《『大凡の日々-妹尾義郎と宗教弾圧』(理崎 啓著、哲山堂)の表紙》
では、ここでは新しい章「六、煉獄、焦土」についてである。
さて、昭和14年8月29日に判決、妹尾は懲役五年の言い渡しを受け、控訴していた訳だが、その後については、巻末の妹尾年譜によれば、
昭和15年 判決、懲役三年。下獄。
昭和17年 重症になって仮出所。
昭和18年 東洋乾電池に就職。
そして、
昭和20年8月9日についに長野県安曇野に疎開した。
という。そして当日の妹尾の日記には、理崎氏によれば、
〈この敗戦こそ敗北すべくして敗北したものだ。名分は初めからなかった。…(投稿者略)…至福は災難の姿をして迫るというが、今後の日本はもとより苦難の険道を歩まざるをえないが、これでこそ真の日本の誕生になるのだ〉
〈181p〉ということなどがしたためられているという。
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なお、ブログ『みちのくの山野草』にかつて投稿した
・「聖女の如き高瀬露」
・『「羅須地人協会時代」検証―常識でこそ見えてくる―』
・『「羅須地人協会時代」再検証-「賢治研究」の更なる発展のために-』
等もその際の資料となり得ると思います。
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等もその際の資料となり得ると思います。
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