みちのくの山野草

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『典型』が読売文学賞に

2024-02-11 12:00:00 | 独居自炊の光太郎
〈『山口と高村光太郎先生』(浅沼政規著、(財)高村記念会))〉
 『山口と高村光太郎先生』にはこんな逸話も紹介されていた。

 昭和二十五年六月、先生の詩集『典型』が中央公論社刊から出版された。
 この詩集は、序文に書かれておりますように、昭和二十年十月十七日に山口においでになって以来、二十四年ころまでに書かれた「詩」がまとめられてあります。
 ローソクや石油ランプでの不自由な照明のもとで、詩作を続けておられる先生の姿が偲ばれます。そして、あの山間地での生活と感想が素直に述べられており、勿体ない思いがしております。
 先生は、『典型』が読売文学賞に選ばれ、賞金を受けられたのですが、その十万円をそっくり山口に寄付されたのです。五万円を山口部落に、三万円を山口青年会に、二万円を山口小学校に下さったのです。
 そこで山口部落にいただいたご寄付については、代表の駿河重次郎さんが部落の人々と協議した結果、先生がいつも渡っておられる瀬の沢川に土橋をつくることにしました。
 村役場をはじめ、どこに頼んでもやってもらえなかったことを、先生からいただいた寄付金を活かし、あとは地元の奉仕作業ではじめたのです。
 山口橋の南たもとから、小川に太いコンクリート土管を何本か据えて、新しく土橋を作り、そこから道を通し、歩けるようにしました。この土橋と道路を先生が通られるようになり、また農家の作場道ともなって、人も馬も安心して通れるようになりました。
             〈『山口と高村光太郎先生』(浅沼政規著、高村記念会)13p~〉

 光太郎の日記を読んできて感じたことの一つが、太田村山口で独居自炊をしていた時代の光太郎は金銭的には逼迫してないかったし、逆に余裕があったようだということだ。また一方で、当時の光太郎は太田村の高額所得者だったということも仄聞した。そこで、この寄付はこれらのことを傍証していると直感した。
 ところで、勝治が「先生の姿が偲ばれます。そして、あの山間地での生活と感想が素直に述べられており」と言っている肝心の詩集『典型』についてだが、まずは、そのものズバリのタイトルの詩「典型」は、
   典型
今日も愚直な雪がふり
小屋はつんぼのやうに黙りこむ。
小屋にゐるのは一つの典型、
一つの愚劣の典型だ。
三代を貫く特殊国の
特殊の倫理に鍛へられて、
内に反逆の鷲の翼を抱きながら
いたましい強引の爪をといで
みづから風切の自力をへし折り、
六十年の鉄の網に蓋はれて、
端坐粛服、
まことをつくして唯一つの倫理に生きた
降りやまぬ雪のやうに愚直な生きもの。
今放たれて翼を伸ばし、
かなしいおのれの真実を見て、
三列の羽さへ失ひ、
眼に暗緑の盲点をちらつかせ、
四方の壁の崩れた廃城に
それでも静かに息をして
ただ前方の広漠に向ふといふ
さういふ一つの愚劣の典型。
典型を容れる山の小屋、
小屋を埋める愚直な雪、
雪は降らねばならぬやうに降り
一切をかぶせて降りに降る。
           〈『日本現代文学全集40 高村光太郎・宮澤賢治』(講談社)87p〉
というものであった。「愚直」とか「愚劣」という表現を多用して己をとことん自省し、苛んでいる、しかもそれは「典型」とまで言い切っている光太郎が痛々しい。が同時にほっとする。山口での独居自炊生活はやはり、基本的には「自己流謫」であったのだと。

 また、詩集『典型』にはこんな詩「ブランデンブルグ」も所収されていたので、「ブランデンブルグ協奏曲」を聴きながら何度か読み返してみて、やはりこれでいいのだ、とも思った。
   「ブランデンブルグ」 
岩手の山山に秋の日がくれかかる。
完全無缺な天上的な
うらうらとした一八〇度の黄道に
底の知れない時間の累積。
純粹無雜な太陽が
バッハのやうに展開した
今日十月三十一日をおれは見た。

「ブランデンブルグ」の底鳴りする
岩手の山におれは棲む。
山口山は雜木山。
雜木が一度にもみじして
金茶白緑雌黄の黄、
夜明けの霜から夕もや靑く澱で、
おれは三間四方の小屋にゐて
伐木丁丁の音をきく。
山の水を井戸に汲み、
屋根に落ちる栗を燒いて
朝は一ぱいの茶をたてる。
三畝のはたけに草は生えても
大根はいびきをかいて育ち、
葱白菜に日はけむり、
權現南蠻の實が赤い。
啄木は柱をたたき
山兎はくりやをのぞく。
けつきよく黄大癡が南山の草蘆、
王魔詰が詩中の天地だ。

秋の日ざしは隅まで明るく、
あのフウグのやうに時間は追ひかけ
時々うしろへ小もどりして
又無限のくりかえしを無邪気にやる。
バッハの無意味、
平均率の絶對形式。
高くちかく淸く親しく、
無量のあふれ流れるもの、
あたたかく時にをかしく、
山口山の林間に鳴り、
北上平野の展望にとどろき、
現世の次元を突變させる。

おれは自己流謫のこの山に根を張つて
おれの錬金術を究尽する。
おれは半文明の都會と手を切つて
この辺陬を太極とする。
おれは近代精神の網の目から
あの天上の音に聴かう。
おれは白髪童子となつて
日本本州の東北隅
北緯三九度東経一四一度の地點から
電離層の高みづたひに
響きあうものと響きあう。

バッハは面倒くさい岐道を持たず、
なんでも食つて丈夫ででかく、
今日の秋の日のやうなまんまんたる
天然力の理法にに應へて
あの「ブランデンブルグ」をぞくぞく書いた。
バッハの蒼の立ち込める岩手の山山がとつぷりくれた。
おれはこれから稗飯だ。
           〈『日本現代文学全集40 高村光太郎・宮澤賢治』(講談社)82p~〉
 それはここでも光太郎は、「おれは自己流謫のこの山に根を張つて」とはっきり詠んでいたからだ。山口での独居自炊生活はやはり「自己流謫」だったのだと。

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 この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』

を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。
 延いては、
 小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、
『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。

 しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
 まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
 きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。
 すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。

 そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。

 そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。

 そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。

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