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3 上京してチェロを学ぶしかない

2021-04-09 16:00:00 | 賢治昭和二年の上京

3 上京してチェロを学ぶしかない
 では、ここからはあの昭和2年11月頃の霙の降るある日について再び考え直してみたい。

 澤里武治の証言の真実
 昭和31年の『岩手日報』に連載された『宮澤賢治物語(49)、(50)』で澤里武治は次のような証言(以降この証言を「○澤」と略記する)をしている。
 どう考えても昭和二年十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には先生は上京しておりません。その前年の十二月十二日のころには
 『上京タイピスト学校において知人となりし印度人ミー<ママ>ナ氏の紹介にて、東京国際倶楽部に出席し、農村問題につき飛び入り講演をなす。後フィンランド公使と膝を交えて言語問題につき語る』
 と、ありますから、確かこの方が本当でしょう。人の記憶ほど不確かなものはありません。その上京の目的は年譜に書いてある通りかもしれませんが、私と先生の交渉は主にセロのことについてです。
 もう先生は農学校の教職もしりぞいて、根子村桜に羅須地人協会を設立し、農民の指導に力を注いでおられました。その十一月のびしょびしよ霙(みぞれ)の降る寒い日でした
『沢里君、しばらくセロを持って上京して来る。今度はおれも真剣だ。少なくとも三ヵ月は滞京する。とにかくおれはやらねばならない。君もバイオリンを勉強していてくれ』
 よほどの決意もあつて、協会を開かれたのでしようから、上京を前にして今までにないほど実に一生懸命になられていました。そのみぞれの夜、先生はセロと身まわり品をつめこんだかばんを持つて、単身上京されたのです。
 セロは私が持つて、花巻駅までお見送りしました。見送りは私一人で、寂しいご出発でした。立たれる駅前の構内で寒いこしかけの上に先生と二人ならび汽車をまつておりましたが、先生は、
『風邪をひくといけないから、もう帰つて下さい。おれは一人でいいんです。』
 再三そう申されましたが、こんな寒い夜に先生を見すてて先に帰るということは、何としてもしのびえないことです。また一方、先生と音楽のことなどについてさまざま話合うことは大へん楽しいことです。
 間もなく改札が始まつたので、私も先生の後についてホームへ出ました。
 乗車されると、先生は窓から顔を少し出して、
『ご苦労でした。帰つたらあつたまつて休んでください。』
 そして、しつかり勉強しろということを繰返し申されるのでした。汽車が遠く遠く見えなくなるまで、先生の健康と、そしてご上京の目的が首尾よく達成されることを、どんなに私は祈つたかしれません。
 滞京中の先生は、私達の想像することもできないくらい勉強をされたようです。父上にあてた書簡を見ても、それがよくわかります。…(中略)…
 手紙の中にはセロのことは出ておりませんが、後でお聞きするところによると、最初のうちはほとんど弓を弾くことだけ練習されたそうです。それから一本の糸をはじく時、二本の糸にかからぬよう、指を直角に持つていく練習をされたそうです。
 そういうことにだけ幾日も費やされたということで、その猛練習のお話を聞いて、ゾッとするような思いをしたものです。先生は予定の三ヵ月は滞京されませんでしたが、お疲れのためか病気もされたようで、少し早めに帰郷されました。
              <昭和31年2月22日、同23日付『岩手日報』より>
 あくまでも澤里が証言しているのはかくの如くであり、これが「○澤」の真実である。くどいが真実はあくまでも、
    昭和二年には先生は上京しておりません。
なのであって、誰か(X氏)が勝手に書き変えた、
    昭和二年には上京して花巻にはおりません。
ではないのである。このことがこの「○澤」のポイントの一つである。
 そしてもう一つのポイントは、本証言の〝オレンジ色の文字〟部分からそう判断せざるを得ないと私は思うのだが、「○澤」はチェロを持って一人澤里に見送られながら賢治が上京したのは昭和2年11月頃の霙の降る日のことであったということを証言したもの以外の何ものでもないということである。
 言い方を換えれば、
     ◇この「○澤」を大正15年12月の上京の典拠として使うことは全くできない。
ということであり、このことは既に前に検証したことでもある。

