みちのくの山野草

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「テジマア」様並びに「とおりすがり」様へ

2024-07-24 12:00:00 | 菲才でも賢治研究は出来る
《コマクサ》(2021年6月25日撮影、岩手)

 これは、2013-10-26に拙ブログ上で、〝「一本足」論争(ひとまず最終回)〟と題して投稿したもとほぼ同じ内容のものである。

 では今回は、以前に行った予告、
   『それでは二三日中に、本ブログ上で「H氏からの3つの問いについて」の私の考え方をお答えいたします』
の通り、以下に、「H氏からの3つの問いについて」の私鈴木 守の考え方をお答えいたします。

 まずは、これらの「3つの問い」は、「現定説❎」を覆すH氏の画期的な「新説」
 宮澤賢治が上京したのは大正15年11月のびしょびしょ霙の降る寒い日である。
が事実であったということを大前提にした質問です。
 さりながら、この「新説」が現定説を打ち破ることはほぼ不可能でしょう。なぜならばその反例となるいくつかの資料と証言があるから、実はそもそも始めから仮説とさえもなりにくい説です。つまり、もともとこれはかなり「無理スジ」の「新説」なので、それが歴史的事実であったということは殆ど限りなくゼロに近いです。
 しかも、H氏はあくまで『大正15年11月に賢治は上京した』と主張してはおりますが、その検証作業は未だ行っておりません。いや、もっと正確に言うと、その作業を放棄しています。したがって、この「新説」は検証されてそれに耐えたという代物ではなく、現段階では『大正15年11月に賢治は上京した』は単なる仮想にしかすぎません。それが事実であるなどということ到底言えず、残念ながら現段階ではその主張は単なる仮想にしか過ぎませんから、それが大前提となる「3つの問い」には、「問い」としての資格がないわけです。
 言い換えれば、このH氏の「3つの問い」が「問い」として成り立つためにはH氏が『大正15年11月に賢治は上京した』という仮説の検証作業を行い、それが検証に耐えたということを示さねばなりません。当然、それがなされいない段階ではこの質問には答えようがないということです(単なる四方山話ならば別ですが、今回はあくまでも互いの論争ですので、大前提の保証がないそのような大前提に基づいた「問い」、不完全な「問い」には答えられないです。現段階ではそれらの「問い」は「問い」の体をなしていません)。
 ちろん、この「新説」が検証に耐え得た(そんなことは、私に言わせれば99.9999%ないと判断できていますが)ならばそれはとても素晴らしいことですし、もちろんその「新説」すなわち大前提はほぼ事実だということになりますから、晴れてその段階でこれらの「問い」は初めて「問い」としての資格を得ることができます。またその場合に私は真っ先に件の「3つの問い」にお答えしなければなりません。そしてその場合には、私はかなり分が悪くなるかもしれません。

 というわけで、私の結論をここで申し述べますと、H氏が
 宮澤賢治が上京したのは大正15年11月のびしょびしょ霙の降る寒い日である。
という主旨のことを言い出したことに今回のことは端を発していますので、まずはその検証作業をH氏が完了なされることで全てが解決出来ますし、今までの経緯に鑑みればそれはH氏の責任と義務、賢治研究者としての仁義だと思います。

 それがなされるまではひとまずこのシリーズは休止し、とりあえず今回をもって最終回とします。つきましては、「テジマア」様と「とおりすがり」様のお二方はおそらくH氏のお友達と思われますから、お二方からもどうぞH氏に、
 可及的速やかに《大正15年11月に賢治は上京した》ということの検証作業を完了し、それが検証に耐えられたということを示してやれよ。そうすれば件の「3つの問い」に答えるということだから、簡単に鈴木を論破できるぞ。
と、そう仰って下さい。 
 それから、論争相手の間もなく67歳(当時、ちなみに令和6年で78歳)にならんとしている老いぼれが伝えてもH氏は聞く耳を持たないでしょうから、お二方からは友人としての立場で、
 お前がこの検証をしないでこのまま放っておくと、『Hは勢いで思いつきをかたってしまったが、そのことが検証に耐えられなことに気付いて引っ込みがつかなくなり、頬被りしているぞ』と周りから言い募られるおそれがあるぞ。一刻も早く件の検証作業を行い、それを明らかにした方がいいぞ。
と知らせてやってください。
 そうすれば、H氏は速やかに検証作業に取り組むことにもなることでしょうし、私もそれに伴ってそれらの「問い」に対する回答を間髪入れずにいたしますので。
(完)
 それにつけても、石井洋二郎氏が、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
と警鐘を鳴らしてるのに、どうしてH氏はこの場合の一次情報である、
   昭和23年刊『續 宮澤賢治素描』
を重視せずに、二次情報も言える、
   「宮澤賢治物語(49)」(昭和31年2月22日)
を重視しているのか不思議ですね。

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 ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているという。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。
 おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
 一方で、私は自分の研究結果には多少自信がないわけでもない。それは、石井洋二郎氏が鳴らす、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という警鐘、つまり研究の基本を常に心掛けているつもりだからである。そしてまたそれは自恃ともなっている。
 そして実際、従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと言われそうな私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、なおさらにである。

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 そのようなことも訴えたいと願って著したのが『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))

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            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813

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