みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

思考実験<賢治三回目の「家出」>

2019-06-27 10:00:00 | 濡れ衣を着せられた高瀬露
〈「白花露草」(平成28年8月24日撮影、下根子桜)

思考実験<賢治三回目の「家出」>
荒木 ところで、前に吉田が言っていた「ある伏線」はこれらとどう繋がるのだ?
吉田 ご免、そのためにはもう少し準備運動が必要なんだ。まずは、当時のことを時間的な流れで以下に確認したい。
・大正15年秋~昭和2年夏:下根子桜の賢治の許に露出入り(菊池映一氏の証言より)。
・昭和2年秋   :伊藤ちゑ兄と共に来花、賢治と会う(10月29日付藤原嘉藤治宛書簡より)。
・昭和3年6月  :賢治伊豆大島行。
・同時期帰花後  :賢治、「おれは結婚するとすれば、あの女性だな」と嘉藤治に語った。
・昭和3年8月~ :賢治実家に戻り、病臥。
・昭和6年2月21日:「東北砕石工場花巻出張所」開設正式決定。賢治同工場嘱託。
・昭和6年7月7日:ちゑとの結婚話がまた持ち上がっていることを賢治自身が森に語った。
・同 年9月19日 :40㌔あまりのトランクを持って上京。
・同 年9月20日 :着京。以降滞京。発熱。
・同 年9月28日 :東京から花巻に戻り、病臥。
・同 年10月4日 :「夜、高瀬露子氏来宅の際、母来り怒る。露子氏宮沢氏との結婚話」
・同 年10月6日 :「高瀬つゆ子氏来り、宮沢氏より貰ひし書籍といふを頼みゆく」
・同 年10月24日 :〔聖女のさましてちかづけるもの〕
・ 推定同時期   :〔最も親しき友らにさへこれを秘して〕
・同 年11月3日 :〔雨ニモマケズ〕
そして、この中のポイントは
・昭和6年7月7日に賢治が森に対して語ったというところの、また持ち上がった伊藤ちゑとの結婚話
だと思っているんだ。そしてこの「また持ち上がった伊藤ちゑとの結婚話」が「伏線」となって〔聖女のさましてちかづけるもの〕が詠まれたのではなかろうかと僕は考えている。
荒木 もう少し具体的に説明してくれ。
吉田 これはあくまでも僕の推測であり、これから述べることは一つの思考実験だがそれでもいいか?
荒木 中身によりけりだがな。さあ、どうぞ。
吉田 僕も以前から、「聖女のさましてちかづけるもの」とは果たして露なのか? どうもそうとばかりは言い切れないと考えていた。
 二人もそう訝っていると思っているが、昭和2年の夏以降になると賢治は露を拒絶するようになったと言われているのに、その頃から約4年もの時を経てしまった昭和6年の10月に、例のこのようななまなましい憤怒の文字はどこにもないような詩を露に当て付けて詠むか。
荒木 そりゃあ確かに常識的にはあり得ねえべ…。あっ、わがった、そういうことか。「聖女のさましてちかづけるもの」とは露のことではなくてちゑのことであり、ちゑとの結婚にまんざらでもないということが推察される「昭和六年七月七日の日記」に出てくるような賢治の想いが「伏線」となって、賢治をして〔聖女のさましてちかづけるもの〕を詠ましめた、ってわけな。
吉田 そう、実は「聖女のさましてちかづけるもの」とは巷間言われている露ではなくて、伊藤ちゑのことなのだ。
 以前引用したように、昭和6年頃になると賢治自身が「私も随分かわつたでしょう、変節したでしよう――。」と言っていたというくらいだから、かつての賢治とはすっかり様変わりしてしまった。独身主義ももうやめた。ちなみに、
「私は結婚するかもしれません――」と盛岡にきて私に語つたのは昭和六年七月で、東北碎石工場の技師となり、その製造を直接指導し、出來た炭酸石灰を販賣して歩いていた。さいごの健康な時代であつた。
              <『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)104pより>
と森が証言している。
 このように独身主義からはおさらばした賢治は、前々からちゑとならば結婚してもよいと思っていたがゆえに、再燃したちゑとの結婚話を持ち出して「私は結婚するかもしれません――」と昭和6年7月に森に喋った。そして、そのことをちゑと具体的に話し合おうと思ったこともあって同年9月に上京した。
荒木 おっと、それはまさかの展開だな。そんな話今まであったけがな?
