みちのくの山野草

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4 千葉恭の三男に会う

2024-01-25 08:00:00 | 賢治と一緒に暮らした男



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********************************** なお、以下は今回投稿分のテキスト形式版である。**************************
4 千葉恭の三男に会う
 切れかかっていた糸がもしかすると繋がるかも知れない…。わくわくしながら胆沢図書館からの回答を待っていると、それは期待通りのものであった。
 千葉恭の三男F氏と連絡が付く
 胆沢図書館からの回答は
「Fさんの住所が判りました。また、Fさんからあなたに電話番号を教えてよいという了解ももらいましたので直接連絡を取ってみて下さい」
であった。私は喜びのあまり抃舞した。もう千葉恭に近づくことはほぼ不可能と思っていたのに三男のF氏の連絡先が判ってしまったではないか、と。
 早速私は教えてもらった電話番号先に電話を掛けた。
「私はFさんのお父さんの恭さんのことを知りたいと思っている者です。お父さんは約半年ほど宮澤賢治と一緒に暮らしたと聞いているのですが、そのことに関して教えていただきたく、近いうちにお邪魔したいのですが宜しいでしょうか」
と。するとF氏は
「それはいいのですが、父が宮澤賢治と一緒に暮らしたとは聞いているが、父はそのことを私達にはあまり喋らなかったし、私も聞きもしなかったので多くのことは知らないのです。それで宜しかったならばどうぞお越し下さい」
というので私はもちろん喜んで、是非お願いしますと言って訪問の日を約束してもらった。
 三男F氏の許を訪ねる 
 さて約束の当日、雪の舞う中を先ずは胆沢図書館に向けて車を飛ばした。今回のF氏紹介のお礼を述べようと思って立ち寄ろうとしただけでなく、実は、もしF氏の自宅へ行く場合には立ち寄ればその場所を教えますからと胆沢図書館の方は親切に言ってくれていたからその好意に甘えようとしたこともあった。図書館に立ち寄ったならば館長さんがわざわざF氏の住所略図を描いてくれた。図書館の有り余る親切に恐縮し、感謝しながらそこを後にしてその地図を見ながらF氏の自宅へ向かった。
 F氏の自宅はその図書館からそう遠くないところにあった。多少緊張しながら玄関のチャイムを押すと私よりやや年配の男性が出てきてくれた。千葉恭の三男F氏その人であった。そしてお聞き出来た賢治に関わる事柄を箇条書きにすれば次のようになる。
・父は賢治のことは多くは語らなかった。
・穀物検査所は上司とのトラブルで辞めたと言っていた。
・父は穀物検査所を辞めたが、実家に戻るにしても田圃はそれほどあるわけでもないので賢治のところへ転がり込んで居候したようだ。
・穀物検査所をいつ辞めていつ復職したかは分からない。
・トマトだけ食わなければなかったこともあったと父は言っていた。
・賢治は泥田に入ってやったというほどのことではなかったとも言っていた。
・昭和8年当時父は宮守で勤めていて、賢治が亡くなった時に電報もらったのだが弔問に行けなかったと言っていた
・昭和20年のフェーン現象による久慈大火の際に賢治からの手紙などは燃えてしまったと言っていた。
・父が集めた資料は残っていない。
・NHKからの取材があったこともあるがその際にもあまり応えなかった。
・昭和28年にNHKの賢治に関わる座談会に出たことがあり、その記念品を持っていた。
・父が賢治の小間使いで質屋に行った際、途中で出会った奇妙な電信柱が妖怪に見えたということを賢治に喋ったところ、それがモチーフになって童話の一つが創作されたと言っていた。
・父はマンドリンを持っていた。
などであった。
 千葉恭の出身地判明
 さてF氏に会って教えてもらったことはもう一つあり、それが最も嬉しかったことであり、
  ☆千葉恭の出身地は水沢の真城折居である。
ということであった。このことをまずは知りたくてそれまであちこち駆けずり廻って来た訳だがそのことがやっと判明した。なお、現在その実家の建物には誰も住んでいないということも知らされた。また未だ公になっていない千葉恭の写真を見せてもらった。それがこの本の表紙の写真である。昭和10年頃の若かりし千葉恭の写真であり、なかなかハイカラな人である。
 というわけでまとめてみると、F氏に会うことが出来た結果、
千葉恭に関しては
・いつからいつまで下根子桜で生活していたかは不明。
・穀物検査所をいつ辞め、いつ復職したかたも不明。
・久慈大火後に千葉恭が集めたであろう賢治に関する資料は現存せず。
・出身地は水沢区真城折居である。
ということが確認できたことであった。
 これでやっと念願の千葉恭の実家の住所(出身地)が判ったし、私としては2葉目の写真も見ることが出来て一気に千葉恭に近づけたような気がした。そして、私の知る限り、千葉恭の出身地を公に正しく明らかにしている宮澤賢治研究家はいないと思うから、それが判明出来たので大いに満足であった。
 下根子桜寄寓の切っ掛け
 以前、『イーハトーヴォ復刊2号』の中で
「(宮澤賢治は)次第に一人では自炊生活が困難になって来たのでしょう。私のところに『君もこないか』という誘いが参り、それから一緒に自炊生活を始めるようになりました」
と寄寓の切っ掛けを千葉恭が語っていたことを知った。一方、このことに対してF氏は
「父は上司とのトラブルが生じて穀物検査所を辞めたようだが、実家に戻るにしても田圃はそれほどあるわけでもなし、賢治のところへ転がり込んで居候したようだ」
と私に教えてくれた。そういえば千葉恭は実家の水田は8反歩、畑が5反歩と言っていたはずだからたしかにそれほど田圃は広くはない。まして昔は今と違って、途中で職を辞めることは恥ずかしいことであるという風潮があったはずだから、穀物検査所に勤め始めて3年目の身としてはおめおめと実家に戻れはしなかったであろう。
 なお今となってしまうと、千葉恭が賢治から誘われたのかそれとも千葉恭が自ら転げ込んだのか、はたまたどちらも本当で互い渡りに舟だったのか?いずれがより本当のところだったのかはもう判らないだろう。あまりにも時は流れすぎてしまったゆえ。
 検証することの大切さ