 どの「宮澤賢治年譜」を見ていたか
 ここまで下根子桜時代の賢治の上京等を調べて来てみてもう一度件の「○澤」を読み直してみると、その真相と、併せて証言を改竄したX氏の思惑が垣間見えてくるような気がする。
 まずはこの証言の最初の部分についてである。    
 どう考えても昭和二年十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には先生は上京しておりません。その前年の十二月十二日のころには
 『上京タイピスト学校において知人となりし印度人ミー(ママ)ナ氏の紹介にて、東京国際倶楽部に出席し、農村問題につき飛び入り講演をなす。後フィンランド公使と膝を交えて言語問題につき語る』
 と、ありますから、確かこの方が本当でしょう。人の記憶ほど不確かなものはありません。
             <昭和31年2月22日付『岩手日報』より>
 さて、このとき澤里はどのような「宮沢賢治年譜」を見ながら証言したのであろうか。まずは、澤里が引用しているように当時の「宮澤賢治年譜」にはすべからく(多少文言の違いはあるものの)、大正15年12月のこととして、
 上京タイピスト学校において知人となりし印度人シーナ氏の紹介にて、東京国際倶楽部に出席し、農村問題につき飛び入り講演をなす。後フィンランド公使と膝を交えて言語問題につき語る。
となっている(なお、小倉豊文のものだけはやや異なっている)。その際に賢治は「チェロの特訓」を受けた、などということはもちろんそこには書かれていない。
 そして以前検討した際にも指摘したことだが、かつての殆どの「宮澤賢治年譜」には
    昭和2年 九月、上京、詩「自動車群夜となる」を創作す。
となってもいる。つまりかつての「通説」では、少なくとも昭和2年の9月に一度は上京しているとなっていたのである。
 一方で、澤里は
   宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には先生は上京しておりません。
と証言している訳だから、この際に澤里が見ていた「宮澤賢治年譜」は既に刊行物で公になっていたものではなかったということになろう。その当時公になっていた「賢治年譜」では賢治は昭和2年の9月に上京していたとなっていて、当然賢治は昭和2年には上京したことになるからである。
 したがって、これは以前私が主張したことだが、
 澤里は、出版物としては当時まだ公になっていなかった特殊な「宮澤賢治年譜」(とりわけ、賢治は昭和2年には上京していなかったと記載されている年譜)、換言すれば今現在流布している「宮澤賢治年譜」のようなものを基にして証言しなければならなかったという状況下に置かれた、という可能性が大である。
と言いたい。
 そのような特殊な「宮澤賢治年譜」を基にしなければなかった澤里は、自分自身の記憶に自信を持ちつつ、不本意ながら、
……とありますから、確かこの方が本当でしょう。人の記憶ほど不確かなものはありません。
とぼやかなければならなかった、ということであろう。もしかすると、このときの澤里はその当時公になっていた「宮澤賢治年譜」を基にすることが許されない状況下に置かれていたという虞れもあった、ということを必然的に導き出すことにもなる。
 そしてもう一つ大きな問題がある。それは、この「○澤」が昭和31年2月の『岩手日報』に載った際に、
    宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には先生は上京しておりません。
となっている部分がこのままの形で全国に広がることを恐れ、是が非でもそれを防ぎたいと思った故だろうか、この部分を単行本になる際に改竄してしまった人がいた。