鈴木 そっか、昭和6年の上京は東北砕石工場の製品売込みのためだったとばかり私は思い込んでいたが、それだけではなくて、ちゑと会ってその結婚話を進めるためでもあったということな。だけど、その時の上京の際に賢治が伊豆大島まで行ったという証言や記述はどこにもないはずだが。
吉田 いやぁ、違うんだなそれが。その頃ちゑは東京に戻っていたようだし、僕はこの時の上京はまたぞろ賢治が「家出」をするためでもあったと推測している。
荒木 昭和6年の上京の一つの目的はちゑと会って結婚の話を具体的に進めるためだったはとりあえず了としても、もう一つは「家出」のためだったというのか。おいおい、思考実験とはいえそれはあまりにも荒唐無稽だべ。
吉田 まあまあ、これはあくまでも実験だ。まずは前者、ちゑとの結婚について。
 澤村修治氏がこう述べている。
 これでは学校の経営もままならない。そうした不如意のあげく、同年八月一三日、七雄は遂に逝去する。…(筆者略)…兄の逝去とともにチヱは東京に戻る。休職していた二葉保育園に保母として復帰。
             <『宮澤賢治と幻の恋人』(澤村修治著、河出書房新社)182pより>
そしてここでいう「同年八月一三日」とは昭和6年8月13日のことだということが、同書から判る。
荒木 そっか、昭和6年9月の賢治の上京時には既に七雄は亡くなっており、ちゑは東京に戻って住んでいたのか。
鈴木 となれば伊豆大島の場合とは違って、上京した賢治ならば会おうと思えば比較的容易に伊藤ちゑに会えたことになるな。上京の前々月、再燃したちゑとの結婚話を持ち出して「私は結婚するかもしれません――」と森に喋っていた賢治のことだ、そのことをちゑと具体的に話し合おうと思ったこともあって同年9月に上京したということは確かにあり得る。
吉田 では次、後者について。
 堀尾の『年譜 宮澤賢治伝』には、賢治が熱を出して寝ているという八幡館から電話連絡が入った菊池武雄が駆けつけて、
「花巻のおうちへ知らせよう」
といった。すると賢治はつよく、
「いやそれは絶対困ります。絶対帰りません。しらせないでください」
という。…(筆者略)…
 それに賢治は、
「なあに風邪です、すぐよくなります」
と、いかにも病気のことは専門だといわぬばかりに自分でうけあい、
「よくなったら、ここから墨染の衣をきて托鉢でもしてまわりますよ」
と妙なことをいう。
            <『年譜 宮澤賢治伝』(堀尾青史著、中公文庫)424p~より>
とある。
 そこで、どうも賢治は花巻に帰りたくないらしいと判断した菊池は、武蔵野に小さい貸家を見つけ出して賢治にそのことを知らせた、というような貸屋探しのことが具体的にそこに続けて述べられている。
鈴木 つまり賢治はこの時花巻に戻るつもりは毛頭なく、このまま東京に居て托鉢などもして回りたい。ついては住む家を探している、というようなことなどを言ったものだから菊池は貸家を見つけてやったという次第か。なんだか、大正10年の「家出」の時と似たにおいがしてきた。
荒木 そうか、賢治は実質的に「家出」を目論んで上京したと吉田は言いたいわけだ。
鈴木 しかし賢治はこの上京の折り直ぐに、9月21日に「遺書」を書いていたわけで、着京即重態に陥り死を覚悟したと思うのだが。
吉田 確かに通説ではそうなっているがそれは「遺書」ではないという見方も可能だろう。ちなみにその中身は、
この一生の間どこのどんな子供も受けないやうな厚いご恩をいたゞきながら、いつも我慢でお心に背きたうたうこんなことになりました。今生で万分一もついにお返しできませんでしたご恩はきっと次の生又その次の生でご報じいたしたいとそれのみを念願いたします。
どうかご信仰といふのではなくてもお題目で私をお呼びだしください。そのお題目で絶えずおわび申しあげお答へいたします。
  九月廿一日
                       賢治
父上様
母上様
             <『校本全集第十三巻』(筑摩書房)379pより>
というものだ。
荒木 あっ、そうそう奇しくも賢治の命日ってやつな。
