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《今はなき、外臺の大合歓木》(平成28年7月16日撮影)
ではここからは新たな項「㈢八重樫賢師」に入る。名須川は次のようなことなどをまず述べていた。
賢師は賢治から聴講生として国民高等学校で学んだ。父政治は花巻川口町鍛冶町で麩屋を営んでいた。その五男、明治四一年二月一日生まれ。…(投稿者略)…花城小学校を卒業後向学心に燃えて、その頃に募集していた当時の国民高等学校に聴講生として入学したようである。
賢治の教えを守り下根子桜に土地を借り、小作人となり畑を耕す。農学校出身とは異なり謙虚でめだつことはなかったが、羅須地人協会で賢治から忠実に多く学んだ。
〈『岩手の歴史と風土――岩手史学研究80号記念特集』(岩手史学会)473p〉賢治の教えを守り下根子桜に土地を借り、小作人となり畑を耕す。農学校出身とは異なり謙虚でめだつことはなかったが、羅須地人協会で賢治から忠実に多く学んだ。
あるいは、
地人協会員と青年たちの社会運動学習のグループが一緒になり、次第に農村運動から社会改革そして労農党へ進んで行く。賢師は賢治の「農村運動」から、学びつつ、小作人となり労農党運動に猛進した。
〈同475p〉ということもである。
たしかに、八重樫賢師が聴講生として国民高等学校で学んだことは、『新校本年譜』の310pにそのことの記載がある<*1>から知っていたし、花巻の知人AN氏から「賢師はあの国民高等学校の聴講生でもあったんですよ」ということを教えてもらったこともある。また、生家が鍛冶町の麩屋さんであることも地元に住んでいる私は知っていた。さらには、私がいつもお世話になっている先輩TT氏から、
私のおばが、
ということを教えてもらった(平成26年2月19日)ことがある。私はこのお話を伺って、この「鍛冶町のけんじ」とは、「八重樫賢師」その人に他ならないと推測した。なぜならば、その「八重樫賢師」の家は鍛冶町のかつての「八重樫麩屋さん」であり、私もそれまでは、「賢師」は「けんじ」と読むのだとばかり思っていたからである。 『ある時、下ノ畑の傍で賢治と二人で小屋を造っている人を見たことがある。その人は、そこに農園のようなものを開いていた鍛冶町のけんじであった』
と言っていた。そして、「賢治の教えを守り下根子桜に土地を借り、小作人となり畑を耕す」については、いままで賢師が小作になったということを私は全然知らなかったのだが、このことは一概に否定できなということ覚った。それはもちろん、上掲の「おば」の証言もあるからである。
あるいはまた、賢師の近縁の方から次のようなこと、
① まず八重樫賢師の「賢師」の読み方だが、私は今まではついつい〝けんじ〟だとばかり思っていたが、〝けんし〟ですよと教わった。
② かつて、たしかに名須川溢男が来て義母から聞き取りをしていましたよ。その際傍にいてそのやりとりを聴いておりました。
③ 八重樫賢師は、昭和3年の陸軍特別大演習を前にして行われた警察の取り締まりから逃れるために、その8月頃に函館へ参りました。
④ 函館の五稜郭の近くに親戚がおり、味噌杜氏をしていたのですがそこに身を寄せましたが、2年後の昭和5年8月、享年23歳で亡くなりました。
⑤ 農学校の傍で生徒みたいなこともしておったそうです。
⑥ 頭も良くて、人間的にも立派なお方だったと聞いております。
⑦ 賢治さんの使い走りのようなことをさせられていたようです。
⑧ 昭和3年当時家の周りを特務機関の方がウロウロしていたものですよ、ということを隣家の方から教わったものです。
などを私は伺うことができた(平成25年3月6日)のだった。これらのことからは逆に、名須川の一連の取材内容は信頼度が低くないのだということも教えられる。② かつて、たしかに名須川溢男が来て義母から聞き取りをしていましたよ。その際傍にいてそのやりとりを聴いておりました。
③ 八重樫賢師は、昭和3年の陸軍特別大演習を前にして行われた警察の取り締まりから逃れるために、その8月頃に函館へ参りました。
④ 函館の五稜郭の近くに親戚がおり、味噌杜氏をしていたのですがそこに身を寄せましたが、2年後の昭和5年8月、享年23歳で亡くなりました。
⑤ 農学校の傍で生徒みたいなこともしておったそうです。
⑥ 頭も良くて、人間的にも立派なお方だったと聞いております。
⑦ 賢治さんの使い走りのようなことをさせられていたようです。
⑧ 昭和3年当時家の周りを特務機関の方がウロウロしていたものですよ、ということを隣家の方から教わったものです。
なお、名須川溢男によれば賢師の誕生年は明治41年だという。このことについては私は今まで知らなかったのだが、やはりなと改めて思った。それは、賢治は同年代の人物との交流が殆どない一方で、交流のある人物の多くは年齢がほぼ一回り下の若い青年たちばかりだったということをである。
ちなみに、
宮澤賢治 明治29年生まれ
千葉恭 明治39年 〃
高橋慶吾 明治39年 〃
八重樫賢師 明治41年 〃
伊藤忠一 明治43年 〃
伊藤与蔵 明治43年 〃
だったはずだ。そこからは、賢治の性向の一端が窺える。
<*1:註>『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(筑摩書房)の310pには、
聴講生八重樫賢師、伊藤秀次
とある。
したがって、賢師のみならず、先に名須川が挙げていた、
伊藤秀治(労農党員、画家文化活動家、椅子張所、豊沢町)
も同様聴講生だったのである。となれば、あくまでも可能性としてだが、この二人が聴講できたのは賢治の押しがあったからだったということも十分にあり得るだろう。
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賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』
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〈平成30年6月28日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版いたしましたのでご案内申し上げます。
その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました。
そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題になっている本です。
現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
電話 0198-24-9813
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