〈「白花露草」(平成28年8月24日撮影、下根子桜)
『昭和五年 短歌日記』は昭和6年に使用か
鈴木 たしかに吉田の言うとおりだろう。
では、まず、〝徳弥の『昭和五年 短歌日記』〟は「昭和5年」用として発売された日記であることはまず間違いないであろうことを確認。
荒木 ところが曜日欄の曜日が消されているということからは、徳弥はこの日記を「昭和5年」に使ったわけではなく、他の「年」に使ったということしか考えられない。
吉田 それも、「十月六日」の場合などは消したということがありありと判る消し方であり、気付かれないように消そうとしたとは感じられない消し方であることは明白だから、別の企みがあるとも思えない。
荒木 それでは、
関徳弥の『昭和五年 短歌日記』は「昭和5年」以外の年に書かれた。
という結論でいいべ。
鈴木 そうならざるを得ないな。では次は、徳弥はこの日記を何年用として使ったのかを推理し、できればその年を特定することだ。
吉田 まずは、「日記」の性格上からして、「昭和5年」より前に使われたということはあり得ない。一方で、昭和8年以後もあり得ない。賢治は昭和8年の10月にはもはや亡くなってしまっていたからだ。となれば、その可能性は昭和6年か同7年のいずれかでしかない。
そこでだ、インターネットで『万年カレンダー』を見てくれ。昭和6年と7年の10月4日~6日の曜日どうなってる?
鈴木 ちょっと待て、ちょっと待て、え~と、
昭和6年の場合:10月4日(日)、10月5日(月)、10月6日(火)
昭和7年の場合:10月4日(火)、10月5日(水)、10月6日(木)
だ。
それから、露は昭和7年遠野の小笠原牧夫と結婚、昭和7年の10月の露は遠野在住、勤務先はもっと釜石よりの上郷村だ。となれば、昭和7年に上郷小學校勤務の露がウィークデイの10月4日~6日の間に花巻の関徳弥の家に2回もやって来るのは常識的に考えて容易なことではない。
そうそう、荒木は当時の岩手軽便鉄道の時刻表等を調べてくれると言っていたよな。そっちの方はどうだ?
荒木 もちろんだ。ただしそれは昭和5年の「岩手軽便鉄道の時刻表」(『汽車時間表 第六巻第十號』(日本旅行協會)230pより)によるものだがそれほどの差はなかろう。その時刻表によれば、
・遠野→花巻の本数は一日6本で、遠野始発は 5:30、同終発は 17:55
・花巻→遠野の本数も 同 6本で、花巻始発は 5:40、同終発は 17:27
だ。そして、花巻~遠野間の所要時間は約2時間50分ほど。なお、当時露は上郷小學校に勤めていたということであれば上郷駅から乗ることとなり、
・花巻行き 上郷駅発 10:10、12:35、15:45、17:05
の4本で、花巻までの所要時間は約3時間10分ほどだ。
吉田 これで、昭和7年の線はほぼ消えたな。結婚したばかりの露が、平日勤務の上郷小學校から一日たった4本しかなかった軽便鉄道に乗って約3時間ちょっとをかけて花巻にやって来て、新聞報道によれば、10月4日の欄に「夜、高瀬露子(露のこと)氏来宅の際、母来り怒る。云々」ということだから、4日は夜に徳弥の家にやって来たことになる。
荒木 この時刻表によれば、もし昭和7年10月4日(火)に露が遠野からやって来たとなれば、仕事を早退けして、遅くとも上郷駅発17:05の汽車に乗って来た。そうすると露はその日は向小路の実家に泊まるしかない。花巻の終発が17:27だからもう汽車には乗れないからだ。当然、翌日5日(水)も仕事を休むか遅刻の可能性が高く、さらには6日(木)の日も花巻にいたことになるのだから、平日連続3日間も上郷小學校の仕事に差し支えがあった可能性大だ。
鈴木 しかも6日については、「高瀬つゆ子氏来り、宮沢氏より貰ひし書籍といふを頼みゆく」ということだから、もしこのことが昭和7年の出来事であるとするならば、露は結婚した後にわざわざ遠野から花巻にやって来て賢治から貰ったという本を返したということになるが、このようことは常識的にはあり得ない。もし返却するならば結婚する前、昭和7年3月以前にだろうから。ここは吉田の言うとおりで、昭和7年の線はやはり無理だな。
荒木 こうなると消去法によってということと、昭和6年にはまだ露は花巻にいたということもあるので、この日記は昭和6年に使われたものとならざるを得ない。したがって、
関徳弥の『昭和五年 短歌日記』は、実は昭和6年に使われた。それゆえ、徳弥は曜日を消して使っていた。
と判断してまず間違いない、でいいべ。
吉田 言い換えれば、
〝徳弥の『昭和五年 短歌日記』〟については、
・10月4日の記述内容は昭和6年10月4日の徳弥の日記、
・10月6日のそれは昭和6年10月6日の徳弥の日記である。
として扱った方が遙かに妥当であるということになりそうだ。
鈴木 さて、我々が考察した限りにおいては〝徳弥の『昭和五年 短歌日記』〟は実は「昭和6年」用として徳弥が使ったものであろうという結論に達したので、こうなれば次の「昭和6年」の場合の検証用資料として再考せねばならないので、検証結果がどうなるかはその時まで保留しておきたい。