吉田 だからなおさら「遺書」と思いたくもなるが、日にちの一致はそれとは無関係なこと。それよりは、この文面からは、花巻から離れての「家出」、決して花巻の実家に戻ることはないという自分自身に向けた決意表明だったととれなくもない。
鈴木 確かに、着京したと思われるのが9月20日、ところがその翌日に突如賢治は重篤となったので死を覚悟してこの「遺書」を書いた、ということは言われてみれば確かに奇妙だし不自然なことだ。
荒木 そういえば前に名前が挙がった菊池武雄とは、この上京の折りに賢治が「和とぢ」の本をプレゼントしたという人のことだよな。そうすると、賢治は何時どこでそれを菊池に渡したのだろうか。即重篤になったというのならばその機会がなかっただろうに。
吉田 そのことについては菊池自身が『宮澤賢治研究』所収の「賢治さんを想ひ出す」の中でこう語っている。
 その後去年の春突然駿河臺のある旅館から電話で「宮澤さんといふ方が上京していま風邪を引いて休んで居られる」と知らせてくれたので行つて見たら、いつものニコニコした顔で床に就いて居られたが私は容易でないことを直感しました。その時「お土産に持つて來たのだけれども形見になるかも知れぬ」といつて私にレコード(死と永生)二枚と○本などをくれました。私は何とかして健康回復のために力になり度いと願つたけれど、一つは賢治さんの性質も解つてゐるからそれも尊重したいし、私も微力と生まれつきの不親切者故、なにもして上げられませんでした。
             <『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店)325p~より>
荒木 あれっ、ここには「和とぢ」の本などではなくて、プレゼントしたのは「○本」とあるけど? そっかそうか、この「○本」は「和とぢ」の本つまり「春本」を憚った表現か。
鈴木 でも変だな。さっき吉田が教えてくれた堀尾の記述内容だと菊池は結構賢治の世話を焼いているのに、こちらの菊池の証言によれば菊池は何もしてやれなかったいうことだから矛盾がある。
吉田 矛盾ということで言えば、このことに関しては、深沢紅子の証言とも矛盾している。深沢は随筆「一ぱいの水-賢治との出会い」の中で次のように述べている。
 昭和6年当時吉祥寺に住んでいた私の家に賢治がやって来て、
「宮沢ですが、お隣の菊池さんが留守ですから、これを預かってください」
            <『追憶の詩人たち』(深沢紅子著、教育出版センター)124p~より>
と言われたと。
荒木 えっ! 深沢紅子は菊池武雄とお隣さん同士だったのか。
吉田 そうだよ。たしか、「菊池さんとは私達夫婦も非常に親しい仲なので隣り同士に住んでいた」ということもそこで綴っていたはずだ。
鈴木 じぇじぇじぇ、菊池と深沢夫婦はそんなに懇意だったのか。確かに、言われてみれば三人とも同じ画家だからな。こうなったのではっきり言ってしまうけど、前に私が紹介した「私ヘ××コ詩人とお見合いしたのよだが、このようにちゑが漏らしたその相手こそ実は深沢紅子だったのだ。
吉田 そうだったのか、な~るほどな。
鈴木 もちろん菊池は見合いの世話をしたくらいだからちゑとは何らかの繋がりはあっのだろうとは思っていたが、今までなぜ紅子にちゑがこんなことを、しかもざっくばらんに言ったのかその背景がいまひとつわからずにいた。それが、深沢と菊池は隣同士で住む程に親しくて、
 深沢紅子⇔菊池武雄⇔伊藤ちゑ
という繋がりができていたのか。これで腑に落ちた。
吉田 しかも、伊藤ちゑは1921年盛岡高等女学校卒(『宮澤賢治の幻の恋人』165p より)、一方の深沢(四戸)紅子も同じく盛岡高等女学校1919年卒 (『追憶の詩人たち』巻末より )だからちゑは2年後輩の同窓生、高等女学校の就学期間は5年間なのでちゑと深沢は3年間同時期に盛岡高女に通っていたと考えられる。そこで、    
 菊池武雄⇔画家⇔深沢紅子⇔同窓生⇔伊藤ちゑ
という繋がりもあった。
鈴木 なるほど、そうなると菊池がちゑのお見合いをお膳立てしたということも確かに頷ける。