 上京してチェロを学ぶしかないと決意
 さて以前述べたように、
◇楽団を解散はしたものの、少なくとも昭和2年の秋頃までの賢治はチェロの練習をあの「一年の計」に則って一生懸命続けていたであろうと思われる。
のだが、その頃の賢治のチェロの腕前はどうであったか。残念ながらそれは、少なくとも教え子澤里の証言「実のところをいうと、ドレミファもあぶなかった」とか、友人藤原嘉藤治の証言「それもまったく初歩の段階で、音楽の技術は幼稚園よりまだ初歩の段階」という程度の腕前を超えるものではなかったことになろう。
 もちろん、いくらチェロの独習をし続けても自分の腕前が全く上がっていないことは賢治自身も気付いていたであろう。それゆえ、賢治は何とか新たな方途を探らねばならないと思ったに違いない。チェロが上手くなるにはもはや上京して誰かに就いて教わらねばならぬと、そう賢治は思い詰めるようになっていったのではなかろうか。
 そして、もしかするとそれが昭和2年9月の上京だったのかもしれないし、少なくとも昭和2年11月頃の霙の降る日の上京の方はまさしくずばりそのためだったということは言えよう。
 ところで、『宮沢賢治物語』の中の「セロ 沢里武治氏からきいた話」の中に次のような証言、
 セロについて思い出されることは、先生はセロの取り扱いに実に細心の注意を払われ、私以上の(ママ)他の人にはなるべく手に触れさせないようになさいました。セロは基本から始められたので、自在に弾きこなすというところまではいかなかつたのですが、その後、病気をされたり、農村をかけずりまわつたり、いろいろ忙しくなつたことは、先生も心残りに思つておいででしよう。
             <『宮沢賢治物語』(関登久也著、岩手日報社)218pより>
がある。
 この証言からは次の2つのことが窺える。
 その一つは、賢治はチェロを基本から学び始めたが、それがあまり上達せぬままに、病気になったということである。
 そして、この病気はあの昭和3年8月10日に実家に戻ったときのものかなと一瞬思ってしまうが、「その後、病気をされたり、農村をかけずりまわつたり」の順番に語られているから、チェロが上達せぬままに病気になり、その病気が癒えた後には農村をかけずり回ったということとなりそうで、この病気は昭和3年8月に罹ったものではなさそうである。この昭和3年8月の場合はその後に「農村をかけずりまわつたり」はしていないからである。
 さらには、「お疲れのためか病気もされた」と言っているところの病気とはかつての「宮澤賢治年譜」では「通説」であった「昭和3年1月 …漸次身體衰弱す」のことを意味し、「農村をかけずりまわつた」とは昭和3年3月15日から一週間ほど開催された石鳥谷肥料相談所などのことを意味しているとすればピッタリと符合するからである。
 もう一つは、賢治はとりわけ澤里のことを信頼していたということである。もちろんそれは賢治のチェロについて「私以上の(ママ)他の人にはなるべく手に触れさせないようになさいました」と澤里が語っていることから容易にわかる。
 ところが、このような師弟関係はこの澤里の証言だけからではなく、賢治が澤里に宛てた書簡からも汲み取れる。書簡のやりとりが多いこともそれを物語っていると思うが、賢治が澤里に結構いろいろなことを頼んでいること、例えば「栗の木についたやどりぎを二三枝とってきてくれませんか」(『校本全集第十三巻』書簡〔255〕より)とか「あなたの家の山の岩も採って置いて見せてくださるなら…」(同〔339〕より)というその内容からも窺える。二人の信頼関係は極めて厚かった。それゆえに、賢治は澤里にだけは次のような想いを語っていたということが考えられる。「近々上京して先生について本格的にチェロを学ぶことにした」と。

