みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

思考実験<賢治ちゑに結婚を申し込む>

2019-06-28 10:00:01 | 濡れ衣を着せられた高瀬露
〈「白花露草」(平成28年8月24日撮影、下根子桜)

思考実験<賢治ちゑに結婚を申し込む>
吉田 さて思考実験の続きだが、昭和6年9月 賢治が東京に「家出」をしようと思ったのは、もちろんちゑと結婚しようと思ったからだ。
鈴木 確かにそう言われてみれば、『宮澤賢治』(佐藤隆房冨山房、昭和17年)や『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)によれば、当時賢治が、
    伊藤ちえさんと結婚するかも知れません<*1>
とほのめかし、ちゑのことを
    ずつと前に話があつてから、どこにも行かないで待つてゐるといはれると、心を打たれますよ。
と認識し、しかも、
    禁欲は、けつきよく何にもなりませんでしたよ、その大きな反動がきて病氣になつたのです
と悔いていたようだから、この頃になると賢治は独身主義を棄て、賢治はちゑならば、
    自分のところにくるなら、心中のかくごで
来てくれると思っていた節もあり、この頃の賢治はいよいよちゑと結婚しようと決意した、という可能性がないとは言えない。
荒木 しかも森の「『三原三部』の人」によれば、
 けれどもこの結婚は、世の中の結婚とは一寸ちがつて、一旦からだをこわした私ですから、日常生活をいたわり合う、ほんとうに深い精神的なものが主となるでせう。――というような意味のことをいわれたのでした。
             <『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)115p~より>
というようなところまでも賢治は考えていたようだからな。 
吉田 一方、昭和3年の「逃避行」とも見られる上京の場合と同じように、東北砕石工場の仕事も約7ヶ月が過ぎた頃からその仕事も行き詰まってきたのでそこから逃れたくなったこともあって、賢治はちゑとの結婚を決意、東京に出て「東北砕石工場」の代理店を開いて化粧煉瓦を売ったりしながら生計を立て、「日常生活をいたわり合」いながらちゑと一緒に暮らそうと計画した。そしていよいよ昭和6年9月19日、化粧煉瓦を詰めたトランクを持って花巻を後にした。
荒木 どうだべがな?
吉田 まあまあ、単なる思考実験だ。続けよう。
 もちろん、上京した賢治はいの一番にちゑの許を訪ねてその決意をちゑに伝え、結婚しようと切り出した。ところが、「ずつと前に私との話があつてから、どこにもいかないで居るというのです」と認識していたのは賢治の方だけ。先に明らかにしたように、一方のちゑはもはや賢治と結婚するつもりは全くなかったからきっぱりと断った。
荒木 しかも兄七雄が急逝したばかりだからなおさらに、きっぱりとその申し出を断ったということもありかな。
吉田 それもあると思うし、我が身を擲ってきたスラム保育を続けたいという強い意志と信念もあったんじゃないのかな。
 ただし、賢治の方は予想だにしなかったちゑの拒絶にすっかり打ちのめされてしまった。しかし賢治とすれば「家出」の覚悟だったから、今更直ぐさまおめおめと実家に戻るというわけにもいかず、貸屋探しを菊池武雄に依頼。
荒木 そうか。「家出」の覚悟だったからこそ当初は、上京して直ぐに熱発しても頑なに実家に戻ることを拒み、なおかつ東京で住む家まで探していたということか。
鈴木 それにしてもなあ、ちゑとならば結婚してもいいと覚悟を決めて折角「家出」までして来た賢治とすれば、それが完全に裏切られたと受け取っただろうな。
荒木 そこで賢治の心の中にちゑに対する憎しみがめらめらと燃え始めた。
吉田 そのこともあって緊張の糸が切れてしまった賢治は、その反動で、もともと体調不十分だったこともあって途端に熱発、床に伏した。
荒木 これで何もかも終わり、賢治は夢も希望も失ってしまってもはや生きる望みもなくなり、あの「遺書」を書いた。
吉田 なるほど、こうなってみると荒木のその見方もありかもな。たったあの程度の熱発で着京直後に「遺書」を書くのかということと、ちゑからの結婚拒絶で受けたショックで死にたくなって「遺書」を書いたということとを比べてみれば、後者の方が確かに説得力があるな。
荒木 なっ。
吉田 さて、連日の高熱で床に伏しながら賢治は今後のことに思いを巡らした。もはやちゑとの結婚計画も頓挫した、「家出」をする意味もなくなってしまった。当然東京にいる必要もなくなってしまった。切羽詰まってしまった。
鈴木 そこで、9月27日に賢治は父政次郎へ、
 もう私も終わりと思いますので最後にお父さんの御聲をきゝたくなつたから……
             <『宮澤賢治の手帳 研究』(小倉豊文著、創元社)22pより>
と電話した。その時にどれほどの病状だったかはわからないにしても、精神的にはとことんまで追い詰められていたということだけはたしかであっただろう。
吉田 いやどうだか。賢治は泣きを入れただけのことかもしれないぞ。
 とまれ、その電話を受けて父は即刻帰花するようにと厳命。賢治は後ろ髪引かれる思い、あるいは逆に「渡りに舟」だったかもしれないが、いずれにせよ帰花。実家にて病臥した。
鈴木 ちなみにこの時、花巻に戻った賢治は父政次郎に何と言ったか。小倉豊文は『「雨ニモマケズ手帳」新考』に、
 賢治はこの時はじめて父に向って「我儘ばかりして済みませんでした。お許し下さい」という意味の言葉を発したという。
            <『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉豊文著、東京創元社)24pより>
と記している。
荒木 そっか、この謝罪の文言「我儘ばかりして済みませんでした。お許し下さい」がそのとおり事実であったとすれば、この時の賢治は「家出」という決意をして上京したという吉田の「私見」が、俄然説得力を持ってきたな。