吉田 そこで先程の荒木の質問の「どこで」に対する答にもなると思うのだが、深沢はこんなことも証言している。
 賢治はその時、『これを預かってください』と言って包みを二つ差し出して、一杯の水を飲んで帰っていった。
 夕方吉祥寺に戻った菊池がその二つの包みを開けるのを見ていたならば、小さい方の包みは「和とぢ」の本であり、もう一つの方はレコードだった。菊池は、「何で俺にこんなものくれたべなあ」とお国なまりの独り言を言った。
            <『追憶の詩人たち』124p~より>
鈴木 確かに菊池と深沢の証言の間には矛盾があるが、両者を比較すればこの件に関してはどうやら深沢の証言の方が信憑性が高いな。さっきの矛盾、今度の矛盾共に菊池絡みだからな。ここは信頼度が高いのは深沢の方とならざるを得ないだろうから、答は「吉祥寺で」となるのか。もしかすると、菊池は何かを庇っているのかもしれないな。
荒木 つまり、「賢治はどこでそれを渡したか」の答は駿河台の八幡館でではなくて吉祥寺でだろう、ということか。
吉田 そしてほら、この時の鈴木東藏宛書簡〔395〕にこんなことが書いてある。
 実は申すも恥しき次第乍ら当地着廿日夜烈しく発熱致し今日今日と思ひて三十九度を最高に三十七度四分を最低とし八度台の熱も三日にて屡々昏迷致し候へ共心配を掛け度くなき為家へも報ぜず貴方へも申し上げず居り只只体温器を相手にこの数日を送りし次第に有之
              <『校本全集第十三巻』(筑摩書房)380p~より>
荒木 となれば、「廿日夜烈しく発熱致し」ということで、賢治は9月20日の夜からひどい熱発、その後は床に就いていたようだから、その前に吉祥寺を訪れていたことになり、それはやはり9月20日しかあり得ないな。
鈴木 それに、9月20日付鈴木東藏宛書簡〔392〕方も見てみると「午后当地に着」とあるから20日の午後に着京しているようなので、その足で吉祥寺へ行ったかもしれないな。
吉田 実はこの件に関して、賢治はあの『雨ニモマケズ手帳』の二頁目にも次のように、
   昭和六年九月廿日/再び/東京にて發熱。
と書き込んでいるから、賢治はやはり9月20日に突如「熱発」したとするしかない、と以前の僕は考えていた。
荒木 実はそうとも言えないというのか?
吉田 うん。というのも、この頃の賢治の体温はどうだったかというと、『兄妹像手帳』に賢治自身が次表のようにとメモしている(『校本全集第十二巻 (上)』134p)。
19  37.2
20  37.3
21  37.9
22  38.6
23  38.2
24  38.2
しかも加藤謙次郎は、19日に仙台の古本屋内で浮世絵の話をしていた賢治に偶々出会い、
 自宅に案内して夕食を共にし、夜遅くまで話し込んだ。…(筆者略)…化粧煉瓦を造つて売る計画を説明し、その試作品を携えて名古屋方面迄売込宣伝に行つて来ると張り切りつて居り、胸が悪い様子は全然感ぜられなかつた。
            <『宮沢賢治とその周辺』(川原仁左エ門編著)315p~より>
と証言している。
荒木 そうなんだ。その上、21日までの体温はいずれも37℃台じゃないか。賢治は「九月廿一日」付の「遺書」を書いたというのが通説のようだが、これぽっちの「高熱」がたった二、三日続いただけであのような「遺書」を書くというのか? 書くわけねえべ。あれはもはや「遺書」などではないということだな。
 ということは、先程の俺の質問の残り「いつ」に対する答は、
 少なくとも9月22日以降の高熱から判断すれば22日以降に吉祥寺に行ったことはまずなかろうことと、着京が9月20日であることは間違いなさそうだから、吉祥寺行きは20日か21日であろう。
ということか。
吉田 いずれ、賢治の体温が高かったとはいえこの両日ならばまだ37℃台、無理すれば吉祥寺に行けないこともないから、このいずれかの日に賢治は少なくとも吉祥寺の菊池武雄の家に行き、また当時近くに住んでいたとも思われる伊藤ちゑの許へも訪ねて行った。まあ、これらはあくまでも思考実験上でのことだけど。
鈴木 あっそっか!
