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ちゑ『二葉保育園』勤務の意味

2024-02-11 10:00:00 | 濡れ衣を着せられた高瀬露







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********************************** なお、以下は今回投稿分のテキスト形式版である。**************************
 ちゑ『二葉保育園』勤務の意味
 ふと思った、そもそも当時ちゑが勤めていたという保育園とは『二葉保育園』なのだろうかそれとも『双葉保育園』なのだろうかと。
◇ちゑ『二葉保育園』に就職
 そういえばちゑが勤めていた保育園に関しては、私は今まで何ら知ろうともせずにやり過ごしてきたなと反省したところであったが、これまた荻原昌好氏が前掲書の中で次のようなことを述べていることをも知ることができた。
 チヱは、地元で育った後、大正一三年から同一五年まで二葉保育園(もと二葉幼稚園)に保母として勤務していた。これは、『光りほのかなれども――二葉保育園と徳永恕(ゆき)』(上笙一郞・山崎朋子著・朝日新聞社)によれば「セツルメント」の祖と言って良いもので貧民街の保育・教育が目的の園であった。但し『二葉保育園八十五年史』(昭60・1)によると、政府の援助金、や宮内庁からの御下賜金などもあって、所謂一般的なセツルメントとは言えない。そこに大正一五年まで勤めていたとあるのは、兄七雄の看病の為、休職したのである。というのは同『八十年史』には昭和三年~四年の在職期間が記されており、七雄氏の御子息の記憶によると、昭和一一年以後も勤めていたという。…(筆者略)…つまり、二葉保育園に七雄氏の死後再び戻っていたようである。
<『宮沢賢治「修羅」への旅』314p~より>
 そこで、この保育園と思われる『二葉保育園』をインターネットで探して電話をしてみた。そして、『貴園は『八十年史』をご出版なさっておられるということですがお譲り願えないでしょうか』とお願いした。ちゑがそこに確かに勤務していたということを確認したかったからだ。すると、それはございませんが『八十五年史』ならばございますということだったので、それをお譲りいただいた。
 その『二葉保育園八十五年史』(社会福祉法人 二葉保育園、昭和60年)を見てみると、同書所収の「同労者職員名簿」の8頁には
   同労者職員名簿
*二葉への参加年月及び退職年月は一部資料不足で間違いもあると思われますがご了承下さい。
    氏  名  在職期間
    伊藤ちゑ 〃13・9~15
          昭和3~4
とあった。つまり、ちゑはこの保育園に大正13年9月~15年及び昭和3年~4年の間勤めたいたことが確認できた。なお、この期間以外にも同園に勤務していたらしいが、取りあえずこの保育園に勤めていたことだけはこれではっきりした。また、今まではちゑの勤めていた保育園の名が『二葉』なのか『双葉』なのかさえも私は判らずにいたが、これでその確定もできた。
 そしてついこれまでは、ちゑは保育園の保母をしていた程度の認識しかなかった私であったが、まずは、この『二葉保育園』はとても素晴らしい理念の下に運営されている保育園であるということを知った。それは、『八十五年史』のみならず『光りほのかなれど―二葉保育園と徳永恕』(上笙一郎・山崎朋子著、教養文庫)によっても知ることができた。ここでは、後者を基にして同園のことを少し概観してみたい。
『二葉幼稚園』は、明治33年(1900年)に野口幽香と森島美根によって麹町区下六番町(現千代田区六番町)に家を借りて16名の園児を受け入れて創設されたという。そして明治39年には四谷鮫河橋(東京三大貧民窟の随一)に移転し、スラム街の子女の慈善保育活動に取り組んだ。(38p,121p等より)
 その創設者の一人野口がその頃の心境を
 森島さんと私は、麹町の近くに住んで、いつも二人で永田町にあった華族女学校の幼稚園に通ってをりました。その途中、麹町六丁目のところを通りますと、往来で子供が地面に字を書いたり、駄菓子を食べたりして遊んでいる姿を、よく見ました。幼稚園の帰りに、夕方そこを通っても、やはり、往来で遊んでゐます。一方では、蝶よ花よと大切に育てられてゐる貴族の子弟があるのに、一方では、かうして道端に棄てられてゐる子供があるかと思ふと、そのまま見過ごせないやうな気がしてきました。(38pより)
