《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
たまたま、『宮澤賢治全集第五巻』(筑摩書房、S43)の付録『月報10』を手に取ったところ、そこには伊藤信吉の「「岩手県災異年表」の周辺」が載っていた。それは、昭和32年に伊藤が「盛岡地方気象台」を訪れた際の出来事に関する論考であり、 私はそこを訪ねて、防災業務担当の工藤技官に会った。今年の冷害はどんなふうに予知されるのかなど、工藤技官は親切に説明してくれた。いくつかの資料をもらった。別の資料として百三十余頁の「岩手県災異年表」をもらった。…(投稿者略)…
そして昭和八年九月に亡くなったのだが、その前後にかかる時期を「岩手県災異年表」についてみると次のようであった。
と書いてあるではないか。私はここまで読んで、これぞ探し求めていたものよ、と抃舞した。そして昭和八年九月に亡くなったのだが、その前後にかかる時期を「岩手県災異年表」についてみると次のようであった。
*大一四 豊作 *大一五 不作 *昭二 凍害 *昭三 凍害 *昭四 不作 *昭五 欠 *昭六 不作 *昭七 ― *昭八 豊作 *昭九 凶作
これは稲作の豊凶作についての記録で、この十年間は豊作二度、不作凶作四度となっている。不作凶作の度合を宮沢賢治の住む稗貫郡について一瞥すると……しかも続けて伊藤は、
前後五カ年平均反当収量に対して大正十五年マイナス一斗五升、昭和四年マイナス一斗七升、同六年プラス四升、同九年マイナス七斗九升となっている。ここで目立つのは昭和六年のプラス四升で、この年は岩手県下の他の十三市郡ことごとくマイナスなのに、稗貫だけがプラス四升ということだったのである。
と記しているではないか。そこで私は、あれでよかったんだとまず安堵した。それは以前〝昭和6年稗貫は冷害ではなかった〟において、当時の資料を基に、大雑把には、
昭和6年の稗貫の稲作は冷害でも何でもなかった。同年の稗貫の実収高は当時の稗貫の年平均1.781石/反を上回っているし、当時の岩手県の年平均とほぼ同じだから、〝平年作〟と言ってもいいだろう。……①
と結論づけたことがあったが、この結論が妥当だったことをこの「岩手県災異年表」は裏付けてくれたと思ったからだ。ちなみに、『岩手県農業史』(岩手県、森嘉兵監修)262pによれば
大正14年~昭和4年の米実収高平均
岩手県=1.936石/反
稗貫郡=1.793石/反
同じく
昭和5年~昭和9年の米実収高平均
岩手県=1.718石/反
稗貫郡=1.769石/反
ということだから、当時(大正14年~昭和9年)の米実収高平均は
岩手県=1.827石/反
稗貫郡=1.781石/反
となる。
ということであれば、以前調べてわかったように
昭和6年の稗貫の米の実収高=1.823石/反
だったから、〝①〟は「岩手県災異年表」の「(昭和六年)は岩手県下の他の十三市郡ことごとくマイナスなのに、稗貫だけがプラス四升」という裏付けを今回得たので、
昭和6年の稗貫の稲作は冷害でも何でもなかった。同年の稗貫の実収高(1.823石/反)は当時の稗貫の年平均1.781石/反を上回っているし、当時の岩手県の年平均(1.827石/反)とほぼ同じだから、少なくとも〝平年作〟だった。
と結論してももういいだろう。おのずから、少なくとも昭和6年病臥中の賢治が、近郊の農家は冷害だからせめて「サムサノナツハオロオロアルキ」たいと病の床で願うことの必要性は、実は客観的にはなかったということになる。そのような冷害はこの年稗貫では起こっていなかったことがわかったからである。
そしてまた、大正15年は隣の紫波郡内の赤石村、不動村、志和村等が未曾有の大旱害だったのだが、この稗貫郡のデータ「大正十五年マイナス一斗五升」を私は知って、紫波郡ほどではないにしても、稗貫郡も大正15年は結構な不作だったことを確認できた。ちなみに、一反あたり「マイナス一斗五升」の減収ということであれば、前掲したように
大正14年~昭和4年の稗貫郡の米実収高平均 1.793石/反
と比べれば、
1.5÷17.93≒0.084
