みちのくの山野草

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『二葉保育園』の保母としてのちゑの矜持

2019-06-29 10:00:00 | 濡れ衣を着せられた高瀬露
〈「白花露草」(平成28年8月24日撮影、下根子桜)

『二葉保育園』の保母としてのちゑの矜持
吉田 さて、花巻に戻った賢治は実家で病に伏せながら、あの『雨ニモマケズ手帳』の最初の、
【『雨ニモマケズ手帳』の1p~2p】

        <『復元版「雨ニモマケズ手帳」』(筑摩書房)より>
に、
     昭和六年九月廿日
     再び
     東京にて發熱。

というように、<三回目の「家出」>のことをまず書いた。そしてこの手帳を書き進めていくうちに、「賢治とならば結婚してもいいとちゑの方も思っているもの」とばかりに思い込んでいた賢治だったが、実際に結婚を申し込んだところちゑからはけんもほろろに断られてしまったから、ちゑに一方的に裏切られてしまったという屈辱感が日に日に募ってきて病臥中の賢治を苛み、次第に溜まってくるフラストレーションがついに爆発、10月24日「なまなましい憤怒の文字」を連ねた〔聖女のさましてちかづけるもの〕を『雨ニモマケズ手帳』に書いてしまった。
  10.24 ◎
     聖女のさましてちかづけるもの
     たくらみすべてならずとて
     いまわが像に釘うつとも
     乞ひて弟子の礼とれる
     いま名の故に足をもて
     われに土をば送るとも
     わがとり来しは
     たゞひとすじのみちなれや

