みちのくの山野草

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吉田コトの『月夜の蓄音機』

2019-02-20 14:00:00 | 甚次郎と賢治
《『土に叫ぶ人 松田甚次郎 ~宮沢賢治を生きる~』花巻公演(平成31年1月27日)リーフレット》

 さて、『土に叫ぶ』は「当時としては驚異的なベストセラーになった」ということだから、さぞかし甚次郎には印税が入ったことだろうと、私はつい下世話なことを考えてしまったのだが、そうではなかった。甚次郎はお金には淡白で、お金など二の次であったようだ。

 というのは、驚異的なベストセラーになってはみたものの甚次郎はそんなに儲からなかったと、吉田コトが『月夜の蓄音機』(吉田コト著、荒蝦夷)で次のようなことを言っているからだ。
 甚次郎は羽田書店に、初めて書くのだからそんなに売れないだろから羽田書店が損しなければいいというようなことを言ったらしく、印税は殆ど貰わなかったようだ。ところがその本が売れに売れたものだから羽田書店は気が引けたらしく何かプレゼントしたいと申し出た。そこで甚次郎、コト、しまの3人が思いついたのが蓄音機だったという。そして、その際に贈られてきた蓄音機とレコードを携えてある月夜の晩に山形市のとある川原に行って3人でじっくりレコードを聴いたのだそうだ。なお、その他には甚次郎は羽田書店からは何も貰っていないらしい(甚次郎は「ありゃー、もう少し金、もらえばいかった」なんて言ったとコトは語っているものの)。

 そこで、実際に『土に叫ぶ』の奥付を見てみると次のとおり。
【Fig.1 『土に叫ぶ』の奥付】

ちなみに、『續 土に叫ぶ』の奥付はこのようになっている。
【Fig.2 『續 土に叫ぶ』の奥付】

つまり、『土に叫ぶ』の印鑑は「羽田」、『續 土に叫ぶ』の印紙の方は「松田」の印鑑になっている。したがって、『土に叫ぶ』が驚異のベストセラーになったものの、松田甚次郎の懐には、たしかに印税は一銭も入らなかったであろう。その印税は全て羽田書店に入ったことになるからだ。