 賢治大金五百二十円を懐に
 ここからはまた思考実験開始である。

 そしてその頃、賢治にはそれが可能となる原資も手に入った。
 さて、下根子桜時代の賢治の経済的基礎に関しては菊池忠二氏が『私の賢治散歩(下巻)』の75p~で詳しく既に論考しており、私がいまさら言及すべきことはないのだがこの「五百二十円」に関してだけ少しだけ私見を述べたい。
 そもそも、下根子桜時代2年4ヶ月余の賢治は定収入などなく、臨時収入さえも同様に殆どなかったはずである。一体賢治はどのようにしてその時代の経済的基盤を維持したのだろうか不思議でならなかった。いくら清貧・粗食で過ごしたとはいえ、その時代に例えば少なくとも2回の上京・滞京、
 ・大正15年12月2日~同月29日頃
 ・昭和3年6月6日~同月23日頃
さえもしているのだからかなりのお金が必要であったであろうことは想像に難くない。
 さてそれが、たまたま『新校本年譜』(筑摩書房)を眺めていたならば
六月三日(木) 本日付で、県知事あての「一時恩給請求書」が提出される。
              <「新校本年譜」(筑摩書房)314pより>
とあり、その註釈によればこれは平成11年11月1日付岩手日報の記事に依るものだということを知った。
 その記事を実際に見てみると、その内容は次のとおり。
 宮沢賢治が大正十五年に三十歳で県立花巻農学校を退職する際、得能佳吉県知事(当時)に提出した「一時恩給請求書」一通と、添付した履歴書二通が見つかった。…(略)…
 文書提出の日付は大正十五年六月三日で、同年三月三十一日をもって稗貫郡花巻農学校教諭を退職したため一時恩給の支給を願い出ている内容。履歴書は大正七年四月十日稗貫郡の嘱託として無報酬で水田の土壌調査に従事したことから始まって花巻農学校教諭兼舎監を退職するまでの職歴、退職理由として「農民藝術研究ノ為メ」と記す。
 賢治の請求を受けて県は大正十五年六月七日に一時恩給五百二十円を支給する手続きをとった。これを裏付ける県内部の決裁書類も合わせてとじ、保管している。
 県総務学事課の千葉英寛文書公開監は「恩給は今で言う退職金であろう。…」
              <平成11年11月1日付『岩手日報』23面より>
 まさか下根子桜時代に賢治が五百二十円もの大金を懐にしていたであろう時があったなどということは、今まで予想だにしていなかった。ところがこれだけのお金があれば話は違う。もしかするとこの大金が懐に入ったことが、清貧・粗食とはかけ離れた、吃驚するような大金を必要とする行動に結びついたのではなかろうかと想像できた。
 そこで想像を逞しくすれば、以下のようなことが言えないだろうか。
 一年の計「本年内セロ一週一頁」を立てて一生懸命独習してきたチェロだが、一向に上手くならない。やはり、東京でチェロの指導者について学ぶしかないのか、と次第に思い詰めるようになっていった頃の賢治に吉報が舞い込んだ。以前に申請していた「一時恩給(退職金)」大金五百二十円がやっと支給されるという。一年前の12月の約一ヶ月弱の滞京に際しては、父政次郎に大部金銭的な援助をしてもらっているからそれと似たようなことを再びすることは流石に気がひける。しかしこれだけの大金があれば、長期間滞京しながら、チェロの指導者に就いて本格的にチェロを学べる。せっかちな性向のある賢治だから矢も楯もたまらず、早速行動に移した。
 なお、賢治のせっかちな性向から逆に推測すれば、この大金が手に入ったのは昭和2年の11月頃だったという可能性が大である。(思考実験終了)

 澤里はチェロを背負って花巻駅へ
 さて、賢治と澤里武治の二人は信頼の厚かった師弟関係だったし、「実のところをいうと、ドレミファもあぶなかったというのが…」と澤里が後に証言している訳だから、澤里は賢治のチェロの上達がはかばかしくないことに心を痛めていたに違いない。なぜなら、澤里は「羅須地人協会へは幾十回となくおたずねしました」(『賢治随聞』(関登久也著、角川選書)223p)と証言しているから澤里はしょっちゅう下根子桜に行っていたことになり、一方では賢治は澤里にだけはチェロを触らせていたというから、賢治はしばしば澤里の目の前でチェロを弾いて見せたと思われるからである。
 さて次からはまた思考実験である。

 そもそも賢治の最高級のチェロは一年前に父に無心したあの「二百円」で誤魔化して購ったものである。ために、そのチェロは父には気付かれぬように下根子桜の別宅に置きながら一生懸命練習をしてきたが全く上手くならない。しかし、チェロが少しは上手くなりたいし、このまま独習していたのではそれは無理だということも賢治は覚った。
 なんとかせねばと思っていたところに、タイミング良く花巻農学校の退職金五百二十円が懐に入った。これだけの金があれば約三ヶ月間滞京しながらチェロを教えてもらえる。思い付いたならばすぐさま実行に移す天才賢治の性向を発揮して上京を決意。そして一方では、このときの上京は父政次郎に気付かれる訳にはいかない。まして、今年もまた「チェロを学ぶために少なくとも三ヵ月滞京したい」などとは口が裂けても言えない。
 ただし、最愛の弟子澤里にだけは知らせた。賢治は澤里だけを伴にしてそっと花巻駅へ行こうと思った。(思考実験終了)
 いよいよ賢治がそれを決行した昭和2年の11月頃のある日は霙の降る日だった。その時の様子は以前に少し触れたように次のようなものであった。
 その霙が降る寒さの中を、賢治は身まわり品を詰めこんだかばんを持ち、澤里は黒いチェロのケースに紐をかけて肩に背負い、途中にある豊沢町の実家にも立ち寄らずに、二人はそっと羅須地人協会から花巻駅へ直行した。

