みちのくの山野草

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国柱会の信行員になったばかりの頃の賢治

2020-02-08 16:00:00 | 法華経と賢治
《『日蓮主義とはなんだったのか』(大谷栄一著、講談社)の表紙》

 さて、ではここからは新たな節「1 更に国土を明るき世界にし……」の「今や私は」に入る。
 そしてその出だしは、前回も一部引いたが、保阪嘉内宛書簡の中の、
 今度私は
 国柱会信行部に入会致しました。即ち最早私の身命は
 日蓮聖人の御物です。従って今や私は
 田中智学先生の御命令の中に丈あるのです。 謹んで此事を御知らせ致し 恭しくあなたの御帰正を祈り奉ります(書簡一七七)。
              〈『日蓮主義とはなんだったのか』(大谷栄一著、講談社)304p〉
で始まっていた。つまり、ここからは賢治と日蓮主義に関しての論考となるのだろう。
 そして、大谷氏は引き続いて、
 賢治は、この年(大正九年)の十月に国柱会の員として入会した。奇しくも石原と賢治は同じ年に国柱会の信行員となった。
ということも指摘していた。なお、これは前回既に確認していることであり、その時に私は、 
 共に大正9年に国柱会の信行員になった賢治と莞爾がダブって見えた。そして、二人とも、法華経あるいは日蓮宗に心酔していたというよりは、智学に心酔していたのではなかろうかと私には思えてしまったのだった。
と私見を述べたが、それは大谷氏もそう感じていたのであろう。なぜならば、大谷氏は保阪嘉内宛書簡内の一部を引いて次のように、
 賢治はこの手紙のなかで「田中先生に 妙法がはっきり働いているのを私は信じ私は仰ぎ私は嘆じ いまや日蓮聖人に従い奉る様に田中先生に服従します。御命令さえあれば私はシベリアの凍原にも支那の内地にも参ります」と、智学への熱烈な思いを吐露し、保阪に入会を勧めている。このとき、賢治は熱心な日蓮主義者だった。
              〈『日蓮主義とはなんだったのか』(大谷栄一著、講談社)305p〉
と断じていたからだ。しかも熱心というよりは、「御命令さえあれば私はシベリアの凍原にも支那の内地にも参ります」という一言などからは、この時期の賢治は精神的にかなり昂揚していて、私にはファナティックであったのではなかろうかとさえも写ってしまう。

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