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「粗雑な推定」とは

2024-02-14 12:00:00 | 濡れ衣を着せられた高瀬露









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********************************** なお、以下は今回投稿分のテキスト形式版である。**************************
 「粗雑な推定」とは
 一週間後三人はまた集まった。
鈴木 知ってのとおり、昭和42年に生活文化社から『雨ニモマケズ手帳』の複製版が出たわけだが、その解説書『宮沢賢治『手帳』解説』において、
 拙著研究では、この詩のテーマになっていると思われる一人の女性について粗雑な推定を敢えてした。しかしその後思うところあり、右の推定は取消((ママ))にする。
<『宮沢賢治『手帳』解説』(小倉豊文著、生活文化社)39頁より>
と小倉は妙なことを述べていた。
荒木 俺も『「雨ニモマケズ手帳」新考』を調べていたら、やはりそれと似たような内容の、
 私は本書初版で森・関両氏の著によって以上の件の大略をこの詩のテーマと推考して述べたが、私の行文が不備だった為に高橋氏から批難を受けたので、その後手帳複製版解説では一応全面的に取消した。
<『「雨ニモマケズ手帳」新考』115pより>
が気になった。
吉田 やはりな、僕もそうだった。
鈴木 それではまず、
   「拙著研究」=『宮澤賢治の手帳 研究』
ということは決まりでいいだろ。そして、おそらく次のような顚末だったということになろう。
(a) 小倉は最初に出版した『宮澤賢治の手帳 研究』において、森・関両氏の著によって件の大略をこの詩のテーマと推考して述べた。
(b) ところが、この「大略」は「行文が不備だった為」に高橋慶吾から強く批難された。
(c) そこで、次に出版した『宮沢賢治『手帳』解説』において、先の「大略」では「一人の女性について粗雑な推定を敢えてした」ということを公に認め、かつその「粗雑な推定」を「取消し」た。
荒木 そこまでは納得。ただし小倉が「取消し」たというところのその中身そのもの、つまり「粗雑な推定」が見えない。
鈴木 それなんだが、私にもこの先がよく見えてこない。ただ、小倉は『宮澤賢治の手帳 研究』の中で、例の詩〔聖女のさましてちかづけるもの〕をまず取り上げ、「この詩を讀むと、すぐに私はある一人の女性のことが想い出される」と前置きして、続けてそれこそ「大略」を述べているということなのでその部分がどこかということだけがわかっただけだ。
 この部分が小倉が言っているところの「大略」だろう。が、そのうちのどの部分が「粗雑な推定」に該当するのかわからん。
荒木 どれどれちょっと見せてくれ。……やっぱりだめだ。これじゃちょっとやそっとのことではどこが「粗雑な推定」なのかわからん。
吉田 そこでだ、実は僕は今回その「大略」の分析をしてみたからこのプリントを見てくれ。