 澤里一人賢治を見送る
 では今度は、「○澤」の次の部分についてである。
 その上京の目的は年譜に書いてある通りかもしれませんが、私と先生の交渉は主にセロのことについてです。
 もう先生は農学校の教職もしりぞいて、根子村桜に羅須地人協会を設立し、農民の指導に力を注いでおられました。その十一月のびしょびしよ霙(みぞれ)の降る寒い日でした。
『沢里君、しばらくセロを持って上京して来る。今度はおれも真剣だ。少なくとも三ヵ月は滞京する。とにかくおれはやらねばならない。君もバイオリンを勉強していてくれ』
 よほどの決意もあって、協会を開かれたのでしょうから、上京を前にして今までにないほど実に一生懸命になられていました。
 その時みぞれの夜、先生はセロと身まわり品をつめこんだかばんを持って、単身上京されたのです。
 セロは私が持って、花巻駅までお見送りしました。見送りは私一人で、寂しいご出発でした。立たれる駅前の構内で寒いこしかけの上に先生と二人ならび汽車を待っておりました…(中略)…
 乗車されると、先生は窓から顔を少し出して、
『ご苦労でした。帰ったらあったまって休んでください。』
 そして、しっかり勉強しろということを繰返し申されるのでした。汽車が遠く遠く見えなくなるまで、先生の健康と、そしてご上京の目的が首尾よく達成されることを、どんなに私は祈ったかしれません。
              <昭和31年2月22日付『岩手日報』より>
 この部分については既に検討したところであり、同じことを繰り返すことは避けたい。ただし、次の4点だけは確認しておきたい。
 まず一点目は、澤里はここでも12月とは言わずに重ねて「その十一月の…」と言っているということをである。前に一応「確かこの方が本当でしょう」と言ってはみたものの、澤里は心の底ではそう思っておらず自分の記憶の方が実は正しくて、あくまでもそれは11月であると確信していた、あるいはそう主張したかったのではなかろうかということが察せられる。
 二点目は、「上京を前にして今までにないほど実に一生懸命になられていました」という証言からは、この上京直前にも澤里はしばしば下根子桜に出入りしていたであろうということである。この証言はその直前の賢治の一生懸命な姿勢をしばしば見ていなければ語れない内容であるからである。なおこれは、以前にも触れた澤里の証言「羅須地人協会へは幾十回となくおたずねしました」(『賢治随聞』(関登久也著、角川選書)223p)とも符合する。
 そして三点目は、今まではあまり気にも留めていなかったところだがそれは「そのみぞれの夜」である。もっと限定して云えば、下根子桜から花巻へ向かった時間帯は「夜」だったことである。これは、当日賢治は豊沢町にも立ち寄らなかったし、父にも気付かれたくなかったと前に判断したが、そのことを傍証している。この時間帯であれば、かばんを持った賢治とチェロ箱を背負った澤里の二人が駅に向かってもほぼ周りから気付かれる虞れはあまりない。当時の花巻は昨今と違って街灯がほとんどなかったはずだからである。
 最後の四点目は、この証言部分は具体的であり詳細であるし、以前にも述べたように澤里は信頼に足る人物と見ていいようだから、この「○澤」はほぼ事実を述べていると判断して良さそうだということである。
 つまるところ、
◇霙の降る昭和2年の11月頃のある夜、父に見つからぬようにして下根子桜から花巻駅に行った賢治は、少なくとも三ヵ月間滞京してチェロの練習をすると決意して、一人澤里に見送られながら花巻駅を発った。
のである、と。

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