             <『校本宮澤賢治全集第十二巻(上)』(筑摩書房)36p~より>
【「雨ニモマケズ手帳」29p~30p】
    
【「雨ニモマケズ手帳」31p~32p】
    
             <『校本宮澤賢治全集 資料第五(復元版雨ニモマケズ手帳)』(筑摩書房)より>
荒木 つまり、再び持ち上がったちゑとの「結婚話」が伏線となってこの詩を詠ましめたというわけだ。したがって、
 賢治が「聖女のさましてちかづけるもの」と詠んだ女性は巷間言われている露ではもちろんなくて、誰あろうちゑのことだった。
と、そう吉田は言いたいのだべ。
吉田 そういうこと。
鈴木 実は賢治は、当時ちゑが勤めていた『二葉保育園』のことや、ちゑがそこでどのようなことをしていたのかということをある程度知っていたと思うんだな。
荒木 何だ藪から棒に。
鈴木 以前にも似たようなことを喋ったような気もするが、『光りほのかなれど―二葉保育園と徳永恕』(上笙一郎・山崎朋子著、教養文庫)によれば、
 同園の創設者の野口幽香と森島美根は、当時東京の三大貧民窟随一と言われていた鮫河橋に同園を開いて、寄附金を募ってそれらを元にして慈善教育事業、社会事業としての貧民子女の保育等に取り組んでいた。
というんだな。そしてまた、
 野口も森島も敬虔なクリスチャンであり、ちゑが勤めていた頃の同園の実質的責任者は徳永恕はクリスチャンらしくないクリスチャンだった。
ということもこの本には書いてある。
 ちなみに、現在でも同園は「キリストの愛の精神に基づいて、健康な心とからだ、そしてゆたかな人間性を培って、一人ひとりがしっかりとした社会に自立していけることを目標としています」という理念を掲げている。
 つまり当時のちゑは、スラム街の貧しい家の子どもたちのために保育実践等をしていた、いわば<セツルメントハウス>と言える『二葉保育園』に勤めていたんだ。
荒木 つい俺は今まで、『二葉保育園』とは普通の保育園だとばかり思っていたがそうではなかったんだ。同園はセツルメント活動をしてたのか。あっ、そうか腑に落ちたぞ。そういえば、
 そのころちゑさんは、あるセッツルメントに働いていました。母子ホームです。
             <『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)118pより>
と森が述べていたがこのことを意味してたのか。
吉田 だからか、森は同書で、
 そしてこの少女は…(略)…兄の死んだあとは、東京の母子寮にその生活の全部、全身全霊をささげて働いた。
             <『宮澤賢治と三人の女性』171pより>
とも述べていたのは。
鈴木 そうそう、二葉保育園には母子寮があって、
 恕のつくったこの二葉保育園の母の家は、近代日本における〈母子寮〉という社会福祉施設の嚆矢であった!
ということもこの本に述べてあったから、おそらくその頃のちゑはその「母子寮」に勤めていたのだろう。
荒木 ということであれば、賢治はちゑがそのような所で働いていることはある程度知っていただろうから、ちゑが「聖女のさまして」見えたということは十分にあり得る。したがって、もしそのような女性から仮に裏切られてしまったと賢治が思い詰めたとすれば、まさに、
    ちゑ=聖女のさましてちかづけるもの
と言い募ってしまいたくなるのも理屈としては成り立つな。
鈴木 ただし断っておきたいのだが、だからといってちゑが問題のある人だと私は言いたいわけでは毛頭ない。
 それどころか、ちゑは「新しい女」である一方で、『二葉保育園』ではスラム街の子女の保育のためのセツルメント活動に取り組んでいただけではなくて、兄の看護のために伊豆大島に居た頃はこっそりと隣の老婆を助けたり、そこを去ってからもその老婆に毎月「5円」を送金し続けたりするような女性であったということだから、なかなかの人物だ。
荒木 そっか、昭和3年6月の「伊豆大島行」の際に、ちゑが賢治と結婚しないと心に誓ったのは、この当時のちゑの生き方からすれば、「高等遊民」のような生き方をしていた賢治に惹かれることはなかったということか。確かに二人の間には雲泥の差があるもんな、その生き方の姿勢に。
吉田 そうか、ちゑはそういうとても素晴らしい人だったんだ。一方では、ちゑは賢治をいわば「振った」形に結果的にはなってしまったわけだから、後々いくら森が『あなたは、宮澤さんの晩年の心の中の結婚相手だつた』(『宮澤賢治と三人の女性』)116p)とちゑに迫っても、ちゑは賢治と結びつけられることをひたすら拒絶したのだと解釈できるわけだ。
鈴木 そうか、その拒絶はちゑの矜持ゆえにだったと吉田は言いたいわけだな。確かにそう考えてみれば、ちゑの一連の言動はすんなりと納得できる。
荒木 なるほど、ちゑの『二葉保育園』の保母としてのプライドが賢治と結びつけられることをかたくなに拒絶させたというわけか。
吉田 さて、そろそろここに登場させたいのが例の関徳弥の『短歌日記』中の10月4日と6日の記述だ。
 この日記はほぼ間違いなく「昭和6年」のものであるということが僕らによって確かめられたから、そうなるとこの前後の時間的な流れは、
・昭和6年9月28日:東京で発病し、花巻に戻って病臥。
・ 同 年10月4日:「夜、高瀬露子氏来宅の際、母来り怒る。露子氏宮沢氏との結婚話」
・ 同 年10月6日:「高瀬つゆ子氏来り、宮沢氏より貰ひし書籍といふを頼みゆく」
・ 同 年10月24日:〔聖女のさましてちかづけるもの〕
・ 推定同時期   :〔最も親しき友らにさへこれを秘して〕
・ 同 年10月24?日:〔われに衆怨ことごとくなきとき
・ 同 年11月3日:〔雨ニモマケズ〕
となる。
荒木 そういえば、以前吉田は
    こうなれば次の「昭和6年」の場合の検証用資料として再考せねばならないので
と言って保留していたが、その「再考」をこれからしてみようということだな。
吉田 そのとおり。
荒木 ところで何んだ、この〔われに衆怨ことごとくなきとき〕とは? 今まで登場したことがなかったはずだが……。
吉田 すまんすまん、後で説明するからちょっと待ってくれ。とりあえず続けさせてくれ。
 すると考えられるのが、賢治が帰花したのと相前後して小笠原牧夫と結婚する決意を固めた露が、昭和6年10月4日に花巻高等女学校時代からの友人であるナヲ(関徳弥の妻)の許を訪ねてその旨を報告したということだ。
 そこへたまたまナヲの母ヤスがやって来た。賢治はヤスの甥だ。その賢治に最近結婚話のトラブルがあったということをヤスは聞き知ってはいたのだがその詳細までは承知していなかったので、そのトラブル相手ちゑのことを露であると誤解してヤスは怒り、そんなことだったら、賢治があなた(露)にやったものを一切返せと迫った。そのやりとりを見ていた徳弥は、義母の性格を知っているがゆえに「女といふものははかなきもの也」と日記に記した。
鈴木 そうか、こういう流れであれば徳弥があの日記に「母来り怒る。露子氏宮沢氏との結婚話」と書いたことも頷ける。
吉田 一方、そう言われた露は、賢治からかつて貰っていた本を持参して翌々日また関の家にやって来て、この本を賢治に返して欲しいと、賢治の従妹でもあり露の友人でもあるナヲにお願いして帰って行った。
 以上、鈴木お得意の思考実験を僕も真似てみたが、さあどうだ。
荒木 いいんじゃねぇ、なかなか説得力がある思考実験だった。こうなると逆に、矢っ張り徳弥の『短歌日記』は「昭和6年」に書かれたものであるということの真実味がますます増してきた。
鈴木 しかも、徳弥の『短歌日記』の記述内容がなかなかうまく当て嵌まっている。
荒木 なるほどな。帰花した賢治は病に伏せながら、折角<三回目の「家出」>をしてまでちゑと結婚しようと思って上京したというのに、ちゑに一方的に裏切られてしまったと受けとめた賢治は恨みと怨念が募っていった。そこへ、もしかすると露が小笠原牧夫と来年春結婚するという噂も耳に入ったりしてさらにダメージを受けた賢治は、すっかり打ちひしがれてしまった。
 ますます募ってくる苛立ちに耐え切れず賢治は、帰花して約一ヶ月後、ちゑに対する恨みと憎しみを込めてとうとう〔聖女のさましてちかづけるもの〕を詠んでしまった、という可能性が少なからずあるということか。
 だから、「聖女のさましてちかづくもの」は露ではなくて実はちゑである、と言いたいのだな。確かに、露ではなくてちゑとした方がすんなりと解釈できる。となれば、もしかするとこのことは思考実験にとどまらず、実際に十分あり得たことかもな。

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 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

             〈平成30年6月231日付『岩手日報』一面〉
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      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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