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440 昭和2年の賢治の上京(#40)

1月7日の来訪者等
 では次は1月7日の来訪者についてである。
・中館武左エ門
 この人物は盛岡中学の5年先輩である。どういう経緯で二人は付き合い始めたのかは知る由もないが、後年(昭和7年)高瀬露がらみで賢治は賢治らしからぬ書き方をした中館宛書簡下書を残している。その書簡では、賢治は中館に対して辛辣で高飛車な書き方をしている。二人の人間関係きわめて悪いことがわかるものである。
 そのような人物中館が、その5年前の正月松の内にわざわざ賢治のところへ年賀の挨拶に来ていると解釈できるのだから、この頃の二人の間の人間関係は逆にきわめて良好であることがわかる。この5年の間に賢治と中舘の間には一体何が起こっていたのであろうか。 
・田中縫次郎
 さてこの人物についてだが、まずは
《1 宮野目上似内の八坂神社》(平成24年12月9日撮影)

に行ってみた。その境内に入ると
《2 こんな石碑群》(平成24年12月9日撮影)

があり、この中央が
《3 豊蠺之碑》(平成24年12月9日撮影)

であり、〝豊蠺〟とは〝豊蚕〟のことのようだ。
 この碑の右側には
《4 田中縫次郎先生》(平成24年12月9日撮影)

と刻してある。よく見ればさらにその右側に〝入間郡高萩村出身〟とも刻まれている。そして裏碑面を見てみると〝大正十四年八月建之〟とある。
 ということは、わざわざ埼玉県入間郡から花巻にやって来た田中縫次郎なる人物は、宮野目地区の養蚕業に多大な貢献をした人物であったということがわかる。それも、大正14年の8月時点でこの立派な顕彰碑が建っているということから、賢治が花巻農学校に奉職していた時点で田中縫次郎は既に地元の人達からとても崇敬されていたということもわかる。
 考えてみれば、花巻農学校の前身は郡立農蚕講習所であり、当時の生徒は蚕を飼い、桑の葉をせっせと採っていたであろうゆえ「クワッコ(桑ッコ)大学」とあだ名されていたようだから、農学校勤務時代から賢治と田中縫次郎は仕事上の往き来があったということなのであろう。

・照井謹二郎は花巻農学校での教え子。
・伊藤直見は同じく花巻農学校でのに教え子。
 第4回卒業生(大正14年3月卒)で、後に東和の安俵小学校等の教員を勤めた。小原忠と同期である。
             <『宮沢賢治 地人への道』(佐藤成著)365pより>
1月10日「肥料設計」のメモ
 そして、いよいよ〝肥料設計〟を始めるぞという意気込みも『昭和2年日記(いわゆる「手帳断片A」)』の1月10日のメモから読み取れる。そして、この〝肥料設計〟はちょうど
【『1月10以降の講義予定表』】

                    <『宮沢賢治の世界展』(原子郎総監修、朝日新聞社)より>
の1月10日の予定とも符合し、これら等からは昭和2年1月の賢治の旺盛な実践活動がありありと見えてくる。
 したがって『宮澤賢治物語(50)』や「沢里武治氏聞書」における証言
 先生は予定の三ヵ月は滞京されませんでしたが、お疲れのためか病気もされたようで、少し早めに帰郷されました
はこの時期(大正末~昭和2年1月)には全くそぐわない。それよりは、かつての殆どの「賢治年譜」に載っていた
 昭和3年1月 …栄養不足にて賢治漸次身體衰弱す。
こそがふさわしい。
私の主張
 とまれここまで調べてみて言えることは、昭和2年の松の内の間は賢治はチェロの練習などに熱心だったばかりではなくて、来訪者もあったり、中野新左久を訪ねたりと元気で忙しくしていたであろうことが読み取れる。また、1月10日以降の講義に意欲をみなぎらせていたこともわかる。
 そこで私が主張したいことは、大正末~昭和2年1月の賢治がこうであったのだから、『岩手日報』連載の『宮澤賢治物語(49)、(50)』や「沢里武治氏聞書」における証言をこの大正末と昭和の初めに当てはめることはほぼ無理なのではなかろうか、ということである。
 端的に言えば、
 大正15年12月2日の「現通説」が、もし『宮澤賢治物語(49)、(50)』や「沢里武治氏聞書」における証言を典拠にしているとするならばそれは適切な使われ方ではない。
ということであり、これらの証言が正しく使われるとすればそれは少なくとも〝大正末~昭和2年1月〟にではない。それよりは〝昭和2年11月~昭和3年1月〟のことであるとした方が遙かに合理的であるということである。
********************************後日わかったこと***************************

