みちのくの山野草

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七、悔恨の澱

2018-03-06 10:00:00 | 法華経と賢治
《『大凡の日々-妹尾義郎と宗教弾圧』(理崎 啓著、哲山堂)の表紙》

では、最後の「七、悔恨の澱」についてだが、詳細は『大凡の日々-妹尾義郎と宗教弾圧』をご覧になって頂くこととし、ここでは、この章において述べられている事柄をリストアップさせてもらう。
   昭和21年 松本市社会教育課嘱託となる。
   昭和24年 社会党入党。
   昭和25年 参院選、衆院選に立候補を要請されるが、辞退。
   昭和26年 日本平和推進国民会議全国大会に出席、事務局長就任。
   昭和27年 日朝友好協会理事長に就任。  
   昭和28年 結核で療養生活に入る。  
   昭和30年 妹尾義郎後援会結成。砂川基地闘争参加。  
   昭和31年 松本市の国立療養所に入院する。  
   昭和34年 日本共産党入党。


 そして理崎氏は、昭和36年
 7月25日、長い長い期間、営々と書きつづけられてきた日記が、ついに途切れた。その十日後、8月4日、妹尾死去、享年七十二歳であった。一見坦々とした長い人生であったが、反面恐ろしく波乱に富んだ生涯の旅路を終えたのである。 (完)
            〈197p〉
と締め括って、『大凡の日々-妹尾義郎と宗教弾圧』を書き終えていた。

 お陰様で、『大凡の日々-妹尾義郎と宗教弾圧』を通読したことにより、今までは端から法華経というものを遠ざけていた私だが、少なくともそのような抵抗感はなくなった。そして、この妹尾義郎なる人物の生き方を知り、しかも彼は「日蓮主義の社会主義者」であったということで、賢治の生き方と似ているところが結構あったので、今までよりも賢治の理解が私なりには深めることができたつもりだ。

 そして最初の私の疑問
 私はここ10年間ほどの検証作業を通じて、賢治は社会主義者や共産主義者でなかったとしても、結構それに近い考えや行動をしていたと思っている。それに対して、一般には賢治は法華経を信仰していたからそのような主義者ではなかった、という論理が適用されているかなとも思っていた。
については、理崎氏の著書『大凡の日々-妹尾義郎と宗教弾圧』(哲山堂)を読んで、妹尾の生きざまを知り、そのような論理が賢治の場合に当てはまることはないのだということを確信できた。

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 なお、ブログ『みちのくの山野草』にかつて投稿した
   ・「聖女の如き高瀬露」
   ・『「羅須地人協会時代」検証―常識でこそ見えてくる―』
   ・『「羅須地人協会時代」再検証-「賢治研究」の更なる発展のために-』
等もその際の資料となり得ると思います。
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