ただしその可能性は少ないことがわかったのだが、この日記が仮に「昭和5年」の日記だとした場合にどうなるかを念のため調べておきたい。つまり、新聞報道された〝徳弥の『昭和五年短歌日記』〟の「10月4日と6日」に書かれている内容が〈仮説:高瀬露は悪女ではなかった〉の反例となるかを調べてみたい。
ではまずその日記の記述内容の確認だ。
・10月4日:夜、高瀬露子氏来宅の際、母来り怒る。露子氏宮沢氏との結婚話。女といふのははかなきもの也。
・10月6日:高瀬つゆ子氏来り、宮沢氏より貰ひし書籍といふを頼みゆく。
となっている。ではこの記述内容をどのように解釈し、どう判断するかだ。
荒木 まず10月4日分については、4日の夜徳弥の家に、花巻高等女学校で同級生であったナヲ(徳弥の妻)を訪ねて露がやって来たが、その際に徳弥の義母ヤス(ナヲの母、賢治の叔母)がやって来て怒った。それは露と賢治の結婚話についてであった。そしてその様子を見ていた徳弥は「女といふのははかなきもの也」と感じた、という解釈でどうだ。
吉田 そんなところだろうな。ただ問題はそのことによって〈仮説:高瀬露は悪女ではなかった〉が崩れるかだが、それはなかろう。この記述内容だけで露が悪女にされる理由はないからだ。
荒木 とはいえ、ヤスが怒ったというんだろう。
吉田 おそらくそれは事実だろうが、賢治には何ら非はなくて露一人だけに非があるから怒った、ということまではこの日記の記述内容が保証しているわけではない。単に「露と賢治の結婚話」について怒ったということでしかない。こんな中身のはっきりしていない内容では検証などできない。
鈴木 では、「女といふははかなきもの也」についてはどうだ。
吉田 これだけでは徳弥が誰に対してそう感じたのかは確定できないだろう。それは露かもしれないし、ヤスかもしれないし、ナヲだったのかもしれない、はたまた女性一般かもしれない。したがってこんな曖昧なものであれば検証以前。
鈴木 となれば、10月4日の記述内容は〈仮説:高瀬露は悪女ではなかった〉の反例とはならないということでいいな。
荒木 一方の10月6日については、内容的にはっきりしているから解釈で悩むことはない。こちらの方は、露が翌々日の6日また徳弥の家にやって来て、賢治から貰ったという書籍を返してほしいとナヲに頼んで置いて帰って行ったという解釈以外にないだろう。
吉田 前々日に結婚話があったということだから、露はけじめを着けるために以前に賢治から貰っていた本を返したとも考えられるので、露のそうした誠実ともとれる行為は〈仮説:高瀬露は悪女ではなかった〉を裏付けこそすれ、その反例とならないこともまた明らか。
荒木 あっそうか、この頃既に露は小笠原牧夫との結婚を決めていたのか。
吉田 それはあり得るが、露と牧夫とが結婚したのは昭和7年の3月頃だから、ちょっとな。時期的なことを考えれば昭和5年の時点でそんな先のことを予見して本を返したということはなかろう。
荒木 わがった、その点から言っても逆にこの〝徳弥の『昭和五年 短歌日記』〟は実は「昭和6年」に書かれたものだったという可能性が大であると言えるのだ。
吉田 結局、〝関徳弥の『昭和五年 短歌日記』〟が平成15年に新たに見つかったからといって〈仮説:高瀬露は悪女ではなかった〉を棄却する必要はないということだ。
鈴木 なおもちろん、「昭和5年」に関してはこの〈仮説〉の反例となりそうな証言や資料は他に知られていないから、結局、
「昭和5年」の場合も〈仮説:高瀬露は悪女ではなかった〉は検証に耐えた。
ということだ。
荒木 やった! 今回もこの<仮説>を棄却する必要はないということになる。いやあ嬉しいな。鈴木は先に、「難題の昭和5年に今度こそ移ろうか」と言っていたから、もしかするとこの〈仮説〉の反例が出て来て、今まで検証に耐え続けてきたこの〈仮説〉を棄却せねばならんかもしれんぞとちょっと不安があった。しかしその結果は、少なくとも「昭和6年~昭和7年」を除いてはこの〈仮説〉は成り立つということだ。この調子だともしかすると、この〈仮説〉は最後まで検証に耐え続けてくれるかもしれんぞ。
鈴木 ご免ご免、私がそう言ったのは検証が難題だというのではなくて、『短歌日記』の「曜日欄の曜日が消されている」というおかしなことがあるという意味でのことだったのだ、言い方がまずかったな……。
荒木 ちょっと、言い訳っぽいな。
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賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』
〈平成30年6月231日付『岩手日報』一面〉
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