田中縫次郎の補足
 その後、『宮野目小史』という郷土史を見ることができて、その中には次のように
 (宮野目地区は)このような水不足の不安を抱えての米作りに代わる作目を志向して、瀬川の最下流の上似内、下似内は、特に水源が乏しいことから、以前から取り組んでいた養蚕を積極的に推進し、活路を求めるため、養蚕技師、田中縫次郎氏(埼玉県)の献身的指導を得て、大きな成果を上げるなど苦心しながらも、農業を維持したのである。この当時の養蚕事業がこの地区で、それから昭和30年頃まで、一部の農家が継続して営まれていた。因みに田中氏の指導と農民の努力にによって、大正3年収繭高3600㎏程度であったが、昭和7年には、約8200㎏と2倍以上に伸張した。この養蚕振興に尽力した田中氏を顕彰する「豊蚕之碑」が上似内八坂神社境内に建立されている。
                <『宮野目小史』(花巻市宮野目地域振興協議会)20pより>
とあった。予想していたとおりであった。田中縫次郎はわざわざ埼玉からやって来てなおかつ宮野目のために多大の貢献をしていたのだ。そしてそのような田中が、昭和2年1月7日に下根子桜の賢治の許を訪ねていたことになる。

【コーヒーブレイク】
昭和3年の旱魃
 引き続いて前掲書には同地区の昭和3年の大干魃の記録があり、降雨のなかった日がこの年はなんと連続
   昭和3年 7月18日~8月25日(39日間)……①
もあったと書かれていた。私はびっくりし、そしてもしかするとやはりと思った。
 実は私はいままでず~っと、賢治は昭和3年7月~8月、稲作の不良を心配して風雨の中を奔走したために肋膜炎にかかり、豊沢町の実家に戻って病臥したとばかり思っていた。
 というのは、『宮澤賢治研究』(草野心平編、明治屋書店、昭和14年)所収の「宮澤賢治年譜」には
昭和三年
 △ 八月、心身の疲勞を癒す暇もなく、氣候不順による稲作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、歸宅して父母のもとに病臥す。
とあり、『宮澤賢治全集 12』(宮澤賢治著、筑摩書房)所収の「宮澤賢治年譜」(宮澤清六編)には
昭和三年
 七月・八月、肥料設計を繼續、稲作の不良を心配し、風雨の中を奔走して肋膜炎にかかり、父母のもとに歸り病臥、文語詩を書き始める。
などというようになっていたからである。
 そして、通説では8月10日に豊沢町に戻ったということになっているようだが、もし①が事実であるならば8月10日以前の約約3週間は少なくとも雨は全く降っていなかったということになる。
 実際、このことに関連しては「新校本年譜」を見直してみると  
 …七、八月旱魃四〇日以上に及んだ…
                 <『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(筑摩書房)379pより>
とあり、「風雨の中を奔走して肋膜炎にかかり」等というようなことは記されていない。
 そこで疑問に思うのは、なぜかつては〝①〟のような年譜の書き方をしていたのだろうかということである。言い方を換えれば、当時の花巻は〝風雨〟が続くような気候ではなかったのではなかろうかという疑問が湧くのである。宮野目地区と花巻の気象はほぼ同じであると考えられるから、賢治が少なくとも「風雨の中を奔走」するということはなかったのではなかろうか、ということに思い至るのである。 

 したがってこのことについては、もう少し探究する必要があるなということを今更ながら覚った。

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