【東北砕石工場技師時代の賢治(1930年頃 撮影は稗貫農学校の教え子高橋忠治)】
<『図説宮澤賢治』(天沢退二郎等編、ちくま学芸文庫)190pより>
<『図説宮澤賢治』(天沢退二郎等編、ちくま学芸文庫)190pより>
ではここからは『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店版、昭和14年9月)からである。
ただし、この本の構成は、
・研究
・追想
の2部構成になっているので今回は前者の「研究」からである。
まずは「研究」を通読してみたところ、菱山修三の「宮澤賢治に就いて」の中に、次のような記述が見つかった。
宮澤氏は岩手縣花巻町に生まれて、盛岡高等農林學校を出てゐる。…投稿者略…農民を實地に指導もした。東北碎石工場の技師もした。岩手縣に貴金屬イリドスミンのあることを始(ママ)めて發見した。
〈『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店版、昭和14年9月)236p〉つまり、「東北碎石工場の技師もした」という記述が見つかった。
ここまで私は時代順に、東北砕石工場技師時代の賢治や石灰の施用に関しての言及について調べてきたのだが、先にやっと松田甚次郎の『土に叫ぶ』の中に初めてそれを見つけた。そしてこれが二番目のそれだ。とはいえ、それはたった一言、「東北碎石工場の技師もした」だけだった。
そこで私には、菱山は『土に叫ぶ』の「一 恩師宮澤賢治先生」を見たからこう記述できたのかなとも思えたのだが、この本の出版は昭和13年5月だから、『宮澤賢治研究』の出版が昭和14年9月だということに注意すれば、菱山は別の人の寄稿等からこのことを知ったかもしれないと私は不安になった。ならばということで、もう一度今まで調べたものを見直してみたならば、一番最初に取り上げた『宮澤賢治追悼号』(昭和9年1月)の中に、寄稿ではなかったのだが、最初の方に載っていた「宮澤賢治略歴」の中に、
*昭和六年四月東北碎石工場技師ニ聘セラレ炭酸石灰製法改良加工並ニ販路斡旋ニ努ム。
〈『宮澤賢治追悼号』(草野心平編、次郎社)3p〉という記載があったから、菱山はもしかするとこちらを見たのかもしれない。
ちなみに、この「研究」の最後に載っていた三浦參玄洞の寄稿「第四次元世界への憧憬」の中にも次のような記述、
大正十五年四月花巻町の片ほとりに羅須地人協会といふのを設けて自炊生活を営みながら農耕に従事した。そして合間には農事の講演に出たり、附近の百姓たちから作物上の相談にあづかつたり、かと思ふと、碎石工場の技師として聘せられたり、炭酸石灰製法改良の加工をしたり、ともかく多角的であるがしよつちう土から離れぬ生活に親しんで、遂に不娶、昭和八年九月二十一日三十八歳を一期として、この不思議な天才は永遠に逝つたのである。…投稿者略…(宮澤賢治追悼參照)
〈『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店版、昭和14年9月)284p〉があったことからもそう推測できる。つまり、「碎石工場の技師として聘せられたり、炭酸石灰製法改良の加工をしたり」とあり、この記述内容は上掲「宮澤賢治略歴」と同じだし、その出典も他でもない宮澤賢治追悼と書かれていたからである。
というわけで、昭和14年頃になると、東北砕石工場技師時代の賢治に関しての菱山修三や三浦參玄洞等の言及がぽつぽつと見つかることを知った。とはいえども、石灰の施用そのものに関する記述は未だ一切見つかっていないから、昭和14年頃になっても、賢治と石灰に関しては、賢治周辺の人たちはそれほど重視していたわけでもなければ、評価していたわけでもなさそうだ。
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