と述懐しているということだから、その創設理由がこのことからほぼ窺えるだろう。
 そして、創設者野口と森島の後継者となったのが、後に野口が「二葉を担ふ大黒柱」と呼ぶに至った徳永恕(ゆき)であったという。この徳永について、同書の著者は、
 世の常識が女性の幸福と見なしている結婚もせず、生活的な安楽も追わず、加えて栄誉にも恬淡として八十年人生を社会に捧げ尽くし、しかも『聖書』が「マタイ伝」第五章((ママ))において教えるとおり「右の手のしたることを左の手に知らせなかった」彼女を、心底より立派な女性であったと思う。(34pより)
と評している。またその後、同園には母子寮も併設され、
 恕のつくったこの二葉保育園の母の家は、近代日本における〈母子寮〉という社会福祉施設の嚆矢であった!(239pより)
という特筆すべき記述も見られる。
 ところが大正12年、あの関東大震災で同園の新宿旭町分園は焼失、鮫河橋の本園は倒壊と火災をまぬがれたものの大破損したというのにもかかわらず、
 二葉保育園は、その大破損の本園に「罹災者の収容約百名、一方谷町青年会を輔けて配給所の任に当た」り、「東京聯合婦人会の救援活動に加はり、調査、慰安、配給の事に当」り、「千駄ヶ谷東京府罹災者収容所附設託児所、新宿御苑バラック附設託児所、王子古河家臨時託児所の三カ所に保姆派遣」をしたほか、「十二年十一月、府より六十坪のバラックをうけ罹災者中の母の家と」したという。
 自分の保育園が壊滅状態であるというのに、それよりもなお惨憺たる有様の人たちの救護に全力を挙げるところがいかにも恕らしいのだが、こうしたことは決してこの折ばかりではなかった。(245p~より)
とのことである。徳永恕の面目躍如である。
 そしてこのような大変な状況下にあった『二葉保育園』に、大正13年9月から伊藤ちゑも勤め始めたということになる。ちなみに、ちゑは明治38年3月15日生まれだということだからこの時19歳。盛岡高等女学校を卒業(大正10年)してから3年後の同園への就職となろう。
 ではなぜ、豊かな家庭環境に育ったであろうちゑが関東大震災一年後の、しかも同震災で罹災してしまって園舎再建未だしの同園に敢えて就職したのだろうか。
 その時に思い出されるのが、ちゑの兄七雄の勇気ある次のような行動である。関東大震災後直後といえば、大杉栄を始めとする無政府主義者・社会主義者や罪もない朝鮮人への凄まじい虐殺や弾圧がなされたということだが、澤村修治氏によれば、
 関東大震災のとき朝鮮人騒動のデマが飛び、朝鮮人が民衆や官憲テロの対象になったことがある。このとき七雄は、自分が経営する長白寮に居住する朝鮮人二十数名を守り抜いたといわれる。社会主義者の面目躍如である。正義感がつよく、度胸も知恵もある好漢であった。
<『宮澤賢治と幻の恋人』(澤村修治著、河出書房新社)167p~より>
という。
 どうやら、伊藤七雄・ちゑ兄妹は互いに影響を及ぼし合いながら同じような考え方を持つようになっていて、共に、今現在困っている人たちのために己のことを顧みず手を差し伸べるという信念の持ち主であったようだ。
 これもまた『光りほのかなれど』によるのだが、同園の仕事はいわば<セツルメントハウス>のようなものであったということだし、野口も森島も徳永も皆クリスチャンだったということだから、おそらく同園はキリスト教の精神に基づいて運営されていたことが推測できる。ちなみに現在でも同園は、
 キリストの愛の精神に基づいて、健康な心とからだ、そしてゆたかな人間性を培って、一人ひとりがしっかりとした社会に自立していけることを目標としています。
<『社会福祉法人 二葉保育園 リーフレット』より>
とその理念を掲げているので、先の私の推測はそれ程間違ってもいなかろう。
 一方、萩原昌好氏によれば、『島之新聞』(昭和5年9月26日付)の記事の中に、
あはれな老人へ
毎月五円づつ恵む
若き女性――伊藤千枝子
とあって、島の老女に同情を寄せたチヱさん(当時二三歳)が、
(前略)大正十五年夏転地療養中の現在北の山在住の伊藤七雄氏の看病に来島した同氏の妹本所幼稚園保(ほ)母伊藤千枝子(本年二十三才)は隣のあばら家より毎夜開かるゝ藁打ちの音にいたく心を引かれ訪ねたところ誠に哀れな老婆なるを知り、測隠( (ママ))の心頻りにして滞在中実の母に対するが如く何彼と世話し、七雄氏全快とともに帰京し以後今日まで五六年の間忘るゝことなく毎月必ず五円の小為替を郵送して此の哀れな老婆に盡してゐるが誠に心持よい話である。