 ところで、千葉恭は〝気仙郡盛町(現大船渡市盛町)〟出身だという賢治研究家E氏の記述は何かの間違いであるということもこれで判明した。考えてみれば、もし千葉恭が大船渡の盛町出身ならば何もわざわざ遠い水沢農学校に来るまでもなかったろうし、水沢出身ならばまさしく地元でもあり水沢農学校に通うのはごく自然であり、納得。また、彼は帰農後もしばしば下根子桜に通ったということであったが、大船渡の盛町から通うとすれば大変だなと思っていたが、水沢であればそれほどのことはないからその点でも合点した。
 なお第2章の〝千葉恭の生家探し〟において、私は大船渡の盛町を探し回ったけれど結局千葉恭の生家の住所に関しては何一つ有力な情報を掴めなかったということを述べたが、それは当然だったわけである。千葉恭と大船渡の関係で言えば、千葉恭は食糧管理事務所大船渡支所長として盛町で勤めたことがある、ということであろう。
 とまれ、直接三男F氏にお会い出来ていろいろなことが判明したり確定したりしたので私は大いに満足した。F氏にお礼を述べ、感謝しながらF氏宅を辞して自宅のある花巻に車を走らせた。真実を知ることただそれだけで如何に充実感を得、単純に嬉しくなるものだということをあらためて実感しながら。
『月夜のでんしんばしら』
 さて花巻の自宅に戻って早速行ったことは次のことである。
 それは、千葉恭の三男F氏から教わった次のエピソード
・父が賢治の小間使いで質屋に行った際、途中で出会った奇妙な電信柱が妖怪に見えたということを賢治に喋ったところ、それがモチーフになって童話の一つが創作された、と父から聞いたことがある。
について少し調べてみることだった。
 もちろん「奇妙な電信柱」といえば直ぐに思い浮かぶのが童話「月夜のでんしんばしら」である。その書き出しを確認してみると以下のようになっている。
   月夜のでんしんばしら 
 ある晩、恭一はぞうりをはいて、すたすた鉄道線路の横の平らなところをあるいておりました。
 たしかにこれは罰金です。おまけにもし汽車がきて、窓から長い棒などが出ていたら、一ぺんになぐり殺されてしまったでしょう。
 ところがその晩は、線路見まわりの工夫もこず、窓から棒の出た汽車にもあいませんでした。そのかわり、どうもじつに変てこなものを見たのです。
 九日の月がそらにかかっていました。そしてうろこ雲が空いっぱいでした。うろこぐもはみんな、もう月のひかりがはらわたの底までもしみとおってよろよろするというふうでした。その雲のすきまからときどき冷たい星がぴっかりぴっかり顔をだしました。
 恭一はすたすたあるいて、もう向うに停車場のあかりがきれいに見えるとこまできました。ぽつんとしたまっ赤なあかりや、硫黄のほのおのようにぼうとした紫いろのあかりやらで、眼をほそくしてみると、まるで大きなお城があるようにおもわれるのでした。…(略)…
<『注文の多い料理店』(宮澤賢治、角川文庫)>
というわけで、主人公の名前は千葉恭の名〝恭〟を用いた〝恭一〟になっているし、もちろんこの童話の中には「奇妙な電信柱」も登場して来る。したがって、この童話の主人公は千葉恭をモデルにしたものであり、童話のモチーフはこのエピソードから得たものであるということはかなり信憑性が高そうだ。
 ところが一方で、『宮沢賢治必携』(佐藤泰正編、學謄写)によれば「月夜のでんしんばしら」については
〝初出『注文の多い料理店』。初稿の執筆は大10・9・14。〟
となっている。とするとこの童話の執筆時期は、千葉恭が下根子桜で賢治と一緒に暮らしていたと思われる時期(大正15年以降の約半年)より遥か以前のことになる。
 あるいはまた、童話集『注文の多い料理店』の発行は大正13年12月1日であり、その中に「月夜のでんしんばしら」は所収されていることが分かる。したがって、千葉恭が賢治と下根子桜で寝食を共にする以前にこの作品はもう書き上がっていたことになり、彼が息子に語ったこのエピソードが「月夜のでんしんばしら」のモチーフになって創作されたということはあり得ないことになってしまう。時間は遡れないからである。
 またこの他に賢治の童話の中に「奇妙な電信柱」が出てくるものはないはずだ。よって、このエピソードは千葉恭の何かの思い違いか、彼が自分の息子に戯れに語った作り話だったのではなかろうか。
******************************************************* 以上 *********************************************************
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 ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているという。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。
 おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
 一方で、私は自分の研究結果には多少自信がないわけでもない。それは、石井洋二郎氏が鳴らす、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という警鐘、つまり研究の基本を常に心掛けているつもりだからである。そしてまたそれは自恃ともなっている。
 そして実際、従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと言われそうな私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、なおさらにである。

【新刊案内】
 そのようなことも訴えたいと願って著したのが『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))

であり、その目次は下掲のとおりである。

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 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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