みちのくの山野草

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それは当時の日本社会の流行思想だった

2020-02-07 14:00:00 | 法華経と賢治
《『日蓮主義とはなんだったのか』(大谷栄一著、講談社)の表紙》

 さて、ではそろそろ「1 国体と予言」については、今回で終えたい。最後にこうあった。
 智学に対する当時の石原の思いは熱烈で、「田中先生ノ如キハ誠ニ私共ヲ救ヒ下サル大切ノ師匠」であり、「先生ハ大聖人以来ノ第一人者」だと確信していた(七月二十二日)。石原にとって智学は「大聖人ノ命ヲ奉ジ、国体観ヲ完成スベク顕レタ」存在だった(十一月二十八日)。
 以上から、大正九年(一九二〇)が石原の日蓮主義の信仰を深め、予言と国体を核とする独自の日蓮主義信仰の基礎を築いた年であったことがわかるだろう。
              〈『日蓮主義とはなんだったのか』(大谷栄一著、講談社)303p~〉
 そこで私は、「石原の田中智学に対する思いが熱烈で」という意味の大谷氏の記述を知って、賢治が保阪嘉内宛書簡<*1>の中で、
 今度私は
  国柱会信行部に入会致しました。即ち最早私の身命は
  日蓮聖人の御物です。従って今や私は
  田中智学先生の御命令の中に丈あるのです。
と言ったということを思い出し、共に大正9年に国柱会の信行員になった賢治と莞爾がダブって見えた。そして、二人とも、法華経あるいは日蓮宗に心酔していたというよりは、智学に心酔していたのではなかろうかと私には思えてしまったのだった。
 そしてまた、大谷氏が言うように、
 日蓮主義は明治末から大正期にかけて日本社会の流行思想となる。その影響は宗教者や軍人、右翼活動家にとどまらず、宮沢賢治らの文学者、竹内久一や山本鼎、藤巻義夫、姉崎正治や上原專祿らの知識人、伊勢丹創業者の小菅丹治のような実業家ほか、学生・婦人・新旧中間層の幅広い社会層におよんだ。特に昭和初期以降…投稿者略…日蓮主義に影響を受けた人びとが左右の社会運動、政治活動に取り組み、社会的・政治的にも注目されるようになる。
              〈『日蓮主義とはなんだったのか』(大谷栄一著、講談社)14p~〉
ということであり、ここに名前は出てきていないが、ちろん高山樗牛もその一人であったと大谷氏はこの前に論じている。

 畢竟するに、賢治や石原莞爾そして妹尾義郎等だけがそうなったというわけではなく、時代がそうだったのだということになりそうだ。

<*1:投稿者註> 1920年12月2日 保阪嘉内あて書簡 177(抜粋)
満一ヶ年芽出度く兵役をお勤めなされ最早御帰郷の次第とも存じますがいかゞでございますか。御動静承りたう存じます。
 今度私は
  国柱会信行部に入会致しました。即ち最早私の身命は
  日蓮聖人の御物です。従って今や私は
  田中智学先生の御命令の中に丈あるのです。 謹んで此事を御知らせ致し 恭しくあなたの御帰正を祈り奉ります。
あまり突然で一寸びっくりなさったでせう。私は 田中先生の御演説はあなたの何分の一も聞いてゐません。唯二十五分丈昨年聞きました。お訪ねした事も手紙を差し上げた事もありません。今度も本部事務所へ願ひ出て直ぐ許された迄であなたにはあまりあっけなく見えるかも知れません。然し
  日蓮聖人は妙法蓮華経の法体であらせられ
  田中先生は少なくとも四十年来日蓮聖人と 心の上でお離れになった事がないのです。
これは決して間違ひありません。即ち
  田中先生に 妙法が実にはっきり働いてゐるのを私は感じ私は信じ私は仰ぎ私は嘆じ 今や日蓮聖人に従ひ奉る様に田中先生に絶対に服従致します。御命令さへあれば私はシベリアの凍原にも支那の内地にも参ります。乃至東京で国柱会館の下足番をも致します。それで一生をも終ります。
             <『新校本宮澤賢治全集第十五巻 書簡 本文篇』(筑摩書房)>

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