<*1:註> ちなみに、森荘已池の『宮澤賢治と三人の女性』には、
 「私は結婚するかも知れません――」と盛岡にきて私に語つたのは昭和六年七月七日で、東北砕石工場の技師となり、その製造を直接指導し、出来た炭酸石灰を販賣して歩いていた。さいごの健康な年代であつた。
 そのころ私は岩手日報社につとめていた。その日の日記を書きうつそう。
 昭和六年七月七日。
 握り飯を食べたら宮沢さんが来社。白い麻服を着て、元氣だ。マスザワ(岩手日報社花巻支局長)さんからきけば、あなたはあまりからだがよくないそうですが、いかがですかと言う。
 自分が、あれは宣傳しているのです。あまり働かされないように宣伝して居るのですと言う。
 「それはいいです」と宮沢さん、あつさり賛成。
 「ご飯を食べながら話しましよう。」
というので出る。I食堂の方へ歩いていこうとしたら、下の方へ歩いて、こつちへ行きましようと言う。歩きながら、
 「実は結婚問題がまた起きましてね。」
という。
 「病氣になる前、大島に行つたことがありましたが、その大島で肺を病む兄を看病している二七歳になる女の人です。」
という。
 「どういう生活をして來た人ですか。」
と私がきく。
 「女学校を出て、幼稚園の保母か何かやつて居たということです。(ママ)
 「それで意志がおありになるのですね。」
と私がいふ(ママ)。
 「遺産が一万円とか何千円とか持つているということなのでしてね、いくらおちぶれても、金がそんなにあつては――。」
と宮沢さんはいつた。
 「ずつと前に私との話があつてから、どこにもいかないで居るというのです。」
 私はそれは貞女というものですという。
 「自分のところにくるなら、心中のかくごでこなければなりませんからね」
 そういうので、どうしてですかときくと、
 「いつ亡びるか解らない私ですし、その女の人にしてからが、いつ病氣が出るか知れたものではないでしよう」
と答えた。すべて歩きながらの会話。
             <『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)104p~>
とある。

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 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

             〈平成30年6月231日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版いたしましたのでご案内申し上げます。
 その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました
 そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題になっている本です。
 現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
 あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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