま一部残ってしまったと推測できる。
そこでもし私のこの推測が当たっているとしたならば、賢治は伊藤熊蔵を苦々しく思っている訳だが、当の伊藤熊蔵は律儀にも賢治のところへわざわざ年賀の挨拶に来たということになろう。このような近所の付き合いを大切にしている熊蔵の人柄を知ってしまえば、賢治から「憎むべき」等と形容されてこのように揶揄された詩に詠まれたのでは熊蔵も立つ瀬がなく、気の毒である。
《仝竹蔵》
つまり伊藤竹蔵という名の人物になる訳だが、不詳である。
《中野新左久》
往訪者の中野新左久とはもちろん当時の花巻農学校の校長のことである。
『今日の賢治先生』によれば、
中野新左久 明一九~昭四四。石川県出身。明四一盛岡高等農林学校卒業→青森県(教諭)・福島県(校長)で教鞭をとり、大一四畠山栄一郎校長と入れかわりに花巻農学校に着任。生真面目な人物で、校長室を作り職員との間に一線を設けた。はじめ賢治の教師ぶりを喜ばなかったという。
<『今日の賢治先生』(佐藤司著)576pより>
とある。一般に、前任畠山校長に比べて中野新左久校長の評価は、それぞれが豪放磊落と生真面目と単純に図式化されてしまっていて分が悪いような気がする。しかし冷静に考えればそれは我々の偏見かもしれない。その中野校長を、疾うの昔に農学校を辞してしまった賢治がわざわざ松の内に実際訪ねていることになる訳だから、賢治は中野新左久を少なくとも悪く思っていた訳ではなさそうだからである。1月7日の来訪者等
では次は1月7日の来訪者についてである。
《中館(舘)武左衛門》
この人物は盛岡中学の5年先輩である。どういう経緯で二人が付き合い始めたのかはわかりかねるが、後年、賢治はこの中舘を揶揄するような内容の書簡「241a」(昭和3?年7月30日付)を出している(『新校本宮澤賢治全集別巻(補遺篇)』(筑摩書房)27p)。さらには、昭和7年6月22日付書簡「422」では高瀬露がらみで中舘を見下しているような書き方をした辛辣な下書を残している(『宮沢賢治全集9』(ちくま文庫))。これらの書簡からは、二人の人間関係がきわめて悪いことが読み取れる。
そのような人物中舘が、その5年前の松の内にわざわざ賢治のところへ年賀の挨拶に来ていると解釈できるのだから、この頃の二人の間の人間関係は逆にきわめて良好であることが想像できる。この5年の間に賢治と中舘の間には一体何が起こっていたのであろうか。
《田中縫次郎》
『宮野目小史』という郷土史を見ると、
(宮野目地区は)このような水不足の不安を抱えての米作りに代わる作目を志向して、瀬川の最下流の上似内、下似内は、特に水源が乏しいことから、以前から取り組んでいた養蚕を積極的に推進し、活路を求めるため、養蚕技師、田中縫次郎氏(埼玉県)の献身的指導を得て、大きな成果を上げるなど苦心しながらも、農業を維持したのである。この当時の養蚕事業がこの地区で、それから昭和30年頃まで、一部の農家が継続して営まれていた。因みに田中氏の指導と農民の努力によって、大正3年収繭高3600㎏程度であったが、昭和7年には、約8200㎏と2倍以上に伸張した。この養蚕振興に尽力した田中氏を顕彰する「豊蚕之碑」が上似内八坂神社境内に建立されている。
<『宮野目小史』(花巻市宮野目地域振興協議会)20pより>
とあった。ということは、田中縫次郎なる人物はわざわざ埼玉からやって来てなおかつ宮野目のために多大の貢献をしていたのだ。そしてそのような田中が、昭和2年1月7日に下根子桜の賢治の許を訪ねていたことになる。
またその立派な顕彰碑を見てみると、大正14年の8月時点でこの顕彰碑が建っていることが判るから、賢治が花巻農学校に奉職していた時点で田中縫次郎は既に地元の人達からとても崇敬されていたということも分かる。
考えてみれば、花巻農学校の前身は郡立農蚕講習所であり、当時の生徒は蚕を飼い、桑の葉をせっせと採っていたであろうゆえ「クワッコ(桑ッコ)大学」とあだ名されていたようだから、農学校勤務時代から賢治と田中縫次郎は仕事上の往き来があったということなのであろう。
《照井謹二郎》
花巻農学校での教え子。
《伊藤直見》
現時点では不詳。
<*1:註> 大津三郎の「三日でセロを覺えようとした人」という追想の中に、
ウエルナー教則本の第一と信時先生編のセロ名曲集一卷を進呈して別れたのだつたが、數日してから屆いた小包には、「注文の多い料理店」と澁い裝幀の「春と修羅」第一集が入つて居て、扉には
獻大津三郎先生 宮澤賢治
と、大きな几帳面な字で記してあつた。
獻大津三郎先生 宮澤賢治
と、大きな几帳面な字で記してあつた。
<『昭和文学全集 月報第十四號』(角川書店)6pより>
とある。続きへ。
前へ 。
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賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』
〈平成30年6月28日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版いたしましたのでご案内申し上げます。
その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました。
そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題になっている本です。
現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
電話 0198-24-9813
お忙しいところ、早速のご教示ありがとうございます。
実は次回の投稿におきまして、この講座「ヴィオロン・セロ科」に関して言及したいと思っておりましたので、悩んでおりました。
お陰様で、まずは投稿してみたいと思います。
これからも、何卒よろしくご指導のほど宜しくお願いいたします。
鈴木 守
何度も申し訳ございません。
横田庄一郎氏が賢治の「チェロ学習ノート」に関して、
賢治はチェロの学習ノートを残している。一九二四(大正十三)年末から翌年夏にかけて順次刊行されたアルス『西洋音楽講座』(全十六巻)の、第四巻から第六巻に掲載されたヴィオロン・セロ科を写していたのである。ノートの紙片は宮沢賢治記念館に展示されており、インクで書かれ、二つ折にた紙は未記入も含めて四十頁に及んでいた。<『チェロと宮沢賢治』(横田庄一郎著、音楽之友社)23p~>
と述べておりました。そこで、「本年中セロ一週一頁」とは、この『ヴィオロン・セロ科』を見ながらチェロの勉強をしつつ「一週一頁」ずつ書き写して「チェロ学習ノート」を作ること、ということもあったのかななどとも私は考えてもおります。如何なものでしょうか。
鈴木 守
いつもご教示ありがとうございます。
たしかに、これでは大津から貰った「セロ名曲集」を賢治が持っているはずがないですね。
一方の「ウエルナー教則本」につきましては、私が持っているものは初版の発行日が記してありませんが、これはいつ頃発売になったものでしょうか。
なお、私としましては、賢治は昭和2年の11月頃の霙の降る日に澤里武治ひとりに見送られてチェロを持って上京。約三ヶ月間チェロの猛勉強をしたが、その無理がたたって病気となり、帰花したということを実証しておりますので、その折に、また尾崎の家にバターを持ってお礼に上がっていると判断しております。
それでは、これからも、どうか宜しくご指導下さい。
鈴木 守