だから8.4%もの減収となり、稗貫郡はかなりの不作であった。大雑把に言えば作況指数も92と言えるから、大正15年の稗貫郡の米の作柄はいわゆる「不良」であったとなる。
さてこうなると、大正15年のヒデリによる稗貫郡の稲作の「不良」に対して、そして隣の紫波郡内の赤石村や不動村等の大旱害に対して賢治は何故何一つ救援活動をしなかったのだろうかと、いわば、何故「ヒデリノトキ二涙ヲ流サナカッタ」のだろうかとますます疑問が募ってきた。
一方で、この時に思い出すのが次の賢治の詩だ。
小作調停官
西暦一千九百三十一年の秋の
このすさまじき風景を
恐らく私は忘れることができないであらう
見給へ黒緑の鱗松や杉の森の間に
ぎっしりと気味の悪いほど
穂をだし粒をそろへた稲が
まだ油緑や橄欖緑や
あるひはむしろ藻のやうないろして
ぎらぎら白いそらのしたに
そよともうごかず湛えてゐる
このうち潜むすさまじさ
すでに土用の七月には
南方の都市に行ってゐた画家たちや
able なる楽師たち
次々郷里に帰ってきて
いつもの郷里の八月と
まるで違った緑の種類の
豊富なことに愕いた
それはおとなしいひわいろから
豆いろ乃至うすいピンクをさへ含んだ
あらゆる緑のステージで
画家は曾つて感じたこともない
ふしぎな緑に眼を愕かした
けれどもこれら緑のいろが
青いまんまで立ってゐる田や
その藁は家畜もよろこんで喰べるではあらうが
人の飢をみたすとは思はれぬ
その年の憂愁を感ずるのである
<『校本宮澤賢治全集第六巻』(筑摩書房)361p~より>西暦一千九百三十一年の秋の
このすさまじき風景を
恐らく私は忘れることができないであらう
見給へ黒緑の鱗松や杉の森の間に
ぎっしりと気味の悪いほど
穂をだし粒をそろへた稲が
まだ油緑や橄欖緑や
あるひはむしろ藻のやうないろして
ぎらぎら白いそらのしたに
そよともうごかず湛えてゐる
このうち潜むすさまじさ
すでに土用の七月には
南方の都市に行ってゐた画家たちや
able なる楽師たち
次々郷里に帰ってきて
いつもの郷里の八月と
まるで違った緑の種類の
豊富なことに愕いた
それはおとなしいひわいろから
豆いろ乃至うすいピンクをさへ含んだ
あらゆる緑のステージで
画家は曾つて感じたこともない
ふしぎな緑に眼を愕かした
けれどもこれら緑のいろが
青いまんまで立ってゐる田や
その藁は家畜もよろこんで喰べるではあらうが
人の飢をみたすとは思はれぬ
その年の憂愁を感ずるのである
私は、この詩の冒頭の「西暦一千九百三十一年の秋の」から、昭和6年は凄まじい「凶作」だったとばかり信じ込んでいた。たしかにこの年の岩手は「冷害」だったからそれは間違いないのだが、稗貫や花巻も「冷害」で「凶作」だったと私はついつい思い込んでいた。ところが、この年の米の作柄は稗貫の場合(おのずから花巻も)平年作以上だったことがこれでほぼ確定したと言えるから、私は誤解していたことになるし、実はこの詩に詠まれているような光景は当時の花巻や稗貫では見ることができなかったということになりそうだ。言い換えれば、この詩に詠まれている「このすさまじき風景」は稗貫には拡がっていなかった蓋然性が極めて高く、病臥中であったはずの賢治にはこの年この詩に詠まれているような光景を目の当たりにすることは難しかったということになりそうで、この詩はあくまでも病臥中の賢治が頭の中で思い浮かべて詠んだそれであったということになりそうだ。
ということなれば、私は近々岩手県立図書館を訪れてじっくりと「岩手県災異年表」を眺めなければならなくなったようだ。
続きへ。
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《鈴木 守著作案内》
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◇ 拙ブログ〝検証「羅須地人協会時代」〟において、各書の中身そのままで掲載をしています。
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