みちのくの山野草

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『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店、昭和13年5月)

2021-04-06 12:00:00 | 賢治の「稲作と石灰」
【東北砕石工場技師時代の賢治(1930年頃 撮影は稗貫農学校の教え子高橋忠治)】
<『図説宮澤賢治』(天沢退二郎等編、ちくま学芸文庫)190pより>

 さて、では今度は『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、昭和13年5月)からである。
 ここまで、羅須地人協会時代や東北砕石工場技師時代の賢治の、石灰についての言及を年代を追って探してきたのだが、そのような記述のある寄稿等は何一つ見つからなかった。ところがそのようなものがやっと見つかった。あの『土に叫ぶ』の中にである。
 というのは、ご承知のようにその巻頭は「一 恩師宮澤賢治先生」なわけだが、そこに、
 先生の訓へ 昭和二年三月盛岡高農を卒業して歸郷する喜びにひたつてゐる頃、毎日の新聞は、旱魃に苦悶する赤石村のことを書き立てゝいた。或る日私は友人と二人で、この村の子供達をなぐさめようと、南部せんべいを一杯買ひ込んで、この村を見舞つた。道々会ふ子供に與へていつた。その日の午後、御禮と御暇乞ひに恩師宮澤賢治先生をお宅に訪問した。
 先生は相變わらず書斎で思索にふけつてをられた。宮澤先生は明治二十九年の生まれで、同県花巻町の豪家の長男であつた。盛岡高農の逸材で、卒業後花巻の農學校に教鞭をとる傍ら、生徒に農民詩の指導者をやつて居られた。故あつてそこを辭されて自ら鍬取る一個の農夫として、郊外下根子に『羅須地人協会』といふのを開設し、自ら農耕に從つた。毎日自炊、自耕し、或は音樂、詩作、童話の硏究に餘念なく、精魂の限りを盡された。そして日曜や公休日には、農學校の卒業生や近隣の靑年を集めて、農村問題や肥料の話などをしながら、時にはレコードやセロを聽かせて、時には自作の詩を発表した。或る時は又農民劇の脚本を書いて農民劇をやらしたりした。土壌学の硏究では高農の教授が教へを受けに來るまで造詣が深く、徹夜して嶮岨な山を踏破硏究されたこともある。「百姓に石灰肥料を安く供給したい」と、石灰岩の地質の硏究に志し、愛のため眞理探究のため、二年間石灰岩の採掘に從事したこともあった。實に熱心で、實践家であった。三十八歳で夭逝されたのも、藝術と科學の眞理の前に身命を賭した為かと思はれる。極めて謙遜な、質朴な、しかも嚴粛なところもある宮澤先生の前には、誰でも敬虔の念を禁ずることは出來ぬ。
             <『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)1p~>
と書かれてあるからだ。
 そのものずばり、「「百姓に石灰肥料を安く供給したい」と、石灰岩の地質の硏究に志し」とあるし、「愛のため眞理探究のため、二年間石灰岩の採掘に從事したこともあった」という記述がある<*1>。もちろん後者の「二年間石灰岩の採掘に從事」とは東北砕石工場の嘱託になったことを指していることは間違いなかろう。いずれ、松田甚次郎にして初めて、東北砕石工場技師時代のことや石灰のことを取り上げていたことを私は確認できた<*2>。
 流石は、賢治精神を徹底して実践した、賢治から「小作人たれ/農村劇をやれ」と強く「訓へ」られてしかも実践しただけのことはある、と私は思った。しかもこの『土に叫ぶ』は大ベストセラーとなったから、これが大きな切っ掛けとなって、この頃(昭和13年5月頃)からは東北砕石工場技師時代や石灰のことも賢治研究者等から次第に重要視されようになっていったという蓋然性が高い。
 なぜならば、前回まで調べてきて明らかになったことだが、昭和11年12月頃になっても、東北砕石工場技師時代や賢治の石灰施用の推奨はそれほどは重要視も評価もなされていなかったからだ。そしてまた、昭和9年1月頃~昭和13年5月頃の期間中に、このようなことを公に論じているような論考等を見つけられなかった私は、なぜ松田甚次郎だけは先に引いたようなことを書けたのだろうかと疑問に思った。だが、よくよく考えてみると、例えば、
ということなどがあったから、東北砕石工場技師時代のことや石灰については十分に知り得たのであろう。
 それは例えば、『宮澤賢治研究』(昭和14年9月)所収の松田甚次郎の追想「宮澤先生と私」の中に、
 其後昭和六年に、春と修羅を御手紙と共に送つていただいたのが最後の御手紙でそのときはもう病牀に起き臥し中であつて盛んに石灰岩の事などを御述べになられて、殘念だ身體が弱くて殘念だとつぶやいて居られたのである。
            <『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店版)426p>
とあるからである。

<*1:投稿者註> ただし、それが「愛のため眞理探究のため」と言われても、私は面くらってしまうのだが。
<*2:投稿者註> しかしながら、松田甚次郎は後に『續 土に叫ぶ』の中で、
 最近までは石灰の過用によつてかへつて種々の弊害を來してゐるやうな有樣であつた。過ぎたるは及ばざるが如しで、肥料にしても適量が大切であることはいふまでもない。
             〈『續 土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店、昭和十七年十二月)44p〉
と断定していて、賢治と違って「石灰の過用」を戒めている。そしてもちろん、「稲の最適土壌は中性でも、ましてアルカリ性でもない」ことからも、松田甚次郎のこの断定は正しい。多分これは、松田甚次郎は実際小作人になって稲作を実践したのでその経験から学んだことであり、一方の賢治は、自分では一切米を作らなかったので経験から学び取ることが叶わず、「理論」をそのまま信じ込んでいたということを否定できない。それは、賢治は「稲は酸性に耐性がある」とは認識していたが、そうではなくて、稲の最適な土壌は「弱酸性~微酸性」(pHでえば適正なその値は5.5~6.5)であることは知らなかった、と判断できるからだ。
 ちなみに、『土壌要務一覧』の中に、
一一、耕土ノ反応ハ中性ヲ望ム。洪積台地ハ、殆ド酸性デアル。適量ノ石灰木灰ヲ施用スルコト、有機性酸性ナラバ(六)中ノ方法ヤ焼土等之ヲ矯正スル。尤モ水稲陸稲小麦蕎麦ハ酸性ニモ耐ヘル。大麦ヤ荳菽類ハ耐エナイ。
             <『校本宮澤賢治全集第十二巻(下)』(筑摩書房)、150pより>
と賢治は書いていて、「尤モ水稲陸稲小麦蕎麦ハ酸性ニモ耐ヘル」と、賢治は認識していたことが判る。つまり、賢治は「稲は酸性に耐性がある」とは認識していたことになる。

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