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《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》

2024-01-19 08:00:00 | 賢治渉猟
《松田甚次郎署名入り『春と修羅』 (石川 博久氏 所蔵、撮影)》






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********************************** なお、以下は今回投稿分のテキスト形式版である。**************************
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
 さてここまでの検証等により、賢治が昭和3年8月に実家に戻ったのは病気が重くなったためだったというよりは、10月に行われる「陸軍大演習」を前にして吹き荒れたすさまじい「アカ狩り」に対処して「自宅謹慎」したためだったということの方の信憑性がかなり高いことを実証できた。しかも、このような説を公にした人は今まで全くいなかったはずだ。
 しかし、平成の時代になってからでもこのような合理的な推論ができるくらいだから、実は宮澤賢治研究家はかなり早い時点からこのことに気付き、この類の説を精緻に論考することが当然できていたはずだ。「演習」とは実は何のことを指し、なぜ昭和3年に実家に戻ったのが「8月」だったのかをたちどころに解明できていたはずだ。ところが、私の管見故か、そのようなことが今までに公的に論じらたことは一切なさそうだ。そこで単純な私は生意気にも、まさしくこの実態こそがその類のことに公に触れることはタブーだったということを実は示唆している可能性があるなどと大それたことまで考えてしまう。
 一方、今の時代ではとても信じられないことだが、当時「社会主義者」は火付けや泥棒の類に思われていた(石川準十郎、『岩手日報』(S44・8・21))時代だったという。ということであれば、もし「宮澤マキ」の「宮政」の御曹司賢治が「アカ」だと周りから見られていたと仮にすれば、隠然たる力があった「宮澤マキ」に対して、周りの人達は当然遠慮してそのようなことに関して公的には口をつぐんできたであろう。
 そしてまた、かつての「賢治年譜」の昭和3年8月に「賢治は風雨の中を徹宵東奔西走したために風邪をひき、実家に帰って病臥した」と、事実と違った記載がされていても周りの人たちは誰も異論を差し挟まなかっただろうし、挟めなかったであろうということは理屈としては成り立ち得ることであるし、それ故この「賢治年譜」が「通説」になってしまったということもまた十分にあり得る。一方で、それを意識したか否かはさておき、賢治を戦意高揚に利用したかった人達にとってはこの「通説」は好ましいものであったであろう。
 しかしながら、仮説〝○*〟を立ててここまで検証してみたところ、賢治自身がそれを裏付けてくれていたりしている一方で、今のところその反例は一つも見つからない。したがって今後その反例が見つからない限りは、「通説」とは異なってはいるものの、実は〝○*〟がその真相だったとしてよいことがこれでわかった。
 なお、その演習が終わった後に再び賢治は「下根子桜」に戻ったか否かについてだが、『新校本年譜』によれば、昭和3年のこととして
一〇月二四日(水) 菊池武雄あて(書簡244)の中身なしの封筒の裏書きに「稗貫郡下根子」とあるので、このあたり一時協会へもどったようである。が、再び実家で臥床したことは高橋慶吾あて書簡(書簡245)で見られる。
一〇月三〇日(火) 佐藤二岳あて葉書(244a)。二岳作の俳句に対して、賢治が付句を試みたもの。
一二月二一日(金)〔推定〕高橋慶吾あて返書(245)。この頃もまた三八度の熱で臥床中であった。
<『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)・年譜編』(筑摩書房)>
となっているので、どうやら確定はしていないようだ。
 ちなみに『新校本全集第十五巻書簡本文篇』によれば、菊池武雄宛書簡については、
244〔十月二十四日〕菊池武雄あて 封書〔用箋ナシ〕
《表》東京市四谷区 四谷第六小学校内 菊池武雄様
《裏》稗貫郡下根子 宮澤賢治〔封印〕〆
となっているから、賢治はこの時点では「下根子桜」に戻ったとも考えられるが、如何せん中身がないというから、「このあたり一時協会へもどったようである」という推定にならざるを得ないということは尤もなことだ。
 もちろん、書簡(244)の中身が見つかれば「このあたり一時協会へもどった」か否かの確定ができるかもしれないが、それがなぜないのかを私があれこれ穿鑿しても詮方ない。そこで私は、下根子桜の「桜地人館」へ出かけて行った。なぜならば、同館では先の佐藤二岳(隆房)宛葉書(244a)の現物を展示しているからである。その葉書の宛名の面を見れば賢治がどこからその葉書を出したかが判るので、その場所が下根子桜であったならば、「このあたり一時協会へもどった」とほぼ確定できると思ったからだ。そして、同館の館員の方にその葉書の宛名の面を見せていただけないでしょうかとお願いをした。すると後日、残念なことにこの葉書は台に貼り付けてあるので宛名の面は見ることができないという返事をいただいた(しかも、宛名の面の記録もないとのことだった)。
 次に高橋慶吾宛書簡についてだが、同巻によれば、
245〔十二月二十一日〕高橋慶吾あて 封書
 《表》向小路 田中様方 高橋慶吾様
