みちのくの山野草

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2021-03-16 16:00:00 | 賢治昭和二年の上京

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▽ゴシック体(ブログ版では緑色)=引用文
▽教科書体(ブログ版では黄緑色)=私見
▽帰花=花巻に帰ること
▽「♣」 次のような仮説のことである。
 賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、3ヶ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその結果病気となり、昭和3年1月に帰花した。

 なお検証に耐えたならば、記号を「♧」に替える。
▽「♥」 宮澤清六編「宮澤賢治年譜」にある次の記述である
昭和三年一月、…この頃より過勞と自炊による栄養不足にて漸次身體が衰弱す。
              <『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房、昭和17年)259p>
▽「通説○現」 大正15年の次ようなの「現通説」のことである。
一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち沢里と改姓)武治がひとり見送る。「今度はおれもしんけんだ、とにかくおれはやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」と言ったが高橋は離れ難く冷たい腰かけによりそっていた(*65)。
              <『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(筑摩書房)325p>
▽「○随」 次の証言のことである。
○…昭和二年十一月ころだったと思います。…(略)…その十一月びしょびしょみぞれの降る寒い日でした。
 「沢里君、セロを持って上京して来る、今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる、君もヴァイオリンを勉強していてくれ」そういってセロを持ち単身上京なさいました。そのとき花巻駅でお見送りしたのは私一人でした。
              <『賢治随聞』(関登久也著、角川選書)215p>
▽「○三」 次の証言のことである。     
そして先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ帰郷なさいました。
             <『賢治随聞』(関登久也著、角川選書)215p>
▽「○柳」 賢治の上京に関する柳原昌悦の次の証言である。
一般には澤里一人ということになっているが、あのときは俺も澤里と一緒に賢治を見送ったのです。何にも書かれていていないことだけれども。
             <『羅須地人協会の真実 ―賢治昭和二年の上京―』 (鈴木守著、友藍書房、平成25年)15p >    
▽「○清」 「下根子桜時代」に関する伊藤清の次の証言である。
上京されたことがあります。そして冬に、帰って来られました。
              <『宮澤賢治物語』(関登久也著、岩手日報社)268p>
▽「○澤」 以下のような澤里武治の証言のことである。
どう考えても昭和二年の十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には先生は上京しておりません。その前年の十二月十二日のころには
『上京タイピスト学校において知人となりし印度人ミー(ママ)ナ氏の紹介にて、東京国際倶楽部に出席し、農村問題につき飛び入り講演をなす。後フィンランド公使と膝を交えて言語問題につき語る』
 と、ありますから、確かこの方が本当でしょう。人の記憶ほど不確かなものはありません。その上京の目的は年譜に書いてある通りかもしれませんが、私と先生の交渉は主にセロのことについてです。
 …(中略)…その十一月のびしょびしょ霙(みぞれ)の降る寒い日でした。
『沢里君、しばらくセロを持って上京して来る。今度はおれも真剣だ。少なくとも三ヵ月は滞京する。とにかくおれはやらねばならない。君もバイオリンを勉強していてくれ』
 よほどの決意もあって、協会を開かれたのでしょうから、上京を前にして今までにないほど実に一生懸命になられていました。
 その時みぞれの夜、先生はセロと身まわり品をつめこんだかばんを持って、単身上京されたのです。
 セロは私が持って花巻駅までお見送りしました。見送りは私一人で、寂しいご出発でした。立たれる駅前の構内で寒いこしかけの上に先生と二人ならび汽車を待っておりましたが、先生は
『風邪をひくといけないから、もう帰って下さい。おれは一人でいいんです』
 再三そう申されましたが、こんな寒い夜に先生を見すてて先に帰るということは、何としてもしのびえないことです。また一方、先生と音楽のことなどについてさまざま話合うことは大へん楽しいことです。…(中略)…
 手紙の中にはセロのことは出ておりませんが、後でお聞きするところによると、最初のうちはほとんど弓を弾くことだけ練習されたそうです。それから一本の糸をはじく時、二本の糸にかからぬよう、指を直角に持っていく練習をされたそうです。
 そういうことにだけ幾日も費やされたということで、その猛練習のお話を聞いて、ゾッとするような思いをしたものです。先生は予定の三ヵ月は滞京されませんでしたが、お疲れのためか病気もされたようで、少し早めに帰郷されました。
               <昭和31年2月22日、同23日付『岩手日報』より>

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