という記事が見える。
<『宮沢賢治「修羅」への旅』(萩原昌好著、朝文社)317p~より>
というのである。
 つまり、大正15年の夏、伊豆大島で療養中の兄七雄の看病のためにやって来たちゑは、同島に滞在していた間は隣の気の毒な老婆に何くれと世話を焼き、後に東京に戻って『二葉保育園』に復職していた期間もその老婆に毎月5円もの仕送りをし続けていたことがこれで判る。当時の『二葉保育園』の給与は薄給(推測だが、おそらく20円前後か?)であったことは間違いないようだから、自分の身を削ってまでして特別繋がりがあったわけでもない老婆に援助をし続けるちゑの献身振りは見事であると言えよう。ここにも、ちゑのセツルメント精神が見出せる。まさに、この老婆に対するちゑの姿勢は、「右の手のしたることを左の手に知らせるな」と言えよう。
 したがってこのことと、当時スラム街の保育にひたむきに取り組んでいた『二葉保育園』へ、しかも再建未だしの同園へちゑが自ら身を投じていったのであろうことに鑑みれば、当時の実質的な同園の園長であった徳永恕の徹底振りには及ばなかったかもしれないが、ちゑは社会の底辺に置かれた子どもたちに手を差し伸べてやって彼らの力になりたいと願いながら、セツルメント活動に勤しんでいたことはもはや疑いようがない。
 仄聞するところによると、ちゑは「新しい女」であったとも言われていたようだが、それはいわゆる「モダン・ガール」というような意味でのそれではなくて、それまでの一般的な女性とは違って、積極的に社会に貢献していこうとする女性だったという意味でのそれだったのではなかろうか。どうやら、ちゑは社会的な意識が高い女性であったであろうと今までも推測していたがそれだけではなく、貧しくて恵まれない子供たちのために献身的に実践活動をしていたという、ストイックで崇高な女性であったということに気付かされる。
 なお、過日(平成26年9月25日)、ちゑの生家の現当主に訊ねたところ、『ちゑはクリスチャンではなかったようです』ということだったから、
   ちゑ=クリスチャンの女性=聖女
という等式は成り立たないようだが、このようなちゑの生き方を知ってしまうと、まさに「聖女の如き人」だったと言えよう。
 翻ってみて、今までの賢治研究家はちゑが保育園に勤めていたことがあったということまでは言及していても、この『二葉保育園』がどのような保育園であったのかということについて詳しく、あるいは、同園の実践が如何に素晴らしいものであったのかということについて具体的に言及していた人は一人もいなかったのではなかろうか。しかしこうして同園のことを少し知っただけでも、ちゑ自身のこと、そしてちゑと賢治との間のことが、今までとは全く違った光景に見えてきて、私とすればその真相にまた一歩近づけたような気がしてくる。
◇ちゑの結婚拒否の真の理由
 さてそこで改めて振り返ってみると、ちゑの結婚拒否の真の理由が垣間見えてくる。
 先に引用したように、ちゑからの森宛書簡には、
 この決心はすでに大島でお別れ申し上げた時、あのお方のお帰りになる後ろ姿に向かつて、一人ひそかにお誓ひ申し上げた事(あの頃私の家ではあの方を私の結婚の対象として問題視してをりました)約丸一日大島の兄の家でご一緒いたしましたが、到底私如き凡人が御生涯の御相手をするにはあんまりあの人は巨き過ぎ、立派でゐらっしゃいました。
<『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)157pより>
と認められているから、ちゑは慇懃にではあるが、賢治との結婚は拒絶したと森に伝えていたことが容易に導かれる。それは、括弧書きの「(あの頃私の家ではあの方を私の結婚の対象として問題視してをりました)」が如実に語っている。なお以前にも述べたことだが、伊藤家側では賢治との結婚に反対だったということは、私自身も直接その一人から教わっている。
 これに関しては以前の私ならば、昭和3年6月の「伊豆大島行」の際に賢治の素振りを見たちゑは、花巻を訪ねての「見合い」は「ぬすみ見」が如き行為だったことに気付いて恥じ、良心の呵責に苛まれて賢治とは結婚をすべきではないとちゑは自分に誓ったという見方をしていて、例えば、