│ 大正十五年四月、花巻郊外の櫻で自耕自炊の獨居生活をは│
│じめた賢治は…(略)…農業技術の指導講話をしたりしはじめ│
│た。その頃、協會員の一人の紹介で、花巻の西の方の村で小│
│學校教師をしている若い一人の女性が賢治の家に出入りする│
│ようになつた。彼女はその勤めている學校で賢治が農業の指│
│導講話をした時に、はじめて彼を見たのである。當時田舎に│
│は珍しいクリスチャンであつたと言う彼女であるから、①恐│
│らく新しい科學や藝術にあこがれていた女性であり、それ故│
│に、賢治のはじめた仕事にも深い關心を抱いたであろうこと│
│は當然であろう。更に想像をたくましくすれば、當時田舎に│
│は數少ない高等教育を受けていた賢治であり、田舎はもとよ│
│り都會を含めて日本にも珍しい科學と藝術の天才であり、世│
│界でも珍しい仕事をはじめた賢治であり、當時三十一歳の獨│
│身生活者であつた賢治であるから、彼女の關心は賢治の仕事│
│よりも賢治その人にあつたのであるかも知れない。 │
│ とにかく、②クリスチャンらしい「聖女」として、新しい科│
│學や藝術を探究する「弟子」として、賢治と彼女との交渉はは│
│じまつたのである。男だけの集まる協會であるから、一人の│
│女性のいることは室内の整備にも、劇の出演者に女の必要な│
│場合にも便利であつた。賢治もはじめは「しつかりした人だ」│
│と協會員にも語つてよろこんでいたらしい。ところが、この│
│女性は來る每に花や食物やいろいろの品物を持つて來るよう│
│になつた。賢治は他人に物をやつたり御馳走したりすること│
│は好きだが、他人からそうした心配をされることは大きらい│
│であり、そうした行為には必ず過分の返禮するのを忘れなか│
│つた。こうした賢治の片意地と思われる程の「義理堅さ」につ│
│いては、實に多くの逸話があるが、こゝでは割愛する。とに│
│かく賢治はこの女性に對してもその都度何かしらきつと返禮│
│していた。しかし、③彼女の贈物と訪問は加速度に激しさを│
│加え、賢治の寢ている内に訪ねて來たり、遠いところを一日│
│に二度も三度もやつて來たりするようになつた。賢治はほと│
│ほと困つてしまつた。「本日不在」と貼紙をしたり、顏に墨を│
│塗つて會つたりしたこともあるという。だが、こうした賢治│
│の態度は益々彼の女の彼に對する思慕愛戀の情を燃えさから│
│すばかりであつた。賢治は返禮の品物に行きづまつたのであ│
│ろう。ある時は布團をお返しにおくつたこともあるという。│
│こうしたことは、賢治にとつては全く他意のあることではな│
│かつたのであるが、常識的にそうは思われない。彼女はその│
│勤めている村に新しい家を借り、世帶道具を調えて、いつで│
│も彼との結婚生活がはじめられるように設計もしていたとい│
│う。 │
│ ある時、近郊の村の人々が數人、賢治の家―羅須地人協會│
│―を訪ねた。賢治はその人たちを二階に招じて談笑していた。│
│その時、この女性はすでにそこに來ていて、しきりに台所で│
│何か體を動かしていた。間もなく彼の女はその手料理のライ│
│スカレーを二階の客の前に運びはじめた。全く新家庭の新婦│
│人振りである。賢治はほとほと困つてしまつて「この方は○│
│○村の小學校の先生です」と人々に紹介した。人々はぎこち│
│なく默つて彼と彼の女とライスカレーをぬすむように見まわ│
│した。そして、とにかくライスカレーを食べはじめた。しか│
│し賢治だけは食べない。彼女は勿論彼にもたつてすゝめた。│
│だが彼は「私にはかまわないで下さい。私には食べる資格が│
│ありません」と答えて頑として箸をとらなかつた。彼女は │
│④ヒステリックに身體をふるわせ、顔面蒼白になつて物も言│
│わずに階下にかけ下りてしまつた。と間もなく、荒れ狂う野│
│獸の⑤咆哮のような、オルガンの音がきこえはじめた。賢治│
│が注意深く外に音のもれないように工夫し、毎夜人がねしず│
│まつた頃を見計らつては練習していたオルガンを、その女性│
│が無茶苦茶にやけに鳴らしているのである。彼は急いで下に│
│降りて行つて言つた。 │
│ 「みんなひるまは働いているのですからオルガンは遠慮 │
│してください。止めて下さい。」 │
│ 賢治にしては珍しく高くてするどい叱聲であつた。しかし、│
│オルガンの⑥「狂想曲」は中々やまなかつた。再び二階に上つ│
│て來た賢治の顏の表情は押え切れない怒りに燃え、蒼黑くさ│
│え見えて人々はどうにもならぬ困惑を感じたということであ│
│る。 │
│ この事件は、昭和三年の八月、彼が病氣で倒れたのを機會│
│に自然に終末をつげたが、熱中した戀愛が成就しなかつたこ│
│の女性は、その後、賢治について惡口をいろいろ觸れ廻つた│
│らしい。⑦無理もないことであろう。「外面菩薩内面如夜叉」│
│と言う佛教のいい古された格言がかなしく思い出される。 │
│ この事については賢治もながく隨分氣にかけていたらし │
│い。その最期の一年間ばかり前、一時病氣が輕くなつていた│
│頃、彼は關登久也氏を訪ねて、知人が自分をいろいろ中傷す│
│ることについて、事のいきさつを語り、了解を求めたと言う。│
│こんな、自分の言動について他人に了解を求めるようなこと│
│は、賢治の生涯には絶えてなかつたのに――。 │
│ 以上の事件に關しては、私は森荘已池氏の「宮澤賢治と三│
│人の女性」及び關登久也氏の「宮澤賢治素描」の記事、乃至兩│
│氏の實話によつてその大體を述べただけである。この女性が│
│果たして「聖女のさましてちかづけるもの」であつたかなかつ│
│たか。それは神のみぞ知ることであろうが、この詩を讀む度│
│に思い出されるまゝに記しておく。 │
│<『宮澤賢治の手帳 研究』(小倉豊文著、創元社)101p~より>│