 ついでに、前掲の『月夜の蓄音機』によって、『土に叫ぶ』出版に関わるエピソード等を次に紹介する。
 昭和13年の春に羽田書店主から鵜飼村における10年間の生活実践記録を書いて欲しいと頼まれて引き受けた甚次郎ではあったが、その原稿を書いていた頃の彼は体調を崩しており、そのような状態の甚次郎を見かねて手伝ってやったのが吉田(桜井)コトと佐藤しまという二人の女性なのだそうだ。
 そして、甚次郎との出会いについてコトは次のように語っている。
 私は前にもまして「人はなぜ生きるか」なんてことを考えるようになっていた。人生とは何か。いかに生きるべきか。道を知りたかった。もし、教えてくれる人がいたなら青森でも九州でもどこにでも会いに行く。そう考えていたの。講演会なんかにもずいぶん足を運んだ。
       …(投稿者略)…
 そんなとき、松田甚次郎さんが『家の光』って雑誌に篤農家として紹介されたのを見たのよ。「松田甚次郎は宮澤賢治の「小作人たれ、農村演劇をやれ」という教えを守り、地主の息子でありながら、父親から田畑を借りて小作人として生活していて、村の青年を率いて「最上共働村塾」を開いている」とか、書いてあった。私は、この人ならきっと力になってくれる、と思ったの。
 早速、私は甚次郎さんに手紙を書いたの。封筒の表書きには「お願い状」ってしたためて。それが甚次郎さんと出合うきっかけだ。さっそく、新庄市にあった最上共働村塾を訪ねて、私と兄と、私の親友の佐藤しまちゃんと三人で甚次郎さんと子弟の誓いを交わしたの。昭和一二(一九三七)年の秋のことだ。まだ雪が降る前だったな。
             <『月夜の蓄音機』(吉田コト著、聞き書き滝沢真喜子、荒蝦夷発行)より>
 昭和12年の秋といえば、甚次郎の実家の都合などにより最上共働村塾を閉鎖する前後のことだ。この辺りのいきさつについては少なくとも甚次郎の『土に叫ぶ』には詳しく書かれていなかったので、たまたま手にとって読んだ『月夜の蓄音機』でこのことを知って、コトも甚次郎も全く純粋で一途な人間同志だったのでさぞかし共鳴したのだろうと思えた。
 その当時吉田コトと佐藤しまは学生だったが、甚次郎との出会い後は勉強そっちのけでなにくれと最上共働村塾の手伝いをするようになったと吉田コト自身が言っている。例えば、『土に叫ぶ』の執筆に関しては次のように語っている。
 ちょうど衆議院で小作の権利を認める農地調整法案が議論されていて、山形でも関心を集めていたころだ。甚次郎さんは代議士の羽田武嗣郎さんと親しかったのね。新聞で農地調整法案の記事を読んでは「羽田さんのところに行ってくる」なんて東京に飛んでいった。
 ある日、東京から帰ってきた甚次郎さんが「羽田さんから宿題押しつけられたー」て言うのよ。羽田さんは羽田書店という出版社も経営していた。「最上共働村塾を始めてからの一〇年の歩みを書いて欲しい」って頼まれたんだって。ところが甚次郎さんってば「俺は百姓ばかりしてたから漢字も文法も忘れた、しまちゃんとコトちゃん、手伝ってけねがー」なんて言うのよ。本を書く手伝いなんて、うれしいじゃないの。二つ返事で引き受けたわよ。
 甚次郎さんはそのころ、小白川にある眼下にある眼科に通っていた。ひどい目の病気で、片方の視力が随分と弱くなっていたの。眼科のそばにしまちゃんの家の貸し家がいっぱいあったの。甚次郎さんの原稿を書くために、その一軒を借りたわけ。私としまちゃんは学校から帰ると、原稿を書くお手伝いに通ったのよ。なあに、手伝いたって私は鉛筆削り係だ。しまちゃんは一人娘でしょう。女中さんが夕飯だのなんだの届けてくれるんだ。それもちゃんと三人前。食事つきなわけよ。自分の家より、よっぽどおいしいものが食べられるし、原稿を書く手伝いはできるし、大よろこびで通ったっけの。こうして『土に叫ぶ』の執筆が始まったの。
             <同>

 ところで、この甚次郎の本のタイトルはなぜ『土に叫ぶ』なのだろうか。私が一読した限りにおいてはその理由が掴めないでいた。この本の中に題名が『土に叫ぶ』となったであろうことを直接的に窺わせる部分はせいぜい、『土に叫ぶ』の序の中の次のような部分、
 私は十九歳の春から今日まで、土に親しみ、土に愛されながら、一つの目標に向かって強い声なき叫びを続けて、正直に一生懸命働いて来た。そして多くの理解ある援助者のお蔭で、一人でも多くの人に涙を流し、血を注ぐことが出来た。或は失敗したと笑われたり、一蹴されたりして来たが、私の土の中からの叫び、信念はいつも彌増して今日に至って居る。
             <『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)>
における「私は土の中からの叫び」しか見つけられなかったからだ。
 ところが、実はこの本の題名決定の際のエピソードも『月夜の蓄音機』には書かれていて、
 題名の『土に叫ぶ』も三人で考えたんですよ。『土に叫ぶ』と『土に生きる』と、なんだったかもう一つ候補が残ったんだ。んで、結局三人で「『土に叫ぶ』がいいんでねーが!」「いい、いい!」ってなったんです。
             <同>
ということだったらしい。つまり、この本の題名は執筆に関わった甚次郎と佐藤しまと吉田コトの三人が話しをしていて決まったようで、私などが『土に叫ぶ』というタイトル決定の理由を深く考える必要はなかったようだ。

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      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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