――あの人の白い足ばかりみていて、あと何もお話しませんでした。――
と森に伝えた一言は、まさにそのちゑのいじらしさの現れだと思っていたのだが、どうもそうとばかりも言えなさそうだ。
 なぜならば、一方は、「ぬすみ見」がごとき行為をしたことに対する良心の呵責がちゑに芽生えて自分は賢治にふさわしくないという論理だったはずだが、こちらの書簡の場合には賢治と結婚しないことの理由は賢治の側にあるという本音の論理を垣間見せているからである。そして、当時セツルメント活動に献身していたちゑの生き方を知ってしまった私からすればこの「本音」は至極当然であったと私には思える。
 それは当時の賢治のことを思い起こせばもっと見えてくる。昭和3年6月頃の賢治といえば、佐藤竜一氏も「逃避行」と見ている(『宮沢賢治の東京』(佐藤竜一著、日本地域社会研究所)166p)ように、何もかもが上手くゆかなくなってしまって羅須地人協会から逃避するのための上京であったと見ることができるから、自ずからその頃の賢治からは輝きが失せていたであろう。それに対してちゑは、このような『二葉保育園』に勤めてスラム保育に我が身を擲っていたが、兄七雄の看病のために一時休職、しかし兄は一時回復したのでまた復職して貧しい人たちのためにセツルメント活動を実践していた時である。あるいはまた、あの老婆に毎月「五円」を送金し続けていた時でもある。
 一方は当時己を見失っていた「高等遊民」の賢治、もう一方は聖女の如く『二葉保育園』でスラム保育に献身していたちゑ。そこにはあまりにも落差がありすぎた。切っ掛けはともあれ、一度は「見合い」をした相手の正体がほぼ見えてしまったちゑからすれば、賢治は自分の価値観とは正反対の人間であると見切ってしまったとしてもそれはやむを得なかろう。
 だからこそちゑは賢治との見合いについて、「私ヘ××コ詩人とお見合いしたのよ((註十二))」と冷たく突き放した一言を深沢紅子の前で漏らしたと解釈できる。社会的な意識が高くてしかもストイックな生き方をしていたと思われる当時のちゑからすれば、その頃は虚脱状態に近かったであろう賢治が魅力的に見えるはずもなかった、ということが理屈上は考えられる。
 おそらく、ちゑが賢治との結婚を拒絶した真の理由は、スラム街の子女のための保育にひたむきに取り組み、恵まれない人々のために献身する生き方にちゑは価値観を見出していたし、それを続けたかったからだ。私はそう理解できたし、納得もできた。それはちょうど、同じような想いで徳永恕が岩手県出身の及川鼎平との離婚を決めたのと同じように。
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 ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているという。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。
 おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
 一方で、私は自分の研究結果には多少自信がないわけでもない。それは、石井洋二郎氏が鳴らす、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という警鐘、つまり研究の基本を常に心掛けているつもりだからである。そしてまたそれは自恃ともなっている。
 そして実際、従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと言われそうな私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、なおさらにである。

【新刊案内】
 そのようなことも訴えたいと願って著したのが『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))

であり、その目次は下掲のとおりである。

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            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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