荒木 なんだよ、突然でかい声を出して。
鈴木 実は、ちゑの直ぐ上の姉ハナが当時吉祥寺に住んでいた(平成26年11月7日、伊藤ちゑの生家当主より)というんだな。だから、吉田の今の発言は現実的にもあり得た。
吉田 おっ、棚からぼた餅だな。よくよく考えてみれば、高熱にも関わらず菊池武雄へ「春本」等を届けるために賢治がわざわざ吉祥寺に行ったということは妙な話だと思っていたが、当時ちゑは吉祥寺の姉の家に住んでいた等ということもあり得るから、これでますますこの思考実験も現実味を帯びてきたぞ。
 そのついでに調子に乗って言えば、場合によっては、この東藏宛書簡〔395〕中の「廿日夜烈しく発熱致し…熱納まるを待ちてどこかのあばらやにてもはいり」は賢治の方便であった可能性もあるということも視野に入れる必要があるかもしれん。
荒木 どういうことだ?
吉田 他でもない、そうすれば少なくとも取り敢えず家に戻らなくてもよいことになるから実質的な「家出」ができるだろう。裏を返せば、この東藏宛書簡は、実質的に賢治は三回目の「家出」をする覚悟であったということの一つの傍証となりそうな気もする。
鈴木 それはちょっと論理の飛躍で、無理筋だと思うがな。う~む、段々何が何だかわからなくなってきたぞ。
荒木 え~と、昭和3年の上京は「逃避行」と言えなくもない。一方今回の昭和6年の上京は「東北砕石場技師」になってから約7ヶ月後の仕事に行き詰まりを見せ始めた頃の上京だし、少なくとも直ぐに花巻に戻ることは考えていなかったそれだ。そういや羅須地人協会の活動の場合も約7ヶ月で頓挫した。
鈴木 しかも昭和3年の場合は田植え前後の、昭和6年の場合は稲刈り前後の共に農繁期の古里を離れての上京だ。だから、賢治の場合には、少しやってみて少し問題にぶつかったならば直ぐに放り出し、そこから逃避してしまうという性向がどうやらありそうで、確かに同じ構図がこの2つにはあるな。
荒木 ところでその「家出」だが、最初のは何となくわかるが……。
吉田 もちろん最初の一回目は、
 その時頭の上の棚から御書が二冊共ばつたり背中に落ちました。さあもう今だ。今夜だ。時計を見たら四時半です。汽車は五時十二分です。すぐに臺所へ行つて手を洗ひ御本尊を箱に納め奉り御書と一緒に包み洋傘を一本持つて急いで店から出ました。
             <『宮澤賢治素描』(関登久也著、共榮出版)47pより>
という大正10年1月の衝動的で突発的な「家出」。
 二回目が、これもまた突如花巻農学校の職を辞して下根子桜で暮らしを始めたことも、確たる見通しもないままのそれだったのだから僕に言わせれば実質的には「家出」で、これ。
 そして三回目が、この昭和6年9月の上京だ。ただしほとんどの人はそうは思わんだろうけどな。
荒木 いや、三回目も吉田に段々刷り込まれてきたせいか、それもありかなと思うようになってしまった。世の中、二度あることは三度あるとも言うしな。
吉田 あっそうそう。僕と似たことを小倉豊文がこう言っていたはずだ。
    最後の上京にしても、その前後二回の家を出ての独立的生活にしても、賢治にとって実に思い出深いものであったろう。賢治はその都度命がけの「出家」を決行したのである。
             <『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉豊文著、東京創元社)47pより>
と。ただし、こちらは文字が逆で「出家」だけど。
鈴木 そうか、小倉も三回と見ていたのか。それも「命がけの」。なるほどな。いずれ、この三回の「家出」にしてもあるいは「出家」にしても、まさしく不羈奔放な賢治の面目躍如というところかな。
荒木 皮肉か?
鈴木 とんでもない、このような賢治だからこそあれだけの作品を書けたということだよ。あの『春と修羅』のような作品をスケッチできる人が今後現れることなど二度とないだろう。
荒木 確かにこうやって振り返ってみると、この時の上京は賢治<三回目の「家出」>というのは十分にあり得ることだ。

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 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

             〈平成30年6月231日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版いたしましたのでご案内申し上げます。
 その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました
 そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題になっている本です。
 現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
 あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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