 《裏》豊沢町 宮沢商会内ニテ 宮沢賢治(封印)〆
拝復
貴簡難有拝誦仕候
貴下献身の高義甚感佩の至に有之何卒御志の達成せられんことを奉祈候
小生名儀の儀は御承知通り当分の小生には農業生産の増殖と甚分外乍ら新なる時代の芸術の方向の探索に全力を挙げ居り右二兎を追て果して一兎を得べきや覚束なき次第この上の杜会事業の能力は当分の小生には全く無之右不悪御諒置奉願候             敬 具
                    宮沢賢治
  高橋慶吾様
      私信
追テ皆様ニハ宜敷御鶴声奉願候
 この頃又もや三十八に逆戻り致し床中乱筆御免被成下度候
<『新校本宮澤賢治全集第十五巻書簡本文篇』(筑摩書房)>
ということだから、同年12月には再び実家にて発熱で病臥していたということはそのとおりだろう。しかし、「演習が終るころはまた根子へ戻って今度は主に書く方へかゝります」と愛弟子の澤里武治に伝えた賢治ではあったが、残念なことにその後、賢治が再び羅須地人協会に戻ることはなかったということは周知のとおりである。
 結局、現時点では賢治がその後一度「下根子桜」に戻ったか否かは確定できない。さりながら、そのことは定かでないにしても、昭和3年の8月~12月の間に「羅須地人協会時代」がその終末を迎えたということは動かしがたい。どうやら、以上が「羅須地人協会時代」終焉の真相であったということになりそうだ。
 さて、賢治が歿してからもう80年以上も過ぎてしまったし、今や賢治の多くの作品が素晴らしいものだということは何人も認めてくれる時代となった。だから今度は、そろそろ創られ過ぎた賢治を本来の賢治の姿に少しずつ戻さねばならない時代がやってきているということなのではなかろうか。
 たしかに賢治はずば抜けた天才であることには間違いない。が、賢治の言動は凡人には理解しがたい点も少なからずあるということもまた事実である。さりながら、もしかするとそれ故にこそ、それまでもそしてこれからも誰にも詠めないような、私の大好きな心揺さぶる「原体剣舞連」等を含む心象スケッチ『春と修羅』等を残したり、あるいは「第四次」感覚を持つ賢治でなければ書けないような「やまなし」や「おきなぐさ」等の素敵な童話を創作してくれたりした作家だった、ということで一向に構わないのではなかろうか。
 どうも、今までの賢治像はあまりにも聖人・君子すぎて私のような凡人には近づきにくいというのも事実だ。ところが、「羅須地人協会時代」の賢治を調べてみたならば、案外普通の人間と同じようなところも少なからずあったし、あるいはそれこそ「ひとりの修羅なのだ」とも言えそうだし、当時の賢治の生き方はまさに「不羈奔放」であったとも言える。
 そしてそもそも、創られすぎた賢治像を他でもない賢治自身が一番苦々しく思っていると思う。ひたすら求道的な生き方を求めたはずの賢治にとって何が一番かけがいのないものかというと、それは「ひたむきに真理を求め続ける姿勢」だったと私は思うからだ。だから、賢治自身は聖人や君子になるなどということは微塵も考えていないかったはずだ。そして私たちも、賢治が聖人や君子になろうとしていたことなど全くないということは誰でも知っているはずだ。
 だから、もうそろそろ《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》移行してもよい時機なのではなかろうか。
******************************************************* 以上 *********************************************************
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《新刊案内》
 この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』

を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。
 延いては、
 小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、
『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。

 しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
 まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
 きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。
 すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。

 そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。

 そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。

 そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。

 現在、岩手県内の書店で販売されております。
 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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