みちのくの山野草

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憤怒の〔聖女のさましてちかづけるもの〕

2019-06-22 10:00:00 | 濡れ衣を着せられた高瀬露
〈「白花露草」(平成28年8月24日撮影、下根子桜)

憤怒の〔聖女のさましてちかづけるもの〕
鈴木 ここからはいよいよ昭和6年に入る。
 まず「昭和6年」に関して問題となるのは、〔聖女のさましてちかづけるもの〕だ。
荒木 そもそも、その〔聖女のさまして云々〕とはどんな詩なんだ?
吉田 それは、『雨ニモマケズ手帳』にこのように書かれていて、実際文字に起こしてみると次のようになる。
  10・24
 ◎ 聖女のさまして
       われにちかづき
           づけるもの
   たくらみ
   悪念すべてならずとて
   いまわが像に
        釘うつとも
   純に弟子の礼とりて
   乞ひて弟子の礼とりて
           れる
   いま名の故
          足を
            もて
   わが墓に
   われに土をば送るとも
   あゝみそなはせ
   わがとり来しは
   わがとりこしやまひ
   やまひとつかれは
      死はさもあれや
   たゞひとすじの
       このみちなり
           なれや
             <『校本全集 資料第五(復元版雨ニモマケズ手帳)』(筑摩書房)より>
荒木 それにしても、書いては消し、消しては書きと何度も書き直しているところからは賢治の葛藤や苛立ちが窺えるね。
吉田 内容的にもまた然りで、相手に対しては「悪念」というきつい表現を用いようとしたり、その人を「乞ひて弟子」となったと見下ろしたり、「足をもて/われに土をば送るとも」というようにどうも被害妄想的なところがあったり、一方自分のことは「たゞひとすじのみち」を歩んできたと高みに置いているところもあったりのこの〔聖女のさましてちかづけるもの〕から浮き彫りになってくる賢治は、女性から言い寄られた男のそれではなくて、虚勢を張っている男ともとられかねない。
鈴木 それから「あゝみそなはせ」とあることからは逆に、賢治はこの相手の女性のことを以前はかなり評価していたということも言えそうだ。
荒木 にもかかわらず、そのような女性に対して「悪念」という言葉を賢治が使おうとしたとはな……それも「詩」においてだぞ。今まで抱いてきた賢治のイメージからは程遠い詩だ。おそらく、この詩を詠む直前に賢治にはよっぽどのことがあったんだべ。
吉田 それにしても、昭和2年の夏頃から賢治は露を拒絶するようになったということのようだが、それから約4年以上も時が経ってからもなお、佐藤勝治が「彼の全文章の中に、このようななまなましい憤怒の文字はどこにもない」と表現するような詩、〔聖女のさましてちかづけるもの〕を詠む賢治の心理が僕にはわからん。いくら何でもこれだけの長期間怨念を持ち続けることは普通の人にはできんだろう。
鈴木 常識的にはあり得ない。だから逆に、さっき荒木が言ったように、その直前にはおそらく我々には及びもつかないような劇的な出来事が賢治に起こっていともた考えられる。
吉田 実は、この〔聖女のさましてちかづけるもの〕とよく似た詩を賢治もう一篇詠んでいるんだ。
荒木 それはまたどんなだ?
吉田 それは「文語詩未定稿」の中の〔最も親しき友らにさへこれを秘して〕というもので、ほらこのような詩だ。
   最も親しき友らにさへこれを秘して
   ふたゝびひとりわがあえぎ悩めるに
   不純の想を包みて病を問ふと名をかりて
   あるべきならぬなが夢の
     (まことにあらぬ夢なれや
      われに属する財はなく
      わが身は病と戦ひつ
      辛く業をばなしけるを)
   あらゆる詐術の成らざりしより
   我を呪ひて殺さんとするか
   然らば記せよ
   女と思ひて今日までは許しても来つれ
   今や生くるも死するも
   なんぢが曲意非礼を忘れじ
   もしなほなれに
   一分反省の心あらば
   ふたゝびわが名を人に言はず
   たゞひたすらにかの大曼荼羅のおん前にして
   この野の福祉を祈りつゝ
   なべてこの野にたつきせん
   名なきをみなのあらんごと
   こゝろすなほに生きよかし
             <『校本全集第五巻』(筑摩書房)226p~より>
荒木 へえ~たしかにこれって、さっきの〔聖女のさましてちかづけるもの〕の雰囲気とよく似た雰囲気の詩だな。
吉田 やはりそう思うだろう。ましてこの「校異」(前掲書818p)を見れば、「最も親しき友ら」とは藤原嘉藤治のことだと判る。
鈴木 ということは、「親友」の嘉藤治にさえも言えずに悶々としていたのだから賢治にとってはこの詩も「憤怒」の詩とも言える。しかも、今『宮沢賢治必携』を見てみたのだが、それによれば、
 文語詩制作開始は昭和4年12月頃で、昭和5年8月以降のある時、明確な目的意識のもとに文語詩制作へ向かったと推定できる。
             <『宮沢賢治必携』(佐藤泰正・編、學燈社)83pより>
とあるから、昭和6年10月24日付の〔聖女のさましてちかづけるもの〕とも時代的にも重なっている。
吉田 そこでこれらの「憤怒」の詩といえる2篇の詩と、例の「昭和6年」のものと考えられる関徳弥の『短歌日記』の10月4日、同6日のこと等を時系列に従って並べてみれば、
昭和6年9月28日:賢治東京で発病し、花巻に戻って病臥。
 同 年10月4日:「夜、高瀬露子氏来宅の際、母来り怒る。露子氏宮沢氏との結婚話
 同 年10月6日:「高瀬つゆ子氏来り、宮沢氏より貰ひし書籍といふを頼みゆく
 同 年10月24日:〔聖女のさましてちかづけるもの〕
  推定同時期 :〔最も親しき友らにさへこれを秘して〕
 同 年11月3日:〔雨ニモマケズ〕
となる。
鈴木 今までは、この10月24日付〔聖女のさましてちかづけるもの〕の詠まれ方があまりにも不自然だと思っていたが、こうやって並べてみる何かが少し見えてきたような気がする。このような「憤怒」の詩をほぼ同時期に二つも賢治は詠んでいたようだから、賢治は余程この女性に対して腹立たしくて、苦々しく思っていた可能性が大だ。

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               電話 0198-24-9813

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