荒木 それで、この傍線部の意味と違いは何だ?
吉田 それは、僕が分析してみようと思って勝手に付け足したもので、もちろん原典に傍線は付いてはいない。
 具体的には、小倉が述べているように、
 森・関両氏の著によって以上の件の大略をこの詩のテーマと推考して
ということだから、小倉が引用したであろうと思われる個所にそれぞれ次のように出典の違いによって、
  ・『宮澤賢治と三人の女性』から: 〝  〟
  ・森と関の両著から      : 〝  〟
と区別して傍線を付けてみた(註: 〝  〟については後程説明する)。なお、関の『宮澤賢治素描』が単独で引用されている個所はないということもこれで判った。
鈴木 するとそのことからは逆に、関の『宮澤賢治素描』(協榮出版)の出版は昭和18年で、森の『宮澤賢治と三人の女性』(人文書房)の出版が昭和24年ということも併せて考えれば、『宮澤賢治素描』に出てきている証言等の多くが『宮澤賢治と三人の女性』において引用されている、ということになりそうだね。
吉田 そう、確かにそうだった。
 それでは小倉自身が「粗雑な推定を敢えてした」と言っている部分はどこか。それはもちろん、少なくとも傍線〝  〟や〝  〟が付かなかった残りの部分にあることになる。
 そこでこれから、残りの部分の中で僕からすれば「粗雑」と思える個所に今度は傍線〝  〟と番号をそれぞれ付け足してみよう。するとそのようなものとしてはこのように<①>~<⑦>の7個所がある。
 まず驚くのが傍線部<⑦>だ。「外面菩薩内面如夜叉」という痛烈で辛辣な言葉を用い、しかもこれは前段の推定「この事件は、…賢治について悪口をいろいろ觸れ廻つたらしい」に対しての小倉自身の評価に過ぎないわけだから、そのことをこのようにを活字にしてしまったならば、『小倉豊文は高瀬露に対しては研究者としての立場を逸脱している』などと誹りを受けてしまうのではなかろうかということを、僕はついつい危惧してしまう。
鈴木 そうか、やっと私にも少しずつ見えた来たぞ。となれば、露を『最初に先生のところへ連れて行つたのが私であり、自分も充分に責任を感じてゐるのですが』(『イーハトーヴォ(第一期)創刊号』)と語っている高橋慶吾からすれば当然不満を抱くこともあろう。とりわけ、「粗雑」すぎるこの<⑦>については慶吾から批難される可能性が極めて大だろう。
 そして一方、それほど極端ではないにしても、森・関の両著に述べられていないことでなおかつ「粗雑」と思われる個所としての <①>~<⑥>には小倉らしからぬ表現がある。特に、「ヒステリック」とか「咆哮」とか「狂想曲」という表記は森も関も自身の著作ではしていないはずで、これは小倉独自のものと考えられるから、慶吾のみならず私だって極めておかしいと思う。
吉田 そうなんだよな。小倉は研究に対してはいつも厳しい態度で臨む((註十三))「考証的な文化史学の徒((註十四))」だったはずだから、かなりの程度検証した上で論じているだろうと思っていただけに、「粗雑な推定を敢えてした」と語っている小倉の姿勢は僕にとっても極めて意外だった。
荒木 ということは、もしかすると小倉は「乃至兩氏の實話」とも言っているのだから、これらの<①>~<⑦>は森や関から直接聞いたとでもいうのだべが。
吉田 それはあり得るが、もしそうであったとしても、<②>~<⑦>は皆「粗雑な断定」でこそあれ「粗雑な推定」ではないから、小倉の「粗雑な推定を敢えてした」という言に従えば、その候補は唯一<①>しかない。したがって、当然それはどう転んでも当選するので、「敢えてした」という粗雑な推定は<①>でしかない。
荒木 あっそうか、候補者は一人だから無投票で当選するんだ。
鈴木 なるほど。かといって、<①>であったならば取りたてて慶吾が批難するほどのものでもなけれな、批難されて「取消し」をするほどのことでもなかろう。取消すのであれば、それよりもはるかに<②>~<⑦>の方だろう。
 もちろん、そうなるとこれらは「粗雑な断定」だから小倉の言っていることとは矛盾するけども…。
吉田 ある面では、森や儀府のゴシップ記事のような扱いにも辟易とするが、この小倉の「粗雑な推定と断定」にもそれと似たところがないわけでもなく、僕はとても残念だ。
荒木 どうやらこのことに関しては、小倉は客観性も冷静さも共に失っていたようだから、〈「押しかけ女房」的な痴態にも及んだ「悪女」〉はさておき、少なくとも小倉が活字にした「露の強引な単独訪問はその後も続いた」や「露は賢治を悪しざまに告げ口した」は、果たして事実だったかどうかはかなり危ういな。
鈴木 それはそうだよ。慶吾から批難されたということで、その後、「手帳複製版解説では一応全面的に取消した」と言っているくらいなのだから。
吉田 しかしあの小倉が、よりによって自嘲的な「粗雑な推定」という表現をし、続いて次に今度は一転して「敢えて」というような開き直りともとれる表現をし、しかも実際に「取消し」たというわけだ。となれば、「一応」と書き添えてはいるものの、小倉の内心は屈辱と悔しさとで一杯であったろう。
******************************************************* 以上 *********************************************************
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*****************************************************《上田哲の論文掲載の経緯等》********************************************
 『宮澤賢治と高瀬露』は上田哲との共著であり、次の二部構成になっている。
   Ⅰ 「宮沢賢治伝」の再検証㈡ ―〈悪女〉にされた高瀬露―       上田 哲
   Ⅱ  聖女の如き高瀬露                       鈴木 守
 そしてこの共著の最初の頁を、 
【「「宮沢賢治伝」の再検証㈡― <悪女>にされた高瀬露―」の転載について】

としたように、不思議なことに、上田哲の上掲論文「「宮沢賢治伝」の再検証㈡ ―〈悪女〉にされた高瀬露―」が所収されている『七尾論叢 第11号』が所蔵されている図書館等は殆どなく、私が調べた限りでは唯一金沢大学付属図書館だけだった。よって、一般市民が同論文を読むことは事実上困難である。
 そこで、この論文を多くの人々に読んでもらいたいと願って、上田哲のご遺族から同論文の転載許可をいただき、その旨を当時の同論叢の編集委員であった三浦庸男氏(埼玉学園大学教授)にご報告したところ、もはや七尾短期大学は存在していなこともあり、転載は問題ないだろうという御判断を頂戴したので転載させていただいた次第である。
 ちなみに、著作権のこともあるので同論文の全てはここには載せられないが、その「1頁目」は、
【「「宮沢賢治伝」の再検証㈡― <悪女>にされた高瀬露―」の1頁目】

であり、その最終頁は、
【「「宮沢賢治伝」の再検証㈡― <悪女>にされた高瀬露―」の21頁目】

となっている(ただし、なぜか未完に終わっている)。

 同論文の全てを載せることは著作権の関係上本ブログでは出来なかった。また、この共著『宮澤賢治と高瀬露』の在庫はもうありません。ただ、この上田哲の論文「「宮沢賢治伝」の再検証㈡ ― <悪女>にされた高瀬露―」は、令和2年に出版した

 『宮沢賢治と高瀬露―露は〈聖女〉だった―』 (森義真、上田哲との共著、露草協会編、ツーワンライフ出版)
     

にも所収されていますし、同書は現在アマゾン等でも販売されておりますのでどうぞそちらでご覧下さい。

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